1894(明治27)年
5月2日
「対韓の決心」(「自由新聞」)。政府が(対清戦争の)「最後の決心」を下すことを求める。
5月2日
青木駐英公使、外務省パーティ外務次官補訪問。パーティは、英は朝鮮に権益を求めない、ロシアの朝鮮占領・石炭貯蔵所獲得を恐れていると述べる。青木は、露仏の要求は絶対に容認しないとの保証を与える。この保証により、日英間の意志は疎通し条約改正交渉が本格的軌道にのる。
5月2日
高野房太郎(25)、米軍艦ヴァーモント号水兵(食堂勤務員・給仕)となる。契約期間ははじめ1年、すぐ3年に延長。
5月4日
朝鮮、第1次甲午農民戦争開始
全琫準の部隊、古阜・泰仁の武器庫を襲い、農民蜂起は本格的な戦争へ発展。農民軍は古阜郡内白山に陣(「湖南倡義所」)を構え、全琫準は最高指揮官に選ばれた。副官には、孫和中(孫化中)と金開南が就任。行動目標もは「ソウルに進撃し、特権貴族を滅ぼせ」。
この年2月の民乱は、郡守追放・不法徴収米奪還によって目的を達成し解散するが、政府の弾圧により再蜂起。民乱は局地的一揆から全国的農民戦争に転化、「八路(全国)同心」のスローガンを掲げ、宗教的一揆の限界を越え農民民主主義に立脚する新しい社会を展望して「保国安民」を主張。農民戦争勃発に対し、政府は鎮圧のため軍隊を送るが、待遇不良のため志気振わず、逃亡者続出し各地で敗北。
5月7日
上野恩賜公園内の料亭「桜雲台」で三宅(旧姓田邊)花圃(龍子)の新歌門桜園の披露歌会が開かれる。
花圃は、一葉の姿が会場に見えないので、萩の舎の土曜稽古に歌子の代講として後輩たちの稽古を預かっているものと思い、会場から手紙を寄せる。すでに一葉からこの歌会の兼題「庭の若竹」を詠んだ「しげるべきちひろのかげもまづみえておひ出にけりにはのわかたけ」の一首が龍子宛に届けられてあった。
5月8日
朝鮮、討伐軍、清国軍艦「平遠」で仁川より全州入り。
5月9日
久佐賀義孝より一葉へ、転居通知に対する返事。近くになったこともあり(久佐賀は真砂町、一葉は丸山福山町で同じ本郷区ですぐ近く)、明後日に訪ねるとのこと。
5月11日、久佐賀が来訪。一葉は久佐賀に〈百事顧問たるべき〉ことや〈会計〉(おそらく歌塾を開くことへの支援を要請した)のことなどを依頼。対して、久佐賀は一葉を飯田町富士見楼に誘う。
5月13日ころ、久佐賀より手紙。一葉を富士見楼に誘った事への謝罪を述べる。(一葉からの断り状は残されていない)
5月9日
ハンガリー、コロジヴァールで「覚書裁判」。~17日。少数民族「ルーマニア人民委員会」の君主批判文書裁判。
5月10日
与謝野鉄幹(21)「亡国の音(おん)、現代の非丈夫的和歌を罵る」(「二六新報」~18日)。徹底した宮中御歌所派批判。「二六新報」の国家主義もうかがえる。
5月11日
朝鮮、黄土峴(こうどけん)の戦い。農民軍、全羅道監司金文鉉率いる数千の軍を古阜の東方にある井邑郡黄土峴で撃破。討伐軍は李景鎬将軍含む750戦死。農民軍は、茂長に進出し、ここで倡義文(宣言)発表。
5月14日
朝鮮、東学党蜂起、忠清道・慶尚道に広がる。
5月15日
第6議会開会。対外硬派が主導権掌握。
開会直前、対外硬6派懇親会。改進党、中国進歩党、国民政社、立憲革新党、財政革新会、旧大日本協会。中国進歩党は犬養毅を中心とする改進党の別働隊、国民政社は国民協会が改称したもの。対外硬6派の総議席数は130、懇親会では結束して政府に対外強硬策を迫ることが申し合わされる。第6議会では、従来の政府・吏党対民党に代わり、自由党と反政府の対外硬6派という図式ができる。
5月16日
北村透谷(25)、芝公園の自宅庭先で自死。17日キリスト教による葬儀。
■透谷の自死について
平田オリザが読む
硯友社を立ち上げた尾崎紅葉が華々しい活躍を始めた頃、一方で「文学とは何か?」「日本語で文学は可能か?」を真剣に悩む若い一群があった。今も名が残るところでは島崎藤村、上田敏など。そして、当時まだ二〇歳前後の彼らにとって、兄貴分にあたるのが北村透谷だった。
「内部生命論」など一連の著述で透谷は、人間には「内面」というものがあり、それを表現するのが文学の役割だと記した。これは当時、とても新しい感覚だった。透谷は旧来の勧善懲悪の戯作(げさく)や、当時勃興しつつあった大衆文学を鋭く批判し、そこに描かれているのは「恋愛」ではなく、単なる肉体の欲情に過ぎないと喝破した。今の私たちから見れば、それはそれで単純すぎる断罪のように思うが、一部の急進派の文学青年たちから、透谷は圧倒的な支持を集めた。
しかし透谷は、自らの文学論にかなうだけの作品は残せなかった。そして、新しい文学の概念だけを予言して、二五歳の若さで自死する。残された者たちの衝撃は大きかった。彼は日本文学史上最初の殉教者となった。実際には、おそらく透谷は、いまで言ううつ病などの精神障害だったと思われるが、当時の同輩たちはそうは考えなかった。
