2024年4月22日月曜日

大杉栄とその時代年表(108) 1894(明治27)年6月6日~11日 軍隊の進退、軍機軍略に関する記事を厳禁する陸海軍省令 論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(自由新聞) 東西「朝日」は、対清国強硬意見 清国派遣隊、牙山湾上陸 日本軍第1次派兵、宇品出港  一葉に久佐賀から手紙(歌道成道まで面倒をみるので「妾になれ」と提案) 全州和議成立 大鳥公使は軍隊派遣見合わせを打電   

 

朝鮮で活躍していた頃の若き袁世凱

大杉栄とその時代年表(107) 1894(明治27)年6月1日~5日 臨時閣議、混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議 第6議会抜き打ち解散 李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令 北村透谷追悼会 北村透谷追悼会 戦時大本営条例により大本営を動員(参謀本部内) より続く

1894(明治27)年

6月6日

清国公使館付武官神尾光臣少佐、清国第1次派遣隊は6日山海関出発と伝える。大本営は混成旅団動員完成後の出兵予定を、一戸兵衛少佐指揮の歩兵大隊先遣とする。

6月6日

漱石、狩野亨吉を訪ねる。

6月7日

清国駐在代理公使小村寿太郎、清国政府に公使館保護のための日本軍出兵を通告

6月7日

清国軍朝鮮出兵を知らせる行文知照、日本に届く。朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する旨を通告。陸奥外相、朝鮮を清国の属邦と認めずと抗議。

6月7日

軍隊の進退、軍機軍略に関する記事の新聞雑誌掲載を厳禁する陸、海軍省令

6月7日

7日付の「東京日日」、「朝鮮へ兵員を派遣する旨、我が政府より清国政府へ昨夜通報せられたる由」との記事で発行停止

第2次伊藤博文内閣の言論抑圧は日清戦争に至って激しさを加え、「大阪朝日」によると、27年中、治安妨害を理由に発行停止された全国各新聞・雑誌社は140社。

6月7日

論説「朝鮮は朝鮮の朝鮮にあらず」(「自由新聞」)。「わが帝国は宜しくこの時に乗じて・・・亜細亜の覇権を掌握するの機をなさんこと、是れ今日失うべからざるの好機にあらずや」と煽動。

6月7日

「大阪朝日」号外の「仁川通信員発」電報は、「昨日(五日)清国軍艦二艘、某国軍艦一艘、米国軍艦一艘来れり。軍艦尚ほ追々来るべし。清国の兵千五百上陸の通知今日ある筈なり」と事態の緊迫を伝え、東西「朝日」は、対清国強硬意見を掲げ、「国論を帰一して勇往邁進あるのみ」と主張。

6月7日

ペスト患者発生の米船ペリュー号、長崎に入港、市民を不安に陥れる。

6月8日

朝鮮、清国派遣隊、2次と合せ2,400余、忠清道牙山湾上陸。忠清道一帯布陣(京城~公州~全州を結ぶ要衝)。

6月8日

日本軍第1次派兵(一戸少佐大隊)、宇品出港

第1回目の清国徴発。済物浦条約第5条・天津条約第3条に藉口しての出兵。済物浦条約第5条主文は「日本公使館ハ兵員若干ヲ置キ護衛スル事」である。「若干」は、当初日本側提案は1大隊で、実際に駐屯した最大兵力は平時編成の歩兵2中隊で、その後1中隊に減じる。従って混成1個旅団8千は、済物浦条約第5条で正当化はできない。

11日、大鳥公使は、大島旅団長に対し、「当地ニ我兵員ヲ派出スル事ハ、本ト条約ニ照準シテ我公使館ノ警備ニ充ツルニ過ギザレバ、其名義上ヨリ考案ヲ下ダスモ多数ノ兵員ヲ要セズ」と指摘し、駐兵の沿革を述べ「故ニ公使館警備ノ為メニハ、多クトモ一大隊以上ノ兵ヲ置ク事ハ前例ニ照シテ不穏当ニ相捗り」、清韓両国は無論のこと「其他各国卜雖モ必ズ之ヲ視テ、穏当ノ処為卜倣サザルべク存候」と力説。大鳥公使は、済物浦条約第5条を理由として「大兵ヲ京城ニ繰入レ候事ハ、本使ニ於テ到底是視致兼候」と強調

