1894(明治27)年
3月12日
3月12日付け漱石の子規宛の手紙。
「・・・・・子規が『小日本』の編集主任になったのと同じ頃に、漱石は風邪をこじらせ、血痰が出てしまう。一時は結核発病かと心配もしたらしい。三月に入ってから医者の診察を改めて受け、安心したことを、漱石は三月一二日付の子規宛の手紙で書いている。
「目下は新聞事業にて定めし御多忙の事」と、子規の編集主任としての仕事をねぎらったうえで、「過日は小生病気につき色々御配慮」を子規からしてもらったことに感謝を表明している。そして「小生も始め医者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候へども」と、動揺したことを告白していたのでもあった。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
「其後病勢次第に軽快に相成目下は平生に異なるところなく至て健全に感じ居候へども服薬は矢張以前の通致し滋養物も可成食ひ居候固より死に出た浮世なれば命は別段惜しくもなけれど先づ懸替のなき者なれば使へる丈使ふが徳用と存じ精々養生は仕る覚悟に御座候へば先づ御安心可被下候小生も始め医者より肺病と承り候節は少しは閉口仕候へども其後以前よりは一層丈夫の様な心持が致し医者も心配する事はなし抔申ものから俗慾再燃正に下界人の本性をあらはし候是丈が不都合に御座候ヘどもどうせ人間は慾のテンションで生て居る者と悟れば夫も左程苦にも相成不申先づ斯様に慾がある上は当分命に別条は有之間敷かと存候当時は弓の稽古に朝夕余念なく候」
「死に出た浮世なれば命は別段惜しくもなけれど先づ懸替(かけがえ)のなき者なれば使へる丈使ふが徳用と存じ、精々養生は仕る覚悟に御座候へば先づ御安心可被下候」
弓の稽古をしていて、
弦音にほたりと落る椿かな
弦音になれて来て鳴く小鳥かな
弦音の只聞ゆなり梅の中
を添える。
3月12日
平田禿木に連れられて馬場孤蝶(25)が初めて一葉(22)を訪問。
「十二日 ・・・禿木子及孤蝶君来訪。孤蝶君は故馬場辰猪君の令弟なるよし。二十の上いくつならん。慷慨悲歌の士なるよし。語々癖あり。「不平不平」のことばを聞く。うれしき人也。」
一葉の馬場孤蝶への好意的評価。
一葉は、別のところでも、「こゝろうつくしきかな」と孤蝶を評している。一葉は孤蝶に「文学界」同人の中でも、文学的にも人間的にも、もっとも心を許すことのできる相手を見出していた。
馬場孤蝶:
本名勝弥。旧土佐藩士馬場來八の4男。自由民権運動家馬場辰猪(米国で客死)の弟。明治11年、父母と共に上京、本郷龍岡町に住む。長兄以下を失い「家」を背負う状況に陥る。神田淡路町の共立学校(一葉が淡路町時代に暮らした家の前にあった)では禿木や幸田成友と同級であった。明治学院では島崎藤村や戸川秋骨と同級であった。
卒業後、郷里の高知の共立中学校に英語の教師として赴任するが、藤村がその下宿先に訪ねて行って孤蝶を『文学界』同人に引き入れ、孤蝶は上京。本郷区龍岡町十五に住み、勉強のかたわら『文学界』の同人と交渉をもった。明治26年(1893)9月に日本中学に転職し、「酒匂川」など長編の新体詩や「流水日記」などを発表した。初めて一葉を訪ねたのは明治27年3月12日で、禿木と二人で下谷龍泉寺町を訪れた時であった。その後、明治28年9月彦根中学に赴任するまで、最も頻繁に丸山福山町を訪ねた一人であった。
東京を去ってからの孤蝶は、度々長文の手紙を一葉に書き送り、一葉も、孤蝶を思って次のような歌を詠む。
「ふる雨のはれせず物をおもふかな
今日もひねもす友なしにして
よそにきく逢坂山ぞうらめしき
われはくもゐのとほき隔てを」
3月13日
一葉、久佐賀を訪問。
14日、久佐賀に手紙を出し、物質的援助を請う。
「十三日 晴れ。真砂丁に久佐賀を訪ふ。日没帰宅。おくらいまだ帰らず。」
