1894(明治27)年
2月14日
朝鮮駐在公使大鳥圭介、朝鮮の近況を報告。革命を企図する者多いが、日清協力して朝鮮内政改革を実行し革命を抑止するという意見。
2月15日
朝鮮、古阜民乱。
全羅道古阜郡で郡主趙秉甲に対する全琫準・鄭益瑞・金道三指導農民4千反乱、郡庁占拠、獄舎解放、税米取り戻し、武器奪取。
25日、左議政趙秉世の改善約束を信じ、全琫準は郡庁占拠解除、解散指示。
しかし、政府は約束を守らず、東学の仕業と看做し弾圧。政府軍出動し、東学の男達を逮捕、信徒の財産略奪、抵抗すると焼き払う。
全琫準:
接主(中堅リーダ)。古阜出身。古阜官吏の父は百姓一揆を指導して刑死。1890年第2世崔時亨門下に入り、反乱指導、斥洋斥倭運動、閔氏一族の勢道政治弾劾運動に活躍。
2月17日
一葉日記より
二月十七日 平田君より状(ふみ)来る。『文学界』の投稿うながし来る也。ほし野君よりも、おなじことにて状来る。
十八日、十九日、執筆いそがし。小説「花ごもり」四回分二十枚計(ばかり)なる。
二十日 清書(きよがき)。午後(ひるすぎ)、平田君にむけ出(いだ)す。
(「花ごもり」其1~其4、脱稿し、平田に届ける。)
二十二日 かみあらひ。
2月23日
商売は行き詰まった一葉、捨て身の行動に出る。
本郷真砂町の一種の山師天啓顕真術会の観相家久佐賀義孝(30)を相手に偽名秋月を使って近づき、「すでに浮世に望みは絶えぬ、此身ありて何にかはせん、いとをしとをしむは親の為のみ。さらば一身をいけにゑにして運を一時のあやふきにかけ相場といふこと為して見ばや」と千円もの大金を引き出そうと試みる。対して、久佐賀は金は出すから妾になることを要求。
5月、一家は10ヶ月出した荒物屋を閉じ、本郷の丸山福山町へ転居するが、一方で尚も、「交わりの情を以て」月15円の補助をすると言い寄る久佐賀を相手に、交際抜きの援助の申込みを続ける。際どい手紙のやり取りは1年近くにも及び、日記の空白期間とも重なる。
この頃、一葉最大の危機か?
2月11日付『東京朝日新間」に載った天啓顕真術会の広告を見て相場を教えてもらおうと思いつき、23日本郷真砂町に久佐賀義孝を訪ねる。広告では、易学の一種の観相によって、身上の吉凶を占い、商売の勝利術指南、相場などの予言、病気の鑑定をするという。「受鑑諸君より受納せし礼状実に山の如く」ともいうが、久佐賀は、禅、漢学、易経を修めた世間に知られる人物。
「久佐賀はまさご丁(チヨウ)に居して天啓顕真術をもて世に高名なる人なり。うきよに捨ものゝ一身を何処の流にか投げこむべき。学あり力あり金力ある人によりて、おもしろくをかしくさわやかにいさましく、世のあら波をこぎ渡らんとて、もとより見も知らざる人のちかづきにとて、引合せする人もなければ、我よりこれを訪はんとて也」(同、明27・2・23)
(浮世に世捨人ともいえるこの体を、どこの流れに投げ込んだらよいのか。学問もあり力もあり金力もある人によって、面白おかしく、きれいに、勇ましく世の荒波を漕ぎ渡ろうとして、もちろん見ず知らずの人と近づきになろうとしても、紹介してくれる人もないから、自分からこの人を訪問しょうとするのである。)
久佐賀は元治元年(1864)熊本城下に生れ、禅・易学を修めた後、朝鮮に渡り、季節学を研究し、清・インド・アメリカ合衆国を研修旅行して明治19年に帰国、本郷で天啓顕真術会を創設した。本部は本郷区真砂町32にあった。
顕算術による鑑定。
『東京朝日新聞』2月11日付の広告には、「顕真術は天地四季の活動変化妙用法に拠て物体物質に関係ある系線引力の盛衰気候正変数理の出没等よりして人体幽明の事柄は勿論筍も宇宙万物有機上凡て最初の起因を求め未然の結果過去の状況現在の如何を瞭然火を見る如く顕真する一大奇術」とある。
新聞に、全国にわたる久佐賀の会員のおびただしい数が宣伝されていた。遠山景澄著「京浜実業家名鑑』(明40・12刊)に「君亦予言に妙なり人身の吉凶相場の高低一として適中せざるはなし世人以て神となす」とある。
「我れはまことに窮鳥の飛入るべきふところなくして、宇宙の間にさまよふ身に侍る。あはれ広き御むねは、うちにやどるべきとまり木もや。聞たまへ、先生。うきよの人に情はなかりけるものを、わがこゝろよりつくり出てたのもしき人とたのみ、にごれるよをも清める物とおもひて、我れにあざむかれてこゝに誠を尽しにき。・・・今は下谷の片ほとりに、あきなひといふもふさはしかるまじきいさゝか成る小店を出して、ここを一身のとまりと定むれど、なぞやうきよの苦しみのかくて免(ノ)がるべきに非らず。老たる母に朝四暮三のはかなきものさへすゝめ難くて、我がはらからの佗び合へるはこれのみ。すでに浮世に望みは絶えぬ。此身ありて何にかはせん。いとをしとをしむは親の為のみ。さらば一身をいけにゑにして、運を一時のあやふきにかけ、相場といふこと為して見ばや。されども貧者一銭の余裕(ユトリ)なくして、我が力にて我がことを為すに難く、おもひつきたるは先生のもと也。窮鳥ふところに入たる時ばかり人もとらずとかや。天地(アメツチ)のことはりをあきらめて広く慈善の心をもて万人の痛苦をいやし給はんの御本願に思(オボ)し当ることあらば教へ給へ。いかにや先生、物ぐるはしきこゝろのもと末(スエ)、御むねの内に入たりやいかに。」(「日記ちりの中」明27・2・23)
