2022年11月27日日曜日

〈藤原定家の時代192〉元暦2/文治元(1185)年2月1日~16日 葦屋浦の合戦(範頼軍が平家軍に勝利) 義経と梶原景時の「逆櫓論争」 深夜、暴風の中、義経が単独出撃     

 

歌川国芳「源義経梶原逆櫓争論図」

〈藤原定家の時代191〉元暦2/文治元(1184)年1月1日~25日 頼朝、範頼書状を受け取り、兵粮米を積んだ兵船を送ると約束 義経、平家追討院宣を願い出る 範頼以下39人の大将が豊後に渡る より続く

元暦2/文治元(1184)年

2月1日

・葦屋浦の合戦。範頼軍(北条小四郎時政ら)、平家軍(太宰少弐原田種直)を葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町)で迎撃、勝利、豊後(平家軍の背後に)に上陸。近隣制圧へ。別府温泉北方の鶴見郷古殿に本拠を構築。豊後橘頭砦。これを機に九州の武士たちは範頼方につくようになる。

「参州豊後の国に渡る。北條の小四郎・下河邊庄司・渋谷庄司・品河の三郎等先登せしむ。而るに今日葦屋浦に於いて、太宰少貳種直・子息賀摩兵衛の尉等、随兵を引きいこれに相逢い挑戦す。行平・重国等懸け廻りこれを射る。彼の輩攻戦すと雖も、重国が為討たれをはんぬ。行平美気の三郎敦種を誅すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月3日

・義経、150騎で京を出発。難波で兵船を集める。梶原景時(軍奉行)、兵1万で到着。

2月5日

・頼朝、典膳大夫中原久経・近藤国平を上洛させ、武士が平氏追討を名目として畿内近国で狼藉するのを停止するよう命じ近辺11ヶ国を鎮めるよう定める(占領軍統制の監督役)。3月4日鎌倉発。

これは義経が従来行ってきた権限を奪うもの、義経が畿内を離れ、平氏追討使に復帰させる方向転換を示すもの。この2人に義経後の畿内支配を担わせる。

「典膳大夫中原久経・近藤七国平使節として上洛す・・・。これ平氏を追討するの間、事を兵粮に寄せ、散在の武士、畿内近国の所々に於いて狼藉を致すの由、諸人の愁訴有り。仍って平家滅亡を相待たれずと雖も、且つは彼の狼籍を停止せられんが為、差し遣わさるる所なり。先ず中国近辺の十一箇国を相鎮め、次いで九国・四国に至るべし。悉く以て奏聞を経て、院宣に随うべし。この一事の外、私の沙汰を交ゆべからざるの由定め仰せらると。今の両人指せる大名に非ずと雖も、久経は、故左典厩の御時殊に功有り。また文筆に携わると。国平は勇士なり。廉直の誉れ有るの間此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月11日

・頼朝の義経に出陣を命じる書状、義経の許に届く。

2月12日

「武衛伊豆の国に赴かしめ給う。これ伽藍を狩野山に建立せんが為、日来材木を求めらる。これを監臨せんが為なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月13日

・義経に屋島攻撃の出陣命令がくだる。

2月13日

・平氏追討の為鎌倉中の僧を集め鶴岡八幡宮で大般若経を転読させ、京都でも二十壇の秘法が修される(「吾妻鏡」同日条)。

2月14日

・範頼の飛脚到着。頼朝、範頼に対して山陽道諸国の惣追捕使である土肥実平・梶原景時と協議して、九州武士の組織化を進めるように命じる(「吾妻鏡」同日条)。

2月16日

・義経、摂津渡辺に到着。後白河(59)は摂津渡辺に大蔵卿高階泰経を派遣し義経を引き留める(大将軍の器量を説き、先ず次将を派遣すべきでないかと諌める)が、義経はこれを断って、屋島の平家本陣を一気に攻めることを再度法皇に告げるよう懇願(命を捨てる覚悟と語る(「吾妻鏡」)。この頃、京都は義経統率下にあり、義経が出陣すると、都の平安が崩れる危険が潜在しているため(「玉葉」)。この日酉の刻(午後6時頃)、軍船200艘、大波に揉まれて修理する舟が続出、港に留まることになる。

〈『玉葉』と『吾妻鏡』の日付のズレ〉

『玉葉』の義経の報告によれば、16日に出航し、17日に阿波に着き、18日に屋島に着いたとある(『玉葉』3月4日条)。それ以前にも16日に出航したことが伝わっている(『玉葉』2月27日条)。

一方、『吾妻鏡』の義経の報告によれば、17日に渡辺を出航し、翌日卯刻(午前6時前後)に阿波に着き、19日に屋島に向かったとある(『吾妻鏡』3月8日条)。

「関東の軍兵、平氏を追討せんが為讃岐の国に赴く。廷尉義経先陣として、今日酉の刻纜を解く。大蔵卿泰経朝臣彼の行粧を見るべしと称し、昨日より廷尉の旅館に到る。而るに卿諫めて云く、泰経兵法を知らずと雖も、推量の覃ぶ所、大将軍たる者、未だ必ず一陣を競わざるか。先ず次将を遣わさるべきやてえり。廷尉云く、殊に存念有り。一陣に於いて命を棄てんと欲すと。則ち以て進発す。尤も精兵と謂うべきか。平家は陣を両所に結ぶ。前の内府讃岐の国屋嶋を以て城郭と為す。新中納言知盛九国の官兵を相具し、門司関を固む。彦島を以て営に定め、追討使を相待つと。今日武衛山沢を歴覧するの間、藍澤原に於いて参州に付き{思慮を}廻らし、季重を以て御書を遣わさる。また御書を北条の小四郎殿・齋院次官・比企の籐内・同籐四郎等に下さる。これ平家を征するの間、各々同心すべき由なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