「十四日 田中君を訪ふ。かずよみせんとて也。夕べはがきを出したれど、行ちがひてかれよりも文を出したるよし。「今日は小石川師君と共に鍋島家に参賀の事あり」とて、支度中也。例之(れいの)龍子(三宅花圃)ぬしがー条、いよいよ二十五日発会と発表に成ぬ。されは右披露をかねて、鍋島家の恩顧をあほがん為、今日の結構はある也けり。田中ぬし出でさられし後、一人残りて暫時かずよみす。題は三十題成し。醜聞紛々。田中君の内情みゆる。」
鍋島直大の邸宅。夫人栄子とその令嬢たちが歌子に和歌の手ほどきを受けた。
田中さんが出て行かれた後一人残ってお弟子さんたちに暫く歌の数詠みの指導をする。題は三十題。みの子さんについての醜聞をあれこれと聞く。みの子さんの生活の内情が見えるようだった。
3月16日
マスネー、オペラ「タイース」、パリ・オペラ座で初演。
3月18日
一葉日記より。禿木より手紙。今月の「文学界」への寄稿は、なるべく多くの枚数を21日迄にとのこと、また馬場孤蝶からの伝言として、学校のことで忙しく落ち着いたら伺うとのこと。
3月20日
ハンガリーの革命家ラヨシュ・コシュート、トリノで没。
45年間亡命。ブダペストでは、宗教選択の自由、教会に依存しない結婚法を求める運動激化。4月2日、葬儀。民族大デモとなる。
3月23日
子規『一日物語』(『小日本』連載)。虚子が口述筆記。
「「月の都」に次いで居士は『一日物語』という小説を、三月二十三日から『小日本』に掲げはじめた。これは新聞に載せるため、新に稿を起したので、「月の都」の如く惨憺たる苦心の余に成ったものではない。「月の都」の文章は句々鍛錬の迹(あと)が著しく、『風流仏』的小説を書くことが一の目的になっていたという居士の言も、慥(たしか)に首肯し得るものであったが、『一日物語』は新聞に連載する必要に迫られて筆を執ったので、その筋の如きも進むに従って次第に変化して行ったのではないあと思われるところがある。当時学業を一擲(いってき)して上京していた虚子氏の記すところによれば、小説の執筆は大概夜牀(とこ)に入ってからであり、口授して虚子氏に筆記せしめたものであるという。忙しい新聞事業に携わっている居士としては、小説に思(おもい)を凝しているような時間を持合せなかったのであろう。」(柴田宵曲『評伝正岡子規』)
3月25日
半井桃水から一葉宛葉書。
一葉は下谷龍泉寺町の小店をたたんで、作家生活に戻ろうとした時、再び桃水を頼ろうとし、訪問について問い合わせ、桃水は「御出を御待ちすると返書する。
3月26日
一葉、転居費用調達と桃水訪問
父の代に多額の貸金が神田のかまぼこ屋遠州屋に50円の借金を申し込む(結果、15円が送られてくる)。
次に、母の許しを得て桃水を訪問。「うれしとも嬉し」と書くが、桃水は病床にあり、存分には話はできず。
翌27日、萩の舎に中島歌子を訪ね、月2円で助教をするよう依頼される。
28日、母は西村に借金を申し込む。
4月になって、西村釧之助から利子付きの借金50円を世話して貰う。
「二十六日 半井ぬしを訪ふ。「これよりいよいよ小説の事ひろく成してんのこゝろ構へあるに、此人の手あらば一しほしかるべし」と母君もの給へば也。年比(としごろ)のうき雲、唯家(いへ)のうちだけにはれて、此人のもとを表だちてとはるゝ様に成ぬる、うれしとも嬉し。まづふみを参らせて、在宅の有無を尋ねしに、「病気にて就褥中なれど、いとはせ給はずは」と返事あり。此日空(そら)もようよろしからざりしかど、あづさ弓いる矢の如き心の、などしばしもとゞまるべき。午後より出づ。君はいたく青みやせて、みし面かげは何方(イヅク)にか残るべき。別れぬるほどより一月がほどもよき折なく、「なやみになやみて、かくは」といふ。哀れとも哀也。物がたりいとなやましげなるに、多くもなさでかへる。」
((三月)二十六日。半井桃水先生をお訪ねする。これからはますます小説のことに手広く取り組んで行こうとの心構えも決まったし、また、「この人の助けがあれば、一段と好都合になるだろう」
