2022年11月7日月曜日

〈藤原定家の時代172〉寿永3/元暦元(1184)年2月7日 生田の森・一の谷合戦③ 『平家物語』の叙述を加えた合戦の模様 平重衡と梶原景季 義経の鵯越えの坂落   

 

歌川芳虎 作「源義経 鵯越の間道の図」(刀剣ワールドHP)

〈藤原定家の時代171〉寿永3/元暦元(1184)年2月7日 生田の森・一の谷合戦② 後白河の騙し討ち? 「鵯越」について(義経は鵯越を通っていない) より続く

寿永3/元暦元(1184)年

2月7日 生田の森・一の谷合戦③

〈『平家物語』の叙述を加えた合戦の模様〉

(虚実交じりあっていて、史実と見るには問題がある)

戦いの始まり

延慶本『平家物語』は、大手の陣の備えについて「摂津国生田森を一の木戸口として、堀を掘り、逆茂木を引き、東には堀に橋を引き渡して口ひとつあけたり、北の山より際までは垣盾(かいだて)をかいて、矢間をあけて待ち係たり」と記している。空堀を掘って騎馬武者・従者がそのまま突っ込んでこれないようにし、逆茂木を陣前に並べて馬の足を止め、盾を並べた隙間から一方的に弓を射る防御陣地をつくっている。急拵えの野戦陣地としては十分であり、数で優勢を保っているので、大手が破られることはまずない状況。

範頼は、この布陣に対する攻め方として「大勢を待付て軍はせよ、小勢にて先にすすむで不覚すな」(延慶本『平家物語』)と指示する。追討使は平氏より数が少ないが、戦場は坂東武者が得意とする平野である。それだけに、生田の森の陣地を守る知盛・重衡は防御に徹する合戦をする必要があった。『平家物語』が合戦の中の悲話として語る武蔵国住人河原高直・盛直兄弟が二騎のみで先頭をかけ、平氏方の真鍋五郎助光に一方的に弓を射られて討ち死にしたのは、範頼の指示に従わない無駄な死であった。河原兄弟が先頭を駆ける名誉を獲得したのをみた梶原景時は、500騎を率いて攻めかかったが、一方的に矢を射られた後に、陣地から突出してきた重衡の2千騎に攻め込まれ、取り囲まれて討たれかねない危機に陥った。

『吾妻鏡』は、生田の森の戦いを「源平の軍士等互いに混乱し、白旗赤旗色混ざりて、闘戦の躰をなす」と記録している。重衡が軍勢を率いて突出したことにより、戦いは生田の森を舞台とした野戦へと変化していった。

平重衡と梶原景季

生田の森の戦いで、梶原景時は重衝の軍勢に包囲されそうになったため、退却を指示するが、子の景季が敵中に取り残されてしまった。景時は救出のために軍勢を引き返させる。3騎に減ってもまだ戦いをやめない景季が桜の青葉一枝を箙(えびら)に刺しているのを見て重衡は使者を派遣して、和歌の上の句「こちなくも みゆるものかは さくらがり」を代わりに読み上げさせると、梶原景季は馬から下りて返事を詠むからしばらく待てと下の句の思案に入った。景季は、「いけどりとらむ ためとをもへば」と下の句を詠んで、重衡の使者に返した。これは、この後、梶原の軍勢が重衡を生け捕りにするので、その伏線として創作された可能性がある。

「春風も吹いていないのに、花見をしているようにみえますよ」と上の句を送る重衡に対し、景季は「(雅な)貴方を生け捕りにするためですよ」と桜狩(花見の会)に合わせた返しをしている。梶原氏が、都の教養を身につけた人々だったことを伝える逸話である。結果として、この和歌のやりとりによる休戦は時間稼ぎとなり、軍勢を引き返させた梶原景時は景季の救出に成功した。

平氏には、宮廷人として身につけた雅な習慣や、武門の家の主導者としての矜持の高さがあり、勝つためには何でもするという頼朝の軍勢にみえる貪欲さがない。景季を討ち取ったところで大勢に影響はなく、景季を確実に討ち取ろうという考えはなかった。敵を欺き、味方をも出し抜いてでも手柄を立てようとする坂東武者と、武家としての美意識にこだわりを見せる平氏の人々との間には大きな意識の差があった。

尚、この逸話は桜を梅に換えて「箙」という謡曲に仕立てられていった。

搦手の布陣

『玉葉』2月8日条では、搦手は一の谷を落とした義経と山手から攻めた多田行綱を搦手とし、『吾妻鏡』・『平家物語』は、義経は自ら直率して鉢伏山に登った軍勢と、一ノ谷城を西から攻める浜手に廻った土肥実平の軍勢に分けたとしている。そうすると、搦手は義経・土肥実平・多田行綱の三隊に分かれていたことになる。

義経が登った鉢伏山は須磨浦の海岸線間近まで突き出した山で、一ノ谷の城郭を眼下に見下ろしている。義経が逆落としをかけようとしていた時、「軍は盛(さかり)と見たり」と延慶本『平家物語』は記しているので、生田口から攻める大手の範頼も、浜地を進んで一ノ谷の城郭を西から攻める土肥実平も戦いを始めていたことになる。

一ノ谷を守る平氏方は、通盛・教経・忠度、侍大将には平盛俊、阿波国の粟田良遠や伊予国の武智清華など四国の軍兵である。浜路を塞ぐかたちで城を構え、城を拠点に軍勢を配置したのであるから、土肥実平が受け持つことになった浜路からの正面攻撃は守る側が一方的に有利な戦場となる。「軍は盛と見たり」という状況判断は、平氏の軍勢が、正面から攻めている範頼と、浜地を塩屋口から攻める土肥実平に向かい合い拘束された状態になっていることを示している。