相場をしたいが金がないので助けてほしいというが、多分、一葉は本気で相場をやりたいのではなく、この事業家から、生活打開の智恵を得るか、或は生活費を引き出せないかと考えたのであろう。
「我が一生は破れ破れて、道端にふす乞食(かたゐ)の末こそは、終生の願ひ成けれ。さもあらばあれ、其乞食にいたるまでの道中をつくらんとて、朝夕もだゆる也。つひに破るべき一生を、月に成てかけ、花に成て散らばやの願ひ。破れを願ふほかに、やぶれはあるまじやは。要する処は好死処(よきしにどころ)の得まほしきぞかし。」との大胆さを見せる一葉。
久佐賀は「秋月」と名乗る一葉の申し出を慰留し、相場はやめるべきと言い、「あらゆる望みを胸中よりさりて終生の願ひを安心立命にかけたるぞよき」と諭し、「自然の誠にむかひて物いはぬ月花とかたる世界、即ち文学の道に進むことを勧める。
帰宅後久佐賀に出そうとした一葉の手紙の下書には、「にごりににごれる世の中をいとひて清き一生を送らんとする身に災厄しばしば来り厄難度々のぞみて人しらぬ苦るしみにこゝろを痛めつゝ猶此よを捨てもはてぬは或る大きなる望につながるればに御坐候を我天性の小さくかすかに小溝の中に育ちて汚れのうちに死するうぢむしと同じかるべしとはさても情なき生れに御座候はずや」と訴えている。
その後、久佐賀とのかかわりは、卑俗な展開をみせる。
最初の訪問の5日後、一葉の礼状に対し、久佐賀からは、一葉との交際を望み、梅見の誘いが来る。
一葉は、「貧者余裕なくして閑雅の天地に自然の趣きをさぐるによしなく」と断り、「梅見の同行は、かれに趣向あるべし。我れは彼が手中に入るべからずとほゝ笑みて返事したゝむ」と日記に記す。
しかし一葉は、その後も久佐賀とは1年ほど交際を続け、久佐賀は一葉を料亭に誘ったり、6月には、「貴女の身体は小生に御任せ被下(クダサル)積りなるや否や」と妾にならないかと申し出たりする。
一葉は久佐賀の誘いや要求に対し、言葉巧みに身をかわしている。
一葉は、久佐賀にそれまでの自分をとりまいていた男性とは異質のタイプの男性像を見続けたことになり、その後の作品の上に幅と深みを増す一因となっている。
久佐賀との関係の中で「男」と「女」の関係を収穫として、その後の作品「暗夜」「たけくらべ」「にごりえ」の女性像が豊かになっていると言われている。
折から田遽花圃が歌門を開くと聞かされていた一葉は、中嶋歌子と相談の結果、田中みの子と二人で助教(非常勤講師)として師の稽古を助けることになり、3月から萩の舎に復帰した。
2月25日
一葉のもとい平田禿木が来訪。三宅花圃と鳥尾広子が家門を開くことが、『女学雑誌』に紹介されていたという。花圃のことは、歌子からも聞いていたが、広子(華族、貴族院議員、陸軍中将鳥尾小弥太の娘)もまた開くという。
「二月二十五日 西村君来訪、午後まではなす。平田君来訪されたるより、前者はかへる。例(いつも)のせまやかなる部屋の内に物がたること多し。五時まで遊ぶ。「女学雑誌」に「田辺龍子、鳥尾ひろ子の、ならべて家門を開かるゝ」よし有けるとか。万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し。」
『女学雑誌』第365号(明27・2・3刊)に掲載された「田辺花圃女史」。「歌人中島うた子の高門弟たる田辺花圃女史は、師のすゝめにより、鳥尾子の令嬢と力を合せて此度び新たに歌門を開かる」とある。
一葉が龍泉寺町へ転居する前、歌子は、広子について、少し歌がうまくなったもので有名になりたいという虚栄心がみえみえで、歌への真実の志がないと批判(「こも又虚飾にて誠みちにこゝろざすの人には非らず」26年6月22日「日記」)していたが、その歌子が広子の家門を許したと知って、一葉は衝撃を受ける。
歌子は一葉にも家門を開くように提案したが、家門を開くには、師匠への支払い、披露の催し、社交上の出費など莫大な金がかかり、一葉にはとうてい望めないことであった。
歌子が家門を許す条件は金と家柄であり、歌子は一葉には「発会当日の諸入用及びすべてのわづらひは憂ふるべからず」と言っているが、これまでの歌子の行動を考えると、とてもそれを当てにすることはできない。
つづく
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