2022年11月28日月曜日

〈藤原定家の時代193〉元暦2/文治元(1185)年2月17日~18日 屋島の合戦(1) 阿波に上陸した義経、粟田良遠の館を落とし屋島へ強行 一旦は軍船に逃れた平氏に手痛い逆襲を受ける

 

屋島合戦

〈藤原定家の時代192〉元暦2/文治元(1184)年2月1日~16日 葦屋浦の合戦(範頼軍が平家軍に勝利) 義経と梶原景時の「逆櫓論争」 深夜、暴風の中、義経が単独出撃 より続く

元暦2/文治元(1184)年

2月17日

・卯刻(午前6時頃)、義経、150騎余の軍勢とともに阿波国桂浦(小松島市)に上陸。上陸すると早速、地元の豪族近藤親家(ちかいえ)が味方に付いた。途中、桂浦で桜間介(さくらまのすけ)粟田良遠(よしとお、阿波水軍首領阿波民部大夫成良の弟)の館(徳島市)を攻め落とし(『吾妻鏡』2月18日条)、阿波・讃岐の境の中山を越え屋島を目指して北上。

(「源平盛衰記」では上陸地点は「はちまあまこの浦」(勝浦郡八万尼子浦)とし、「吾妻鏡」では那賀郡椿浦(徳島県小松島市田野町付近)とする。椿浦は南方過ぎるため尼子浦が妥当。)

栗田良遠は栗田重能の弟で、上洛して外記を勤めた下級官吏人で。阿波民部大夫を通称とした栗田重能の一族は、阿波国在庁を勤める家で、水上交通で京との結びつきが強いことから、必要に応じて京都と阿波を往来する「京貫(きようかん)」とよばれた生活をした人々である。この一族は、六位外記や民部丞(みんぶのじよう)など地下顕官(じげのけんかん)とよばれる事務能力の高い下級官人を補任する官職を勤めた。彼らは平氏家人となったことで武者に分類されるが、文章道(漢詩文)や算道(数学・簿記)を学んだ技官と武者を兼ねた人々である。一族の中で、良遠は阿波国在庁として所領を守る役割を分担した人であろう。良遠の降参以後、粟田一族は急速に戦意を失い、平氏家人の重要な柱が崩れていく

「仍って丑の刻先ず舟五艘を出す。卯の刻阿波の国椿浦に着く(常の行程三箇日なり)。則ち百五十余騎を率い上陸す。当国の住人近藤七親家を召し仕承と為し、屋嶋に発向す。路次桂浦に於いて、桜庭の介良遠(散位成良弟)を攻めるの処、良遠城を辞し逐電すと。夜に入り、武衛豆州より鎌倉に還着し給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。

2月18日

・義経は急進して金泉寺(こんせんじ、徳島県板野町)を通過し、引田浦(ひきたうら)・丹生社(にうしや、香川県東かがわ市)・高松郷(香川県高松市)を通過して、屋島の内裏の向いの浦に到着、付近の牟礼や高松の民家に火を放つ。平氏はこの軍勢を大軍と誤認した(延慶本『平家物語』)。平氏は、義経の軍勢の規模を確認せずに内裏を放棄し、軍船に退く決定をした。

平氏が海上に逃れると、義経は、田代信綱、金子家忠・近則、伊勢義盛等を率いて汀に向かい、平氏は船上から、互いに矢を射合った。

一方、佐藤継信・忠信、後藤実基・基清等は屋島に渡り、内裏や宗盛の宿所以下の舎屋を焼き払った。これを見た平氏側からは、越中盛嗣や上総忠光等が上陸して合戦となり、佐藤継信が討たれた。

義経は、継信の死を深く悲しみ、手篤く葬り、後白河から賜った大夫黒という秘蔵の名馬を僧に与え、弔いをさせたという(以上、『吾妻鏡』2月19日条)