陸奥外相は、天津条約第3条について、「両国が朝鮮に対する均等の権力を示したる唯一の明文にして、之を除きては朝鮮に対する権力平均に就き、日清両国の間に何等の保障だも存することなし」(「録」24)と述べ、その後の研究者もそれを踏襲し、ここに出兵の法的根拠を求める。しかし、陸奥自身は、別のところで「天津条約は、単に日清両国が軍隊を朝鮮に派出するの手続を規定するの外、他に何等の約束あることなし」(同75)と述べ、またイギリス政府が「朝鮮の事に付ては、一切日清両国の間に平衡を保つを以て天津条約の精神と認め」でいるのは、「条約の正解としてほ、全く之を誤りたるもの」(同25)と指摘するように、天津条約それ自身は出兵を合法化するものではない。

陸奥・川上は、混成旅団派兵が条約上正当な根拠がない事を自認しつつ、壬午軍乱(1882)・甲申事変(1884)で清国の軍事力に圧倒された経験に鑑み、「牙山の精兵は多く積りで五千人位なるぺし」と予定し、「我出兵を聞けば、必ず彼より来撃すべし」と判断し、その機に開戦にもちこむために混成旅団(兵8千)を派遣

しかし、全州和約がなり、公使館保護の名目が立たなくなり、牙山の清軍が自重して「瞬息の間に衝突すべきの模様もあらず」(「録」35)、大鳥公使も日清共同撤兵交渉に巻き込まれ、第1回挑発は失敗

6月8日

駐日ロシア公使ヒトロヴォ、陸奥外相に出兵理由問う。陸奥は中国の行動牽制のためと回答。ヒトロヴォ公使は、日本艦隊が朝鮮沿岸に集中しつつある、イギリス艦隊は巨文島に在泊し3ヶ付の物資を蓄積、我国東部国境に紛糾が及ぶ可能性ありと本国に急電。

6月8日

愛知馬車鉄道、設立。資本金15万円。'96年6月名古屋電気鉄道。

6月9日

李鴻章、英公使に日本の朝鮮派兵阻止を要請

6月9日

朝鮮、清国援軍、牙山に到着

6月9日

漱石、小屋(大塚)保治と共に狩野亨吉を訪ねる。

6月9日

一葉に充てて久佐賀から手紙。

「君が歌道熱心のため苦労しているのが憐れであるから、成業の暁まで自分が面倒をみよう。その代り君が一身を我に委ねてもらいたい」という。「妾になれ」ということである。一葉は、「かのしれ物、わが本性を何と見たのか」と憤慨するが、表面上は、「我を大事をなすに足りると見るならば、扶助を与え給え。しかし我を女と見て怪しき筋を考えるなら、お断りする」と返事。


「九日成(なり)けん、久佐賀より書状来る。「君が歌道熱心の為に、しか困苦せさせ給ふさまの、我一身にもくらべられていと憐(あはれ)なれば、その成業(せいげふ)の暁(あかつき)までの事は、我れに於て、いかにも為して引受ペし。され共(ども)、唯一面の識(みしり)のみにて、かゝる事を、『たのまれぬ』とも、『たのみたり』ともいふは、君にしても心ぐるしかるべきに、いでや、その一身をこゝもとにゆだね給はらずや」と、厭ふべき文の来たりぬ。「そもや、かのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。世のくだれるをなげきて、こゝに一道の光をおとさんとこゝろざす我れにして、唯目の前の苦(くるしみ)をのがるゝが為に、婦女(おんな)の身として尤(もつと)も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。あはれ笑ふにたえたるしれものかな。さもあらはあれ、かれも一派の投機師(やまし)なり。一言一語を解きざる人にもあらじ」とて、かへしをしたゝむ。「一道を持て世にたゞんとするは、君も我れも露ことなる所なし。我れが今日までの詞(ことば)、今日までの行(おこなひ)、もし大事をなすにたると見給はゞ、扶助を与へ給へ。われを女と見て、あやしき筋になど思し給はらは、むしろ一言にことはり給はんにはしかず。いかにぞや」とて、明らかに決心をあらはして、かなたよりの返事をまつ。」