「伝聞、大蔵卿泰経卿御使として渡辺に向かう。これ義経が発向を制止せんが為と。これ京中武士無きに依って御用心の為なりと。然れども敢えて承引せずと。泰経すでに公卿たり。此の如き小事に依って、輙く義経が許に向かうこと、太だ見苦しと。」(「玉葉」同日条)。

評定で、義経と梶原景時の「逆櫓(さかろ)論争」。梶原景時は、船の進退が自由にできるように逆櫓を付けることを主張。義経は、初めから逃げる支度をするとは何事だと反対し、景時と義経の間に険悪な空気が流れる。

しかし、この時、景時は範頼軍に参加していて、義経とは行動を共にしていない。これは「平家物語」が、渡航前に高階泰経が義経の大将軍の器量を説いた事実を脚色したものと推測できる。

〈『平家物語』巻11「逆櫓」〉

「同(おなじき)十六日、渡辺、神崎両所にで、この日ごろそろへける舟ども、ともづなすでにとかんとす。をりふし北風木を祈ッてはげしう吹きければ、大浪に、舟どもさむざむにうち損ぜられて、いだすに及ばず。修理のために其の日はとどまる。渡辺には、大名小名寄りあひて、「抑(そもそも)舟軍(ふないくさ)の様(やう)はいまだ調練せず。いかがあるべき」と評定す。」

渡辺(大阪市東区京橋辺)・神崎(兵庫県尼崎市)は船着場。この両所から出そうと勢揃えしていたが、ものすごい北風が襲ってきて、揃えてあった船はさんざんにこわされ、出発は一日延期することになる。渡辺では大名・小名たちが寄りあい、源氏は船軍になれていない、この危機をどう乗りきるか、の評定(戦術会議)を開いた。

「梶原申しけるは、「今度の合戦には、舟に逆櫓(さかろ)をたて候はばや」。判官、「逆櫓とはなんぞ」。梶原、「馬はかけんと思へば、弓手(ゆんで)へも馬手(めて)へもまはしやすし。舟は、きツとおしもどすが大事に候。艫舳(ともへ)に櫓をたてちがへ、わいかぢをいれて、どなたへも、やすうおすやうにし候はばや」と申しければ、判官宣ひけるは、「いくさといふものは、一(ひと)ひきもひかじと思ふだにも、あはひあしければ、ひくは常の習(ならひ)なり。もとよりにげまうけしては、なんのよかるべきぞ。まづ門出のあしさよ。逆櫓をたてうとも、かへさま櫓をたてうとも、殿原(とのばら)の舟には百挺千挺もたて給へ。義経は、もとの櫓で候はん」と宣へば、梶原申しけるは、「よき大将軍と申すは、かくべき処(ところ)をばかけ、ひくべき処をばひいて、身をまッたうして、かたきをほろぽすをもツて、よき大将軍とはする候。片趣(かたおもむき)なるをば、猪のしし武者とて、よきにはせず」と申せば、判官、「猪のしし、鹿のししは知らず、いくさは、ただ平攻(ひらぜめ)にせめて、かッたるぞ心地はよき」と宣へば、侍ども梶原におそれて、たかくはわらはねども、目ひき鼻ひき、ぎぎめきあへり。判官と梶原と、すでに同士軍(どしいくさ)あるべしと、ざざめきあへり。」

このとき梶原景時が、「このさい船に逆櫓を立てよう」といいだす。義経は、「逆櫓とは何だ」と尋ねる。梶原は、「船は馬のようには、急に方向をかえることができぬ。艫(船尾)にも舳(船首)にも櫓をつけ、その脇に梶を揃えて、前にも後ろにも、らくらくと押し出せるようにしたいのだ」と答える。これを聞いた義経は、「はじめから逃げ支度するなど縁起でもない。立てたい者は、百ちょうでも千ちょうでも逆櫓とやらを立てるがよい。義経は、いままでの櫓でやっていく」という。梶原は、「そんな大将を猪武者というのだ」といい返すと、義経は、「猪のししか鹿のししかしらぬが、戦は、ただ平攻めに攻めたてて勝つのが気持ちよいのだ」といいきった。そばにいた侍たちは、目つき鼻つきで梶原を笑いあって、ざわめいたので、義経と梶原とは、すんでのことに同士討ちするかと思われるほどであった。

深夜、義経は暴風の中、船に武器と兵粮米を積みこみ、「すぐさま船を出せ」と命じる。船頭たちは、「こんな大風に、どうして船出ができよう」と尻ごみするが、義経が、「この風は向かい風ではない、追い風だ。船を出さぬ奴らは、みな射殺せ」と命じたので、船頭たちは同じ死ぬならと、二百余艘のうち五艘だけ、丑刻(午前2時頃)、ついに命がけで走り出した。


つづく



0 件のコメント: