2024年4月15日月曜日

大杉栄とその時代年表(101) 1894(明治27)年3月1日~10日 子規、中村不折を知る 漱石、神経衰弱で憔悴 第3回衆議院選(民党躍進、対外硬130) 一葉、頭痛で寝込む 明治天皇結婚25年の祝典

 

楊斎延一 作「銀婚式大典之御儀式」

大杉栄とその時代年表(100) 1894(明治27)年3月 「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」(一葉日記)  より続く

1894(明治27)年

3月

子規、挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。


「不折と『ホトトギス』との、さらには彼が『吾輩は猫である』の挿絵画家となる縁は、すべてここに始まる。」(坪内祐三『慶応三年生まれ七人の旋毛曲り』(新潮文庫))

3月

松山で野間叟柳ら松風会を結成。

3月

この頃、漱石は菅虎雄に付き添って貰って北里柴三郎のもとを訪ねている。この頃、漱石は神経衰弱で憔悴しているうえに血を吐いた。漱石は結核ではないかと心配した。結核は兄2人の命を奪った難病であり、いつ自分も襲われるかもしれない恐怖を抱いた。


学生時代のことであるが、或る時夏目君がどうも自分は胸が悪いのぢやないかと心配だから北里柴三郎氏に診て貰ひたいと思ふが一人で行くのは何だから君一緒に行つてくれないかとのことで、当時北里氏は多分芝山内に居られたと思ふが、その北里氏のところへ一緒に行つたことがある。その時の診断は胸の方は一向別状はないとのことであつたが、今から想像すると実は胸の病気ではなくて胃潰瘍でも悪くてそのため血でも吐かれそれを考へ違ひされて心配されたのではないかとも思ふ。尚京都へ来て一緒に叡山へ登つた時も途中で胃が痛み出し、しばらく休んでから峠の茶屋で湯を呑んで直つたこともあつたが、胃潰瘍は単に晩年に始まったものでなく、ずつと以前学生時代から悪かつたのではないかと考へられるのである。

(「夏目君の書簡」 『漱石全集』月報、第7号、昭和3年9月)

3月

人民党ジェイコブ・コクシー、ワシントンへ向けて失業者行進組織。失業救済を求めオハイオ出発。延べ参加者10万人。5月1日、先陣400人、ワシントン到着。弾圧。

3月

トーマス・マン(18)、故郷リューベックで学校を中退、母弟妹が移り住んだミュンヘンに行く。

3月

ワルシャワ、王国ポーランド社会民主党第1回党大会。非合法。

3月1日

第3回臨時衆議院議員選挙。

自由党、81→119人と躍進。石阪昌孝当選(3回目)。先に議員除名された星亨(栃木1区)、死傷者を出す選挙戦に勝ち、帰り咲く。

民党:自由党119・改進党48・計167(過半数上回る)。吏党:立憲革新党37・国民協会26・無所属70・計133。

対外硬派の国民協会は66→26人に激減するが、対外硬派全体は尚130名を擁する。

3月1日

一葉日記より


三月一日 『文学界』十四号来る。・・・

(「花ごもり」其1~其4、『文学界』第14号に掲載)


二日 曇り。かしらなやましくて終日(ひねもす)打ふす。夕刻、号外来る。衆議員当撰者の報(しらせ)なり。

(三月一日に行なわれた衆議院議員臨時総選挙の開票速報。)


3月5日

英、第4次グラッドストン内閣崩壊。第2次アイルランド自治法不成立原因

3月6日

高野房太郎(25)、米労働総同盟サミュエル・ゴンパース会長に手紙を書く。以後、数回の往復書簡。

3月9日

日本初の記念切手、発行(天皇成婚25年)。

3月9日

明治天皇大婚二十五年祝典の日。小雨の中を市中はお祭り気分でにぎわう。柳橋の料理屋・船宿・芸妓連中は、大川に数十艘の伝馬船を浮べ、力持にその上で軽業を披路させ、終日花火を打ち上げた。鉄道馬車会社は一輌の馬車を青葉で飾って両面に菊の紋章をつけ、銀で「奉祝銀婚」という四つの文字をあらわし、屋根には大小の国旗をなびかせ、車中では市中音楽隊の奏楽を行い、二頭の白馬にひかせて新橋・浅草間を往復した。下町一帯の大きな商店も、趣向をこらした飾りつけをきそった。二重橋前では午前に百一発の祝砲がはなたれ、夜は「奉祝万歳」の仕掛け花火があげられた。

漱石はといえば、心身ともに衰弱し、市中のお祭りさわざをよそに、大学の寄宿舎にほど近い上野池ノ端をひとりで雨に打たれながら散歩した。


「実は去る二月初め風邪にかゝり候処其後の経過よろしからず、いたく咽喉を痛め、夫より細き絹糸の如き血少々痰に混じて喀出仕り候故、従来の○○と○○と両方へ転んでも外れさうのなき小生故、直ちに医師の診察を受け候処、只今の処にては心配する程の事はなく、・・・・・。尤も人間は此世に出づるよりして日々死出の用意を致す者なれば、別に喀血して即席に死んだとて驚く事もなけれど、先づ二つとなき命故使へる丈使ふが徳用と心得、医師の忠告を容れ精々摂生致居候。

何となう死に来た世の惜まるゝ」(明治27年3月9日付山口県山口高等中学校菊池謙二郎宛)

3月9日

一葉日記より

九日 雨。今日は銀こんの大典也。都市府県をしなべて、こゝろごゝろの祝意を表するに狂するが如しとか聞しが、折あしき雨にて、さのみはにぎはしからぬやにきく。・・・此夕べ、樋口くら来る。


(明治天皇・皇后の大婚二十五年の祝典。則義の弟喜作の次女。長男幸作を丸茂文良の経営する下谷区上野桜木町の丸茂病院に入院させるため、相談に上京していた。)

3月10日

金玉均ら(和田延次郎、刺客洪鐘宇が同行)、東京発。26日神戸発


つづく


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