2022年11月17日木曜日

〈藤原定家の時代182〉寿永3/元暦元(1184)年5月1日~27日 頼朝、帰洛前の平頼盛をもてなす 志太義広討死 

 


寿永3/元暦元(1184)年

5月1日

・頼朝、和田義盛・比企能員に対し、足利義兼(源姓足利氏)・小笠原長清と相模・伊豆・駿河・安房・上総の御家人と共に、義仲嫡男義高の残党が甲斐・信濃に隠れ、謀反を企てているとして、10日に甲斐に発向するよう命じる(「吾妻鏡」同日条)。

このものものしい動員は、一条忠頼誅殺に次いで武田信義討滅のための軍事行動と推察できる。

5月2日

・義経、高野山阿弖川庄のことで書状を送る。

5月3日

・平頼盛、4月に上洛しこの日正式に(亡命ではなく)鎌倉へ発向。家人平宗清に同道を求めるが拒否される(潔しとしない)。頼盛の鎌倉逗留中は、頼朝は連日酒宴を開きもてなす。

19日、頼朝、頼盛・能保らを案内して海浜を散策。杜戸(逗子市田越)海岸で御家人達の競艇・小笠懸を見物。

6月1日、頼盛上洛前に招いて送別会を催し贈物を贈る。

9日、頼盛、鎌倉出発。この日、頼盛は勅勘を宥され権大納言に還任。

16日、帰洛後、八条邸(都落ち前に住む)で藤原光長(九条兼実の家司)と連絡取り合う。

「武衛池亜相(この程鎌倉に在り)・右典厩等を相伴い、海浜を逍遙し給う。由比浦より御乗船、杜戸の岸に着かしめ給う。御家人等面々舟船を餝り、海路の間、各々棹を取り前途を争う。その儀殊に興有るなり。杜戸の松樹の下に於いて小笠懸有り。これ士風なり。この儀非ずんば、他の見物有るべからざるの由、武衛これを仰せらる。客等太だ入興すと。」(「吾妻鏡」同19日条)。

「武衛池前の亜相を招請し給う。これ近日帰洛有るべきの間、餞別せんが為なり。右典厩並びに前の少将時家等御前に在り。先ず三献。その後数巡す。また相互に世上の雑事等を談らる。小山の小四郎朝政・三浦の介義澄・結城の七郎朝光・下河邊庄司行平 ・畠山の次郎重忠・橘右馬の允公長・足立右馬の允遠元・八田の四郎知家・後藤新兵衛の尉基清等、召しに応じ御前の簀子に候す。これ皆京都に馴れるの輩なり。次いで御引出物有り。先ず金作の劔一腰、時家朝臣これを伝う。次いで砂金一嚢、安藝の介これを役す。次いで鞍馬十疋を引かる。その後客の扈従者を召し、また引出物を賜う。武衛先ず彌平左衛門の尉宗清(左衛門の尉季宗男)を召す。平家の一族なり。これ亜相下着の最初、尋ね申さるの処、病起こるに依って遅留するの由、答え申さるの間、定めて今は下向せしむかの由、思案せしめ給うが故か。而るに未だ参着せざるの旨、亜相これを申さる。太だ亭主の御本意に違うと。この宗清は、池の禅尼の侍なり。平治有事の刻、志を武衛に懸け奉る。仍ってその事を報謝せんが為、相具し下向し給うべきの由仰せ送らるるの間、亜相城外の日、この趣を宗清に示す処、宗清云く、戦場に向わしめ給わば、進んで先陣に候すべし。而るに倩々関東の招引を案ずるに、当初の恩に酬いられんが為か。平家零落の今参向するの條、尤も恥を存ずるの由を称し、直に屋島の前の内府に参ると。」(「吾妻鏡」6月1日条)。

「池前の大納言帰洛せらる。武衛庄園を亜相に辞せしめ給う上、逗留の間、連日竹葉に宴酔を勧め、塩梅に鼎味を調え、これを献ぜらるる所、また金銀数を尽くし、錦繍色を重ねるものなり。」(「吾妻鏡」6月5日条)。

5月4日

志太義広、伊勢の奄芸(あんげ)軍羽取山(鈴鹿市郡山町)、波多野盛通・大井実春・山内首藤経俊らと激しく戦ってで討死(「吾妻鏡」5月15日条)。義広はこの年1月の義仲滅亡後、姿をくらましていた。

「申の刻、伊勢の国の馳駅参着す。申して云く、去る四日、波多野の三郎・大井兵衛次郎實春・山内瀧口三郎、並びに大内右衛門の尉惟義家人等、当国羽取山に於いて、志田三郎先生義廣と合戦す。殆ど終日に及び雌雄を争う。然れども遂に義廣の首を獲ると。この義廣は、年来叛逆の志を含み、去々年軍勢を率い、鎌倉に参らんと擬すの刻、小山の四郎朝政これを相禦ぐに依って、成らずして逐電し、義仲に属かしめをはんぬ。義仲滅亡の後また逃亡す。曽ってその存亡を弁えざるの間、武衛の御憤り未だ休まざるの処、この告げ有り。殊に喜ばしめ給う所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月12日

・頼朝、「園城寺長吏僧正房覺痢病危急の由」のため雑色時澤を使節として上洛させる(「吾妻鏡」同日条)。

5月21日

・頼朝、「御一族源氏の中、範頼・廣綱・義信等、一州の国司を聴せらるべき事」(義経を外す)、また、頼盛・光盛の還任を要請する書状を高階泰経に送る(「吾妻鏡」同日条)。

頼盛の母は池禅尼、流人頼朝の助命を清盛に嘆願。

5月24日

・「左衛門の尉籐原朝綱伊賀の国壬生野郷の地頭職を拝領す。これ日来平家に仕うと雖も、懇志関東に在るの間、潛かに都を遁れ出て参上す。その功に募り、宇都宮社務職相違無きの上、重ねて新恩を加えらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

5月24日

・義経、高野山伝法院領紀伊七箇庄の兵糧米を停止する。

5月27日

・頼朝、義経に藤原兼高の所職安堵を命じる。


つづく

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