平氏の側は、山から里に鹿が下りてきたのを見て「敵軍野に臥す時は、飛鳥行を乱すと云う事の有物を、あわれ上の山より敵寄にこそ」と、源氏の軍勢が鉢伏山に潜んでいることに気付いた。

乗馬したまま下山するにも、麓に軍勢がいれば、下りている間は一方的に射すくめられることになる。「一騎も損せず城の仮屋の前にぞ落付たる」というのは、麓に平氏の軍勢がいなかったことを示している。一ノ谷城の西木戸を土肥実平に攻められている搦手の軍勢は、山上に潜んでいる敵の存在に気付いても、そこに回すべき軍勢の手配がつかなかった。平氏の搦手の軍勢は、土肥実平に正攻法で西木戸を攻められ、背後に出現した義経の軍勢が火を放ちながら突進してきたことで総崩れとなった。

〈『平家物語』の鵯越え〉

2月7日卯の刻(午前6時頃)、源平両軍は摂津国一の谷(神戸市)で開戦の矢合わせ。源氏は、範頼が5万余騎で生田の森を守る平家の正面に進み、義経は1万余騎を二手に分け、3千余騎を率いて鴇越に向かう。一の谷を背後から見おろす、険しい坂の上である。7日の明けがた、義経は山路をまわって鵯越にたどりつき、一の谷を固める平家の陣を見おろしていたが、やがて、「馬を落としてみよう」と、鞍を置いた馬を落としてみると、足を折って転び落ちる馬もあったが、中の三騎は、平家の陣まで無事に落ち着き、身ぶるいして立ち上がった。

「御曹子(おんぞうし)是を見て、「馬どもは、ぬしぬしが心得ておとさうには損ずまじいぞ。くはおとせ。義経を手本にせよ」とて、まづ卅騎齢ばかり、まツさきかけておとされけり。大勢みなつづいておとす。後陣(ごじん)におとす人々の鐙の端は、先陣の鎧甲にあたるほどなり。小石まじりのすなごなれば、ながれおとしに二町計(ばかり)ざツとおといて、壇(だん)なる所にひかへたり。それより下(しも)を見くたせば、大盤石(だいばんじやく)の苔(こけ)むしたるが、つるべおとしに十四五丈ぞくだツたる。兵ども、うしろへとツてかへすべきやうもなし、又さきへおとすべしとも見えず。「ここぞ最後」と申して、あきれてひかへたるところに、佐原十郎義連(さはらのじふらうよしつら)すすみいでて申しけるは、「三浦(みうら)の方で、我等は鳥一(ひと)つたてても朝夕(あさゆふ)か様の所をこそはせありけ。三浦の方の馬場や」とて、まツさきかけておとしければ、兵ども、みなつづいておとす。えいえい声(こえ)をしのびにして、馬に力をつけておとす。あまりのいぶせさに、目をふさいでぞおとしける。おはかた人のしわざとは見えず。ただ鬼神(きじん)の所為(しよゐ)とぞ見えたりける。おとしもはてねば、時をどッとつくる。」(巻第9「坂落」)

義経はまっさき駆けて、この冒険の先頭に立つが、苔むした大岩石が、まるで垂恒に十四、五丈(約45m)も切りたっている途中までおりてきた時は、あまりの険(けわ)しさに兵たちも、とっては返せず進みもならず、「もう最後だ」と観念する。この時、佐原十郎義連が進み出て、「三浦の地方では、鳥一羽を追うにも、これしきの坂は馳せ下ったもの三浦地方の、これは馬場だ」というなり、真っ先駆けておりたので、兵たちもみなつづいて落としたが、落としきらないうちにもう、どっとばかり鬨(とき)の声をあげていた。

坂を落とした源氏は、すぐ火を放ったので、平家の大軍はあわてふためいて、前の海へ逃げだしてしまった。

「三千余騎が声なれど、山びこにこたへて十万余騎とぞきこえける。村上の判宮代基国(はんぐわんだいもとくに)が手より火をいだし、平家の屋形、かり屋をみな焼き払ふ。をりふし風ははげしし、黒煙(くろけぶり)おしかくれば、平氏の軍兵(ぐんひやう)ども、あまりにあわてさわいで、若(も)しやたすかると、前の海へぞおはくはせいりける。汀(みぎは)には、まうけ舟いくらもありけれども、われさきに乗らうど、舟一艘(さう)には、物具(もののぐ)したる者どもが四、五百人、千人ばかりこみ乗らうに、なじかはよがるべき。汀より、わづかに三町(ちやう)ばかりおしいだいて、目の前に、大ぶね三艘沈みにけり。其の後は、「よき人をば乗すとも、雑人(ざふにん)どもをば乗すべからず」とて、太刀長刀(たちなぎなた)でながせけり。かくする事とは知りながら、乗せじとする舟にとりつき、つかみつき、或はうでうちきられ、或はひぢうちおとされて、一の谷の汀に、あけになッてぞなみふしたる。」(巻第9「坂落」)

虚をついた義経の作戦は、みごとに成功する。海に逃げこんで船に乗ろうとし、血まみれになった平家の混乱が描かれている。わっとばかり逃げこんでくる軍兵を、乗せきれなくなった平家の船では、身分のある者は乗せても、雑兵どもは、文字どおり斬り捨ててしまう。これまで一度も負けたことのない能登守教経でさえ、今度ばかりは西をさして落ち、平家は総崩れとなって、四国の八島まで落ちのびてしまう。


つづく

0 件のコメント: