1894(明治27)年
2月
漱石、風邪の経過はかばかしくなく血痰をみた。
2月
イギリス、ルイーゼ・カウツキー(34)、ルートヴィヒ・フライベルガー(29)と結婚。
2月1日
子規、上根岸88番地から上根岸82番地(羯南宅東隣、終のすみか、子規庵)へ転居。
子規が根岸に住みはじめたのは、明治25年から。日本新聞社社長・陸羯南の紹介で上根岸88番地に住み、松山から母と妹を呼び寄せて生活を送った。
明治27年からは、陸羯南の東隣である、上根岸82番地に転居した。いわゆる「子規庵」である。
子規は、中村不折に、「文学者や美術家にとり根岸ほどよい所はない、閑静でもあり、研究にも至便の地である根岸を離れず、根岸の土となる」(和田克司「不折と子規」)、と語ったともいう。
根岸周辺には、子規に関わりのある、高浜虚子、河東碧梧桐、中村不折、浅井忠、寒川鼠骨らも住んだ。
根岸は、「呉竹の根岸の里」、「初音の里」などと呼ばれ「竹」と「鶯」の名所として有名であり、古くから文人墨客が多数居住する、閑静で風流な土地でった。
江戸時代には、画家・俳人の酒井抱一、浮世絵師の北尾重政、儒者の寺門静軒・亀田鵬斎らが住み江戸の文化を支えた。
明治 20年代には、幸田露伴、饗庭篁村、森田思軒ら、「根岸党」または「根岸派」と呼ばれる文人たちが、根岸を中心に活動していた。根岸党は、文学的な一派というよりは、むしろ、文人たちによる「サロン」という趣きが強かった言われる。また美術家の岡倉天心や新婚当初の森鴎外も根岸近辺に住み、根岸党と関わりを持ったという。
子規には根岸近郊を詠んだ多くの句がある。
「根岸にて梅なき宿と尋ね来よ」
「月の根岸闇の谷中や別れ道」
「芋阪も団子も月のゆかりかな」
「障子明けよ上野の雪を一目見ん」
「人も来ぬ根岸の奥よ冬籠」
「冬ごもる人の多さよ上根岸」
上根岸に動物の附いた横町が二つある。
狸横町に鶯横町。鶯横町とは優しい名だ。どんな横町であらうか。
狸横町を出た所に前田候の別邸の表門がある。それから一間余りの高さの黒板塀に添うて鶯横町と反対の方向に進むこと二十間許りで裏門へ出る。其裏門には十四五のいろ/\の表札がおもひおもひに打つてある。其れは孰れも此邸の内の貸家に住んでゐる人の名前である。尚ほ黒板塀に添うて左へ曲がつて更に二十間許り行くと又左へ曲る横町があつて其横町の左側は同じく黒板塀で右側は竹垣になつてゐる。其所に一つの立テ札があつて御家流の字で「鶯横町」と書てある。
此札の立つてゐる所から奥へ三十間許り曲つて淋しい横町が即ち鶯横町である。(中略)
元来幅の狭い町であるのに、高い板塀と竹籬の内から檜や椋や榛やの立木が飛び/\に出てゐるので、益狭く感じられる。是等の木に春はよく鶯が来て啼くので鶯横町の名がおこつたのであらうといふ事だが、冬枯の今頃でも鶸や鐡嘴はよく来て高い椋の木にしかけてあるハゴにかゝつて毎日四五羽は取られるさうな。 (中略)
初めて子規氏の宅を尋ねて、なつかしく思つてゐた鶯横町に這入つて来る者は、以上の事を目撃して、さうして三軒のうちの表札を一々しらべて、最後に「正岡子規」とある表札を漸く見当てて喜んで戸を推すと、戸に附けてある鈴がチリヽンと鳴つて、玄関の障子があく前に、必ず主人の咳を聞くであらう。
(高浜虚子「根岸草蘆記事」)
陸羯南の玄関番をしていた佐藤紅緑が引っ越しを手伝う
「比の二月今の処に転宅するといぶので、余は其の手伝を命ぜられた。余の第一の喜びはあの人は如何なる書を読んで、どれ丈け多くの書を持て居るかを見るにあつたが、行て見ると第一に驚いたのは写本である。其れは悉く自写であるに至ては寒心の外ないのであった。
(引っ越しのあと、同じく手伝いに来ていた五百木瓢亭と子規と3人で昼食)
此時いろいろな文学の話などがあった。「あなたは文学が好きだと陸君から話がありましたが、発句はどうです、やりますか」「イヤやった事がありません。狂歌ならば好んで読む位の事です。発句をよんでも狂歌ほど面白くありませんな」などと今から思へば抱腹の至りである。正岡さんは余の話を聞き、折々瓢亭君と顔を見合して笑つて居つた。」(佐藤紅緑「子規翁」、『子規言行録』収録)
2月2日
一葉(22)の年始廻り。
本郷の姉には、門から声をかけるだけにして、安藤坂の萩の舎に向う。前年11月15日の訪問の際には、師中島歌子は、「かつて浮薄の徒とのゝしり偽賢の人とうしろ指さしたる師は何方にさりけん」と思うほどの慈愛を示してくれていた。また年末には、歳暮の品を届けている。
この日、歌子は三宅花圃が家門を開くと語り、一葉にも勧めるが、それには取りあわず退出。近くの西村で昼食をふるまわれ、西村には借金を申し入れる。次に、かつて『都の花』編集に携っていた作家藤本藤陰を訪ねるが、転居していたため、23日に改めて転居先の根岸を訪問する。この日は、伊東夏子宅へ行き、遅くまで話をし、俥を世話してもらって帰宅。
外出着がなく年始回りは2月に入ってからになる。妹くに子が、一枚の着物の、羽織を重ねる部分を他の生地で継いで、外見上わからないように工夫する。