小説や詩を書けないという苦悩だけで人は死に至る。いや、文学は死に値するほどの崇高なものなのだと透谷は身をもって後続の者たちに示した(と藤村たちは思った)。
透谷の文章は読みづらい。
「人間の内部の生命なるものは、吾人(ごじん)之(こ)れを如何(いか)に考ふるとも、人間の自造的のものならざることを信ぜずんばあらざるなり」
こんな感じの、肯定だか否定だか一読では読み取れない、今の基準で言えば悪文が並ぶ。だがおそらく、この難解な文章さえも、当時の若者たちにとっては格好良く映ったのだろう。
実際、明治近代文学における透谷の影響は計り知れない。多くの若者たちが透谷のように生きたいと思った。透谷の書けなかった小説を書きたいと考えた。
(北村透谷「内部生命論」 「内面」描く新しい文学を予言)=朝日新聞2019年7月6日掲載
天才は自らの狂気を恐れる。恐れるあまり、自殺を試みる。明治27年5月16日払暁、北村透谷は東京芝公園地内の自宅の庭で縊死する。25歳である。前年末にも自殺未遂を起こしている。大日本帝国が日清戦争を戦う2か月前のことである。
北村透谷を一夜にして日本近代文学の旗手とした評論「恋愛と厭世詩家」の冒頭の一節は次の文章で始まる。
恋愛は人世の秘鑰なり。恋愛ありて後人世あり。恋愛を抽き去りたらむには人世何の色味かあらむ。然るに尤も多く人世を観じ、尤も多く人世の秘奥を究むるといふ詩人なる怪物の尤も多く恋愛に罪業を作るは、抑も如何なる理ぞ。(略)
「恋愛は人世の秘鑰(やく)なり。」という書き出しが島崎藤村を驚かせた。「恋愛は人世の秘鑰(やく)なり。」と言う文の意味は「人世の鍵は恋愛にある」と言っているのである。この評論が発表されたのは明治25年3月の『女学雑誌』であるから、透谷自殺の2年前であり、芥川龍之介が誕生した年に当たる。日本人は恋愛に否定的な考えは持ってはいなかったが、正面切って恋愛が人世の鍵であると言い切ったものは江戸時代はもちろん、明治になってもまだ誰もいなかった。透谷のこの恋愛至上主義ともいうべき一言に由って、日本近代文学が幕開けしたというのが文学史における評価である。そのことを後に島秋藤村が『桜の実の熟する時』の中で次のように書いている。
(略)
島崎藤村が上の文章を発表したのは大正7年2月『文章世界』誌上のことである。藤村が初めて透谷の文章に感動してから四半世紀の時間が流れているが、その感動は少しも薄れることがなかったのだ。透谷もまた藤村を通じて生き残ったということが出来る。藤村なければ、透谷の天才も明治文学史の一部分に名を残すにとどまったかも知れない。稀有なる魂の邂逅が透谷、藤村という日本近代文学の偉大な先駆者とその後継者を生んだのである。
天才は何故自殺願望を育み、繰り返し自殺を試み、遂に目的を果たして死の世界へ旅立ってしまうのだろうか。透谷はまだ10代から20代にかけて自由民権運動に身を投じ、早くも政治的社会的活動の素質の欠如を身を以て知り、文学へ志す。そしてこの民権活動から離脱する中で東京三多摩民権活動の最高指導者石坂昌孝の長女、3歳年長の石坂ミナと運命的出会いを果たし、紆余曲折の恋愛時代を経て、3年後数寄屋橋教会で結婚式を挙げ、京橋区弥左衛門町の自宅で新婚生活が始まる。透谷は没落士族出身の貧書生であり、石坂ミナは何不自由ない大地主の長女であり、横浜にあった共立女学校を卒業する。透谷もミナもキリスト教信者であった。
透谷の随筆に「三日幻境」がある。明治25年『女学雑誌』に掲載された。この中に透谷の俳句がいくつか載せられている。現在の東京都八王子市の郊外に当たる南多摩郡川口村に年長の友人秋山国三郎を訪ねた時の一文である。秋山国三郎は民権活動家大矢正夫(蒼海)を通じて透谷がまだ10代半ばの10年ばかり前に知り合った豪農であり、民権運動の支持者であった。この秋山は俳人であり、透谷は彼から俳句を学んだのであろう。
(略)
透谷は『文学界』創刊第2号に「人生に相渉るとは何の謂ぞ」という文章を発表し、民友社の論客山路愛山の実益優先の芸術論を厳しく批判する。
(略)
近代日本文学を命がけで切り開いた透谷の天才も明治社会の現実の中で、しがらみの中で、桎梏の中で疲労困憊し、刀折れ矢尽きて自ら首括らざるを得なかった。同時代の俳句革新者正岡子規はこの頃はまだその道に踏み出す前であり、夏目漱石は英文学の大学院生であり、早熟の天才北村透谷とは同じ東京にありながら、路傍の人でしかなかった。尚透谷の号は彼の住んだ町の眼と鼻の先の江戸城外堀にかかった数寄屋橋から洒落たものである。透谷を訓読みすれば「数寄屋(すきや)」というわけである。
つづく
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