(九日の日でしたか、久佐賀から手紙が来た。

「貴女が歌道に熱心に努力しておられるためにひどく困窮しておられることが、私自身の身にも考え合わせられて、大層お気の毒に思いますので、その成果が上がるまでの日々の生活のことは、私の方で何とかしてお引き受け致しましょう。しかしただの一面識の間柄で、このような事を頼まれることも、また頼むということも、貴女ご自身としても心苦しいことと思われますので、そこで、貴女のご一身をすっかり私にお任せ下さいませんか」

との、まことに嫌らしい文面でした。

一体あの不届き者はこの私の本性をどう見ているのだろうか。世の中が次第に衰え退廃して行くのを欺いて、それを救うために一筋の光をともそうと志しているこの私が、ただ目の前の困窮の苦しみから逃れるために、女の身にとって最も尊く最も大切なこの操を、どうして破ることが出来ようか。まことに笑おうにも笑えないほどの無礼な不届き者よ。そうは言っても、彼も一箇の相場師だとすれば、こちらが言う一言一の意味が全く分からない人でもあるまいと思って、返事を書く。

「それぞれに専門の道をもって世のために尽くそうとする点では、あなたも私も少しも違いはないのです。私の今日までの言葉や今日までの行いをご覧になればお分かりのことと存じますが、もし大事をなすに足るとお思いになりましたら経済的な援助をお与え下さい。私を単なる女とだけご覧になって、変な怪しからぬ事などをお考えなさるようでしたら、むしろきっぱりお断り下さった方がよいのです。どのようにお考えでしょうか」

と、はっきり私の決心を書いて、先方からの返事を待つことにした。)

「文(ふみ)を出すの夜、返事来る。おなじ筋にまつはりて、にくき言葉どもをつらねたる。「今は又かへしせじ」とて、そのまゝになす。

かの人丸も我家を訪ひたり。かゝる人に似合しからずと見ゆるは、かへすがへす我れを浮世の異人なるよしたゝえて、「長き交際(つきあひ)を結ばまほしき」よしなどいふ。おもしろからぬ者ども也。」

(手紙を出したその晩に返事が来る。同じことをごたごたと書き、不愉快な言葉を書き並べている。もう返事など出すものかと、そのままにする。

あの人丸も私の家へ訪ねて来た。どうも世捨て人らしくもないと思ったのは、何度も繰返し繰返し私を世にも珍しい立派な人だと褒めたたえて、長く交際を願いたいなどと言うのでした。全く面白くない人ばかりいることよ。)

6月10日

朝鮮、休暇帰国中の朝鮮駐在公使大鳥圭介、海軍陸戦隊420率い仁川上陸。漢城入京。

11日、各国外交団、大鳥公使に日本軍の出兵理由を質問。農民兵は解散し京城は平穏で、軍隊上陸は外交上の難問を惹起すると判断、軍隊派遣の見合わせを本国へ打電

6月11日

朝鮮、全州和議

招討使洪啓薫と交渉。平和を回復し、日清両国に出兵口実を与えないため。幣制改革(封建的身分の廃棄、貪官汚吏処罰、封建的収奪制限、土地の平均分作など)と農民軍全州撤退、解散。「大都所」-全羅道中50の農民軍「執綱所」。<国家機構の分裂・二重化>

6月11日

豊田喜一郎、誕生。


つづく


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