「年始に出づ。きるべきものゝ塵ほども残らずよその蔵にあづけたれば、仮そめに出んとするものもなし。邦子のからうじて背中と前袖とゑり、さまざまにはぎ合せて羽をりだにきたらましかば、ふとははぎ物とも覚えざる様に、小袖一かさねこしらへ出たり。これをきて出るに、風ふくごとの心づかひ、ものに似ず。寒風おもてをうちて寒さ堪がたき時ぞともなく、冷汗のみ出るよ。」(「塵中日記」明27・2・2)
(二月二日。年始挨拶に出かける。着物は全部質に入れてあるので、一寸した外出のためのものもない。邦子が苦心して背中と前袖と襟を色々に継ぎ合わせて、上から羽織を着れば、一寸見ただけでは継ぎ合わせ物とも見えないように小袖を一つ作ってくれた。これを着て出かけたのですが、風が吹くたびにめくれはしないかと、その気苦労は大変なものでした。寒風が顔を打ち寒さ厳しい季節だというのに冷汗ばかりが出るのでした。)
此月いはふべき金の何方(いづかた)より入るべきあてもなきに、「今日は我が友のうちにてもこしらへ来ん」とて家を出づ。「さはいヘど、伊東ぬしのもとにはかねてよりの負財も多し、又我心をなごりなく知りたりとも覚えぬ人にかゝる筋のこと度々いふべきにもあらず。いかにせん」と思ふに、・・・
(今月はどこからもお金の入る当てがないので、今日は友人の所を訪ね都合してこようと思って家を出る。そうは言っても、伊東夏子さんには前からの借金がまだ多い。かといって、私の気持ちをすっかり理解してくれているとも思われない人に、このような話など度々言えるものでもない。どうしようかと思案の末に、・・・)
借金の算段をしながらの年始回り。かつて樋口家が恩義を与えた西村釧之助には尊大な態度となる。
「「かの西村が少なからぬ身代にはらふくるゝを、五円十円の金出させなばいつにても成ぬべし。我はもとよりこびへつらひて人の恵みをうけんとにはあらず。いやならばよせかし。よをくれ竹の二つわりに、さらさらといふてのくべきのみ」とおもふ」(同)
(あの西村釧之助はかなり財産を持って裕福な暮らしをしているのだから、五円十円のお金を出させるとしたら何時でも出せるに違いない。私は勿論媚びへつらって人から恵みを受けようとしているのではない。嫌だと思うならばよせばよいのだ。青竹を二つ割りにするように、あっさりとした気持ちで言ってみるだけのことだ)と思って出かける。)
・・・。師君のもの語(がたり)に、「三宅龍子ぬし、家門を起し給ふこゝろ」のよし。さるは雄次郎君の内政之(の)いとくるしく、たらずがちなるに、例之(の)才女の、かゝる方におもむくこゝろ深く、かくとはおもひたゝれし成るべし。師は我れにもせちにすゝめ給ふ。「いかで此折過さず、世に名を出し給はずや。発会(はつくわい)当日の諸入用(ものいり)及びすべてのわづらひは、憂ふるべからず。何方よりも何共(なんとも)なるべく、かへりては利益のあるべし」と、いとよくすゝめ給ふ。・・・
(先生の話では三宅花圃さんが塾を開かれる予定とのこと。ご主人の雄次郎氏の勝手向きが非常に苦しくいつも不足がちなので、例によって才女のこととて、家計の一助にもと、このことを思いたたれたのでしょう。先生は私にもしきりに勧めなさる。
「是非この機会をのがさず、あなたも世間に名前をお出しなさい。発会当日の諸費用、またその他の面倒な事などは心配する必要はないのです。何処からでも何とかなるものです。むしろ逆に利益になることですから」
としきりに熱心に勧めなさる。)
事実は、龍子が華族女学校に通う近所の娘数人に『紫式部日記」を教えたことが歌子にとがめられ、看板料を納めてお披露目をするよう求められたものであった。
西村にて昼飯。種々(さまざま)ものがたる。「金子は明日、もやうをつぐべき」よし。
(西村氏を訪ねて其処でお昼をいただく。色々と話があり、お金のことは明日都合を知らせるとのこと。)
夏子ぬしを訪ふに、家をうりて明日明後日のほどには何方(いづく)へか移られんとて、いとろうがはしかりしが、此中(このうち)にてもの語りす。夜くるゝまでありて、車をたまはりてかへる。
(伊東夏子さんを訪ねる。家を売って明日か明後日には何処かへ引越されるとかでとりこんでおられたが、そんな中でお話する。夜が更けるまでお邪魔して車をいただいて帰る。)
2月2日
妹エリーザベト、ニーチェ・アルヒーフを母の家の1階にしつらえる。
2月7日
川上音二郎(30)、小田原の桐座で「意外」を興行。~12日。
2月8日
明治初年、洋風に改築された五条大橋がふたたび元の姿に戻され渡り初めが行われる
2月11日
絵入り新聞『小日本』創刊。編集主任は子規。月給は20円から30円に上がる。「月の都」「一日物語」「当世媛鏡」「俳諧一口話」「文学漫言」などを相次いで発表。
「強心臓にも(?)子規は『小日本』で、二年前に執筆し幸田露伴から遠まわしに出版を拒絶された処女小説『月の都』を、創刊号から連載し(三月一日まで)、さらに新作『一日物語』を発表する(三月二十三日から四月二十三日まで)。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))
つづく
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