2022年11月24日木曜日

〈藤原定家の時代189〉寿永3/元暦元(1184)年11月2日~24日 「参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。」(「吾妻鏡」)   

 


〈藤原定家の時代188〉寿永3/元暦元(1184)年10月6日~28日 頼朝、公文所(後の政所)を置く 別当に大江広元 義経(26)、院の昇殿を許される(後白河の側近となる) 追討使が安芸国衙を掌握 頼朝、問注所を設け三善康信を執事とする より続く

寿永3/元暦元(1184)年

11月

・この月初、範頼の追討軍は長門に入る。兵站ルートは延び、平氏勢力圏に近ずくほど補給は困難となる。山陽道は前年からの飢饉のため、追討軍は食糧不足の危機に陥る。

また、平行盛が備後児島に上陸し、追討軍は彦島に拠る知盛と備後の行盛に挟撃される形となる。範頼は、佐々木盛綱・渋谷重国5千を後戻りさせるが、本隊は長門から動けず。

11月2日

・この日、源中納言雅頼が兼実を訪れ、東国に通暁しているある小僧の語がいうには、摂政基通辺りの人(近い者)が、兼実のことを頼朝に讒言し、これによって先日奏聞の大事を(頼朝は)黙止したのだという。兼実は、「悲しむべし悲しむべし。自分はみずからを推挙するようなことは好まないから讒言など一向痛痒を感じないが、ただ家の前途、国の重事がこうした田夫野叟(でんぷやそう)の詞(ことば)にかかっているかと思うと悲しみて余りがある」と記す(「玉葉」同日条)。

11月6日

「鶴岡八幡宮に於いて神楽有り。武衛参り給う。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月12日

「常陸の国の住人等を御家人と為す。その旨存ずべきの由仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月14日

・征討軍の窮状を訴える範頼の使者、長門を発つ。周防の米はすでに平知盛によって刈り取られ、糧道封鎖のために源氏軍は兵糧不足に陥る。さらに九州に攻め入るための舟もすべて知盛に押さえられており、知盛は源氏の攻撃に備えるため、赤間ヶ関の近く彦島に陣を構築。

「参河の守範頼(去年九月二日出京し西海に赴く)去年十一月十四日の飛脚、今日参着す。兵粮闕乏するの間、軍士等一揆せず。各々本国を恋い、過半は逃れ帰らんと欲すと。(「吾妻鏡」元暦2年1月6日条)

頼朝は返事として長文の仮名消息を送った。「当時(現在)は、国の者の心を破らぬ様なる事こそ、吉事にてあらんずれ」など、進軍の先々で現地の信頼を失わないことが大切と、繰り返し説く(「吾妻鏡」元暦2年1月6日条)。

11月14日

・頼朝、宇都宮朝綱・小野成綱など西国に所領を給与された御家人の沙汰付を義経に命じる。後の六波羅探題の権限に繋がる。

「左衛門の尉朝綱・刑部の丞盛綱已下、所領を西国に宛て賜うの輩これ多し。仍ってその旨を存じ、面々沙汰し付けらるべきの由、武衛今日御書を源廷尉の許に遣わさると。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月18日

・安徳天皇にかわる後鳥羽天皇即位の大嘗会。時節柄簡素であるべきだったが、、、

和泉国では大嘗会の召物と称して摂政家(基通)の大番舎人たちに先例に無い「巨多の雑事」の賦課が強行された。大嘗会の見せ物である標(ひよう)の山(山車や山・鉾)を牽く人夫は近江国から千人が選ばれた。朱雀大路で見物していた権中納言吉田経房は「その儀あながち先例に劣らず」と書く(「吉記」11月18日条)

兼実は、童女御覧や淵酔(えんずい)などは、「神事に非ず、儀式に非ず、ただ興宴を催さんがためなり」(「玉葉」18日条)、と批判する。

11月21日

「今朝武衛御要有り、筑後権の守俊兼を召す。俊兼御前に参進す。而るに本より花美を事と為す者なり。只今殊に行粧を刷い、小袖十余領を着す。その袖妻色々を重ぬ。武衛これを覧て、俊兼の刀を召す。即ちこれを進す。自ら彼の刀を取り、俊兼が小袖妻を切らしめ給う後、仰せられて曰く、汝才翰に富むなり。盍ぞ倹約を存ぜんや。常胤・實平が如きは、清濁を分らざるの武士なり。所領と謂うは、また俊兼に双ぶべからず。而るに各々衣服已下麁品を用い、美麗を好まず。故にその家富有の聞こえ有り。数輩の郎従を扶持せしめ、勲功を励まんと欲す。汝産財の所費を知らず、太だ過分なりと。俊兼述べ申すに所無く、面を垂れ敬屈す。武衛向後花美を停止すべきや否やの由仰せらる。俊兼停止すべきの旨を申す。廣元・邦通折節傍らに候す。皆魂を鎖すと。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月23日

「園城寺の専当法師関東に下着す。衆徒の牒状を持参する所なり。・・・・・・平家領没官地を以て当寺に寄進し、当寺仏法を紹隆せらるべき事

・・・爰に故入道太政大臣忽ち皇憲に背き、恣に悪罪を犯す。射山の禅居を幽閉し、博陸の重臣を配流す。その後また親王宮を追捕し、兼ねて頼政卿を伐たんと擬すの間、各々虎口の難を逃れ、この鳥瑟の影に来たる。衆徒等慈愍の性を稟け、救護心に在り。皇子の令旨に随い、源氏の謀略に伴い、国家鎮護の秘策を廻らし、逆臣降伏の懇祈を専らにす。これに依って千万騎の軍兵を引率し、数百宇の房舎を焼失す。仏像経論烟炎に化して昇天す。学徒行人涕涙に溺れて地に投ず。その夭亡を計れは、行学合わせ五百人。その離散を思えば、老少惣て千余輩。哀れむかな。三百余歳の法燈平家の為に永滅す。痛ましきかな。四十九院の仏閣逆賊の為に忽失す。唐土会昌の天子にも過ぎ、我が朝守屋大臣にも超ゆ。而るに去る七月二十五日、北陸道の武将且つは以て入洛す。六波羅の凶従永く以て退散し、四海これを悦ぶ。況や三井に於いてをや・・・

11月24日

・成清、5年前の宇佐の殿堂修理をねぎらわれ、頼朝の尽力により弥勒寺講師・喜多院院司に返り咲く。


つづく



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