2022年11月19日土曜日

〈藤原定家の時代184〉寿永3/元暦元(1184)年7月1日~28日 伊賀・伊勢の叛乱(鎮圧にあたった近江の佐々木秀義は討死 叛乱側平田家継ら討死、叛乱鎮圧)  

 


〈藤原定家の時代183〉寿永3/元暦元(1184)年6月1日~23日 『吾妻鏡』に大江広元の初見 頼朝正四位下 三河守範頼、駿河守に広綱、武蔵守に平賀義信 義経は任官なし 頼盛正二位権大納言還任 「平氏その勢強しと云々、京勢わずか五千騎に及ばず」(「玉葉」) より続く

寿永3/元暦元(1184)年

7月2日

・大江広元が発給に関わった頼朝文書が実例として残る最古の例(寿永3年7月2日頼朝御教書(「東大寺文書」。『平安遺文』4158号)

北陸道の東大寺領荘園における狼籍の停止、伊賀国鞆田荘に対する東大寺の領有確認、東大寺大仏造営のための滅金(鍍金)の3項目。奉者の広元は「散位広元」と署名。

7月3日

「成就院僧正房の使者、去る夜戌の刻参着す。これ寂楽寺の僧徒、高野山領紀伊の国阿弖河庄に乱入せしめ、非法狼藉を致すの由訴え申すに依ってなり。・・・武衛御信仰有るの間、不日に沙汰を経られ、狼藉を止むべきの旨、御書を下さる。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月3日

・頼朝、義経の任官を「内々の儀有り、左右無く聴(ゆる)されず」と先送りし、宗盛以下平氏追討のため義経を西海へ遣わすことを法皇に奏す(「吾妻鏡」同日条)。

7月6日

・豊後の緒方惟栄、大宮司宇佐公通が平家に味方しているのを口実に、兄惟隆・弟惟憲と共に、平家の拠点宇佐八幡宮を攻撃。神殿に乱入し「御験」(みしるし)神宝などを奪い焼討ち。惟栄は宇佐神宮大宮司職を巡り宇佐氏と長く争う。「朝家第一の重大事」(「玉葉」文治元年10月17日条)。後で緒方氏の進退問題に発展(文治元年7月頃、流罪。9月赦免)。

7月7日

・この日辰の刻(午前8時頃)に平田家継を大将軍とする反乱が勃発し、伊賀守護大内惟義の郎従が多数殺害される。

伊勢でも平信兼以下が鈴鹿山を切り塞いで謀反を起こし、院中は例えようもないほど動揺した(『玉葉』7月8日条)。

7月28日に予定されている後鳥羽天皇の即位を告げる伊勢奉幣使(ほうへいし)の発遣(はつけん)が危ぶまれる状況に陥った。

平田家継は、平家累代の家人平家貞の子で、弟貞能は清盛腹心の郎党だった。

平信兼は、和泉守・出羽守など受領を勤めたが、伊勢平氏主流からは距離を置き、義経と結んで義仲攻撃に参加した。

蜂起の理由

9ヶ月前には都落ちに同行しなかった平家郎従への寛大な措置を求めていた頼朝が、今や大功ある源氏一族でさえ誅殺する状況変化に、平家家人たちが危険を感じ始めていた。また、伊賀守護に補任された大内惟義の郎従と伊賀平氏の間の軋轢も推測できる。

「伝聞、伊賀・伊勢の国人等謀叛しをはんぬ。伊賀の国は、大内の冠者(源氏)知行すと。仍って郎従等を下し遣わし国中に居住せしむ。而るに昨日辰の刻、家継法師(平家の郎従、平田入道と号す)大将軍として、大内の郎従等悉く伐ち取りをはんぬ。また伊勢の国、信兼(和泉の守)已下鈴鹿山を切り塞ぎ、同じく謀叛しをはんぬと。この事に因って院中物騒す。喩えを取るに物無し。」(「玉葉」同8日条)。

7月10日

・井上光盛、京都から東国に下向する途中、駿河国蒲原駅(かんばらのうまや、清水市蒲原付近)で頼朝の命により誅殺される。治承5年(1181)横田河原の戦いで、越後の城助職率いる大軍を謀略で誘い、義仲の勝利に導いた。『吾妻鏡』は一条忠頼と同意の噂があったと記す。

7月16日

・頼朝、「渋谷の次郎高重」の「領掌の所、上野の国黒河郷に於いては国衙使の入部を止め、別納たるべきの由、御下文を賜う。仍って今日、その由を国の奉行人籐九郎盛長に仰せ含めらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月18日

・平田家継蜂起の報に、近江の佐々木秀義は国内武士を動員し、甲賀上下両郡の兵も合わせ、法勝寺領大原荘(甲賀市)まで進出、大内惟義・加藤五景員(ごかげかず)・加藤太光員(だみつかず)・山内首藤経俊らと油日(あぶらひ)神社に陣をとる。

頼朝、「伊賀の国合戦の間の事、・・・平家隠逃の郎従等を討ち亡ぼすべきの由、大内の冠者並びに加藤五景員入道父子、及び瀧口の三郎経俊等に仰せらると。雑色友行・宗重両人、彼の御書等を帯し進発すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月19日

・近江合戦。平田家継ら叛乱軍と佐々木源三秀義の追討軍(大内惟義・加藤五景員・加藤太光員・山内首藤経俊ら)、近江甲賀の南部で激戦。追討軍秀義が討死するが、次第に叛乱軍を圧迫し、叛乱軍は家継・弟家兼・家清ら90余人討死し潰走

反乱に参加した武士として、小松家の有力家人であった上総介伊藤忠清、中務丞(なかつかさのじよう)平家資(いえすけ、平家貞弟家季の子)、富田進土家助(とみたしんしいえすけ)、前兵衛尉家能(いえよし)、平家清(池家の有力家人平宗清の子)、黒田新荘下司紀七景時(くろだのしんしようげしきしちかげとき)、壬生野能盛らの名が確認される。伊藤忠清と平家資は敗戦後山中に逃亡。反乱参加者は、伊賀国山田郡・阿拝(あへ)郡・名張郡、伊弊国鈴鹿郡・河曲(かわわ)郡・朝明(あさけ)郡など、伊賀と伊勢北部に本拠をもつ武士団連合であり、近隣の鈴鹿山を切り塞ぐという共通の軍事行動に示されているように、かつて義仲に対抗して義経を支援した伊勢平氏・平氏家人たちであった。

そのためか、平信兼も当初は反乱に参加しているとの情報が流れていたが、実際には関与していなかったようで、反乱鎮圧後も、信兼の出羽守や子息兼衡(かねひら)の左衛門尉の官職は解かれていない。

しかし、畿内近国の軍政指揮官として京にあった義経は、頼朝の命を受け、8月10日、兼衡・信衡・兼時の3人の信兼の子を宿所に召し寄せ、「子細」を示したうえで自害を強要し、抵抗した者を殺害した。8月12日には、義経自ら軍勢を率いて伊勢に下向し、飯高郡滝野城(松阪市飯南町)において信兼を追討している。頼朝は、信兼の一族が平田家継らの反乱に関与していたとの嫌疑をかけ、それを理由に信兼の勢力を排除するよう義経に命じた

摂津国惣追捕使の多田行綱も、翌元暦2年(1185)6月までには「奇怪」な行動があったとして頼朝から追放されている。

戦場から逃亡した忠清法師は、翌元暦2年鈴鹿山で捕らえられ、京都に連行され、5月14日以前に梟首された(『吉記』)。

平家貞は平家滅亡後も逃走を続け、建久6年(1195年)、東大寺再建供養に臨む頼朝を狙って捕らえられた。志に感じた頼朝が放免してやろうというが、斬られることを望んだので処刑したという(『保暦聞記』)。近松門左衛門の人形浄瑠璃「出世景清」の素材になった事件。近松の主人公悪七兵衛景清=伊藤景清は、壇ノ浦で生き延びた。読み本系『平家物語』では、降人(こうじん)となって法師になり常陸国にあり、東大寺再建供養の日に合わせて干死(ひじに、餓死)したという後日談を載せている。

伊賀の反乱は京・鎌倉に大きな衝撃となり、頼朝・朝廷は方針を変更。義経による平家追討を断念し、彼は京都の守護、伊勢・伊賀の平氏など平家残党の掃蕩にあたり、土肥・梶原に加え範頼を西海に派遣し、山陽道から九州・四国の順で平家を討つ策で合意したらしい。

〈彼らの子供の世代が起こす第二次三日平氏の乱〉

源実朝が三代将軍に就任して鎌倉の政情が不安定になっていた元久元年(1204)、守護の山内首藤経俊を国外に追い出して伊賀・伊勢両国を占領。その後、京都守護として上洛していた大内惟義の弟平賀朝雅が朝廷と幕府の双方から追討の命令を受けて出陣。朝廷からは、伊賀国惣追捕使に補任され、伊賀国を知行国として給わる(『明月記』)。朝雅は、鈴鹿関を固める平氏の背後に出るべく、一旦美濃国に廻って伊勢国に攻め込み、平氏の拠点となる城・館を次々と攻め落として鎮圧(「吾妻鏡」)。この事件が、平氏の残党蜂起の最後となる。

7月20日

「この間鶴岡若宮の傍らに於いて、社壇を新造せられ、今日熱田大明神を勧請し奉らる所なり。仍って武衛参り給う。武蔵の守義信・駿河の守廣綱已下の門客等、殊に行粧を刷い供奉に列す。結城の七郎朝光御劔を持つ。河匂の三郎實政御調度を懸く。この實政は、去年の冬上洛の時、渡船の論に依って、一條の次郎忠頼と合戦するの間、御気色を蒙ると雖も、武勇の誉れ上古の聞こえに恥じず。幾旬月を経ず免許有り。剰えこの役に従い、昵近し奉る。観る者不思議の念を成すと。御遷宮の事終わるの後、貢税料所として、相模国内の一村を奉寄せらる。筑後権の守俊兼宝前に召され、御寄附状を書くと。」(「吾妻鏡」同日条)。

7月22日

・「炎旱の憂ひ都鄙に充満すと云々、一切御祈りの沙汰無し、用途無きの上、国の損亡を歎きし人無きの故と云々、悲しむべし悲しむべし」(「玉葉」)。

7月28日

・故高倉天皇第4皇子尊成親王(4)、即位(第82代後鳥羽天皇)。後白河法皇の院政が継続。前年8月20日、践祚。

「この日即位の事有り。治暦四年の例に依って、太政官正廰に於いて、これを行わる。抑も劔璽帰り来たるを相待ち、即位を遂行せらるべきや否や、予め人々に問わる。・・・然れども叡慮並びに識者等、議奏、天意を知らず、神慮を測らざるに依って、行わるる所なり。」(「玉葉」同日条)。


つづく


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