「去月十六日解䌫、十七日阿波国に着く。十八日屋島に寄せ、凶党を追ひ落し了んぬ。しかれども未だ平家を伐ち取らずと云々」(『玉葉』3月4日条)

『吾妻鏡』『平家物語』は、その後、平氏軍の一部が屋島の東方にあたる志度浦(しどのうら)で義経軍と戦闘を交えたと記しているが、『玉葉』には「平家讃岐国シハク庄に在り。しかして九郎襲ひ攻むるの間、合戦に及ばず引退き、安芸厳島に着き了んぬと云々。その時僅に百艘許りと云々」(3月16日条)とあり、屋島西方の塩飽島にあった平氏軍が、義経軍の追撃を受けて100艘ばかりで安芸国厳島に退却したという情報が記されている。こうして平氏軍は、義経軍の攻撃によって、屋島とならぶもう一つの拠点であった長門国彦島に追い詰められていく。

延慶本『平家物語』は、屋島にいた平氏の動向を義経に合流した阿波国板西群(ばんざいぐん)の武者近藤親家から聞き取った話としている。それによると、粟田重能の子粟田教良が伊予国の河野通信を討つため3千騎を率いて発向していること、平氏は阿波・讃岐の浦々に軍勢を分散させて警備しているので、屋島内裏にいる軍勢は少ないということであった。

範頼が九州に攻め込んだことで、屋島の平氏は河野通信を討つ軍勢を動かした。屋島に残した軍勢を港に分散させたのも、物資の集積地となる港を抑え、兵粮を集めた可能性が高い。

義経に阿波の状況を伝えたのは近藤親家である。近藤氏は阿波国在庁で藤原信西の側近となった西光(藤原師光もろみつ)の縁者という伝承があるので、後白河が信西の子供たちをつかって画策していた可能性はある。近藤親家は、100騎の武者を引き連れて合流した。親家は、追討使の軍勢が阿波に上陸することを知っていて、待っていたことになる。義経上陸の根回しは、行われていたと考えられる。

〈浜の戦いで手痛い打撃を受ける義経〉

平氏は、安徳天皇以下の首脳部が軍船に退くための時間稼ぎとして、屋島内裏に垣盾(かいだて)を並べて防ぎ矢をしたので、内裏にいた人々は捕らえられることなく軍船に退いた。それ以後は、軍船に乗る平氏と浜まで追いかけてきた追討使の騎馬武者との間で激しい弓戦となるが、身を隠しながら弓を射ることのできる軍船と、隠れる場所もない浜で馬上の弓戦をする騎馬武者との戦いは、騎馬武者が一方的に射落とされることになった。追討使は、ここで釘付けになり、「宗たる」武者を40余人討たれたという。「宗たる」ということは、本来なら騎馬武者の一団を率いる軍勢の中堅以上の武者ということである。義経の急進に多くの郎党を伴わず、また落伍させて付いてきたので、屋島に突入した時は騎馬武者にわずかな郎党が従うだけの集団になっていた。

『吾妻鏡』と延慶本『平家物語』によると、義経の軍勢は150騎、そこに阿波の近藤親家が100騎ほど率いて合力し、その後に武者も含めて追討使は350騎ほどになっていた。

一方で、義経はたった2日間で桂浦(勝浦)から屋島まで強行軍をしたので、落伍した軍勢も多く、屋島内裏に攻め込んだ時に率いていた軍勢の規模は不明である。延慶本『平家物語』は遅れて到着した武者の名前を列記するので、誰が落伍したかはわかる。足利義兼・北条時政・三浦義澄・稲毛重成・小山朝政以下が付いてこれなかった。これらの人々が名前を連ねる軍勢が総数150騎というのは、指揮する人ばかりで、郎党の少ない構成になっていたことをよく示している。浜まで平氏を追いかけた義経は、ここで痛烈な反撃に合い、一割以上の武者が討ち取られる敗北をした


つづく


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