2024年4月20日土曜日

大杉栄とその時代年表(106) 1894(明治27)年5月17日~31日 朝鮮駐在代理公使杉村濬の出兵上申 袁世凱、出兵準備を李鴻章に電請 参謀本部、出兵必要と決定 東学農民軍、全州占領。朝鮮政府は袁世凱に出兵救援を依頼 宗銀、内閣弾劾上奏案可決(総辞職か解散かを迫られる)     

 

東学農民軍、全州占領

大杉栄とその時代年表(105) 1894(明治27)年5月2日~16日 第1次甲午農民戦争始まる 黄土峴の戦いで農民軍勝利 第6議会開会(対外硬派が主導権掌握) 北村透谷(25)の自死 より続く

1894(明治27)年

5月17日

対外硬派、前議会解散を「非理不当」とする内閣不信任案を提出、「強硬なる外交政略」と「責任内閣の完成」を迫る。144票対149票で否決。

山県枢密院議長は僅か5票差に驚愕、議会は「妄評暴言、紛擾を極め」、「如此議会と国事を謀議せんことは、到底目的無之事」と解散を主張。

この時、杉村代理公使がソウルから、朝鮮民乱が重大化し、日本は出兵を「あらかじめ詮議」するよう上申。

5月21日

セルビア、クーデタ。88年憲法停止、69年憲法復活。

5月22日

朝鮮駐在代理公使杉村濬、「公使館護衛ノ名義」での出兵を上申。

杉村は、朝鮮政府が清軍借兵の「姑息手段」をとると予想し、「朝鮮将来ノ形勢ニ向テ或ハ変化ヲ来スモ難計」と判断、「差当り我官民保護ノ為メ、又日清両国ノ権衡ヲ保ツ為メ、民乱鎮定清兵引揚迄公使館護衛ノ名義」での出兵を上申。

陸奥外相は、清国が出兵を機に朝鮮制圧強化を企図し、最恵の場合には朝鮮併合もあると判断し、情勢報告の為に帰国中の大鳥公使と会談。大鳥は清国に先じて「一千人之出兵」を主張、清軍と協力して民乱を鎮圧し、清国の朝鮮併合阻止と内政改革の主導権を握る事を提案。

5月22日

鳩山和夫他2名、議会で「帝国と外国との条約に関する質問書」提出。

①「清国とは欧米諸国と同一なる趣旨に基づき条約を改正するの目的なるや。若し然りとせば帝国臣民をば清国の法律井並に司法権に服従せしむる趣旨なるや。又清国人に対し内地を解放する趣旨なるや」。

②「在清帝国臣民をして清国の法律並に司法権に服従せしむるを以て不可となすとき、彼をして対等以下の条約を承諾せしむるに非ざる以外、亦、在帝国彼国臣民をして帝国の法律並に司法権に服従せしむることを得ざるぺし。此場合には、欧米各国と対等条約の締結せられたる後と雑も、政府は在帝国清人のみを我法権以外に置く意なるや」。

これを報じた翌日の『国民新聞』は「我在留邦人をして、我法権下に置くは固より至当の事なり。然れども、清国在留邦人をして清国の下に措くに至りては、不面目と言はんよりも、寧ろ不安と言はざるぺからず」と論じる。欧米に対する平等条約への志向は清国に対する不平等条約押し付けけの志向となって現われている。

5月24日

花柳章太郎、誕生。

5月24日

漱石、夜、太田達人を関根屋(神田区淡路町)に訪ねる。狩野亨吉が来ていて、狩野と共に大学寄宿舎に帰り、夜11時頃まで話す。

25日、漱石、夕刻、太田達人・狩野亨吉と共に、上野広小路青陽亭で夕食。"

5月25日

朝鮮、袁世凱、朝鮮政府の援兵要請に先立ち、出兵準備を李鴻章に電請。

5月26日

戦争に熱狂する士族、各地で義勇兵を志願、抜刀隊を編成(「東京日日新聞」26、29日)。

5月27日

朝鮮、長城の戦い。農民軍、全州手前100kmに至る。近代的装備でかためた政府軍の最精鋭部隊の先発部隊、長城郡の黄龍村で農民軍と対戦し、惨敗。

5月30日

川上参謀次長より釜山に派遣の伊地知幸介少佐、帰京、復命。参謀本部は、朝鮮は必ず清国に援兵を要請し清国もこれに応じる、日本も居留民保護のため出兵必要と決定。

参謀本部は、「匪勢甚だ猖獗にして韓兵之を鎮圧するを得ず、目下の趨勢、韓廷必ず援兵を清国に請ひ、汚国政府亦此請求を容るるに至る」と判断し、「我も亦兵を出すの必要」あると決定。

5月30日

陸奥外相、大鳥公使と会談。

翌31日、出兵規模・手順に関して大鳥の意見を求める。日清提携による朝鮮政府内の親露派追放する「内政改革実現」目指す。

5月30日

子規、『小日本』付録小冊子として、子規最初の選句集叢書『俳句二葉集・春の部」を刊行。

漱石の句を2句(「烏帽子着て・・・・・」「菜の花の・・・・・」)収録。

5月31日

朝鮮、東学軍、全州占領。全羅道首府全州(李氏王家発祥の地)無血占領。

この日、閔泳駿、国王の内命を受け、袁世凱に出兵救援を依頼

5月31日

衆議院、内閣弾劾上奏案(行政整理・経費節減要求、外交失敗非難)を153対139で可決。上奏は却下。政府は総辞職か解散かに追いこまれる。

総辞職は、条約改正交渉を出発点に戻してしまうし、また朝鮮問題の緊迫を前に政治的空白を回避しなければならない。山県枢密院議長は、伊藤首相の相談をうけ、「此際断然解散之策を取る」事を主張。しかし、解散は総選挙をもたらし、それに勝利する為には「人目を驚かす事業」で国民の目を反政府闘争からそらす必要がある(徳富猪一郎編述「公爵山県有朋伝」)。

「天皇制支配の危機はここまできた。一歩を誤まれは、専制天皇制の支配体制そのものを倒壊にみちぴきかねないばかりの事態であった。まさに専制天皇制にとっては、明治のはじめ以来の最大の危機であったといえよう」(中塚明「日清戦争の研究」)。

しかし、議会・政府との対立は、超然主義の危機で、体制的危機ではなく、対外硬派が攻撃しているのは伊藤内閣であり、帝国憲法体制ではない。

5月

漱石の結核と思われた症状消える。但し、医師の診察・服薬は続ける。朝と夕に弓を100本ほど試みる。面白くなり散歩する時間もない。


つづく


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