と母上も言って下さったからです。母卜のこの言葉で、ここ数年来心にかかっていた浮雲が、たとえ家族の中だけであってもすっきりと晴れて、表だってお訪ね出来るようになったことは、何とも言いようがないほど嬉しい。まずお手紙をさしあげてご在宅の有無をお尋ねすると、
「病気で寝ているが、それでよろしければおいでをお待ちしています」
とのご返事があったのです。
この日は空模様もよくなかったが、射る矢のように飛んで行きたい気持ちは、もうじっとしておれなかったのです。午後からでかける。桃水先生はひどく顔色も悪く痩せて、以前の面影はどこにも残っていませんでした。
「あなたとお別れしてからというものは、ひと月とても元気な時はなく、病気に苦しめられてこんな状態です」
とおっしゃる。本当にお気の毒に可哀相に思ったのでした。お話なさるのもひどくお苦しそうなので、多くもお話しないで帰る。)
「二十七日 小石川に師君を訪ふ。田辺君発会、昨日有べき筈之所、同君病気にてしばしのびたるよし。その序(ついで)に我上(わがうへヘ)をも、「いかで斯道(このみち)に尽したらんには」など語らる。「我が萩之舎の号をさながらゆづりて、我が死後の事を頼むべき人、門下の中に一人も有事(あること)なきに、君ならましかばと思ふ」など、いとよくの給ふ。ひたすら頼み聞え給ふに、これよりも思ひもうけたる事也、さりとはもらさねど、さまざまに語りてかへる。」
(二十七日。萩の合に中島先生をお訪ねする。三宅花圃さんの発会披露の歌会が昨日の筈であったが、本人の病気でしばらく延びたとのこと。その序に私にも歌道に励んではどうかなどと話される。
「私のこの『萩の舎』の号をそのまま譲って、私のなき後のことを頼むことが出来るような人は、今の門下の中には一人もいないので、もしあなたが引き受けてくれたらね」
などと都合のよいことをおっしゃる。熱心にしきりにこのことをおっしゃるにつけても、かねて私も想像していた事ではあるのですが、そのことは口にも出さず、色々と他の話に紛らして帰る。)
「二十八日 母君、音羽町佐藤梅吉に金策たのみに行。むづかしげ也しかは、帰路(かへり)、西村に立よりて、我(わが)中島の方へ再度(ふたたび)行べきよしを物がたりて、金策たのむ。「直(すぐ)にはむづかしげにみえし」とか聞しが、母君帰宅直に、車を飛して釧之助来訪、金子の員(かず)を問ふ。その親などにはゞかれば成べし。」
(二十八日。母上は音羽町の佐藤梅吉氏に金策を頼みに行かれる。むずかしそうだったので、帰りに西村の所に寄って、私が萩の合に再び戻るようになった事を話して金策を頼まれる。すぐにはむずかしそうに思われたということでしたが、母上の帰宅後、すぐに、車を飛ばして釧之助氏が来られて金額のことを尋ねなさる。これは自宅では母親に気がねなきったからでしょうか。)
3月27日
陸奥外相の青木駐英公使宛私信。国内情勢切迫し、これを沈静化させるためにには「何か人目を驚かす事業」をする必要あり、「唯一のめあては条約改正」と述べる。
「内国ノ形勢ハ日又一日ト切迫」して、「政府ハ到底何力人目ヲ駕カシ候程ノ事業ヲ成敗ニ拘ハラズ為シツツアル事ヲ明言スルニアラザレパ、此騒擾ノ人心ヲ挽回スべカヲズ」と強調し、「内政ノ関係ヨリ強テ外交ノ成効ヲ促シ候ハ、稍本末未相違ノ嫌ナキニシモアヲザレドモ、時勢ガ時勢故実ニ不得己ノ次第」と指摘し、「故モナキニ警ヲ起ス訳ニモ不参候事故、唯一ノ昆ハ条約改正ノ一事ナリ」と結論し、「最早ペンベント永引候事ヲ容レザルノ形勢」である述べる。だが、ショウ事件で不利な地位に立つ日本は、露仏と協同して東洋でのイギリスの地位を孤立させる事はしないとの「ポリチカールコンセッション」を与える。イギリスは満足し、改正交渉はここから軌道にのる。
つづく
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