1893(明治26)年
11月
改進党、大日本協会を中心とする対外硬派に合流。改進党目的である政党内閣樹立の為、政局の主導権掌握の一段階として硬派に連合。右翼国権主義の潮流に乗ることが反政府運動の主導権掌握の近道と考えられる。
11月
宮崎湖処子「湖処子詩集」(石文社)
11月
坪内逍遥(34)、次兄義衛の3男士行(7)を養嗣子とする。
11月
高野房太郎(24)、マサチューセッツ州グレート・バーリントンのホワイティング家で働く。
11月
ゴーギャン(45)、パリ、デュラン・リュエル画廊にてゴーギャンのタヒチ作品の個展を開催。『ノア・ノア』草稿執筆。
11月1日
明治座の開場式
〈経緯〉
1850(嘉永3)年頃、江戸西両国広小路において富田角蔵・福之助・金太郎の「三人兄弟の芝居」として始まる。この頃は、座名はなく、寺社の境内の小屋掛けで興行する宮地芝居であった。よしず張りの芝居小屋で雨天には興行できないので、青天小屋とも呼ばれた。
1872(明治5)年9月、官許の劇場が「江戸三座」(中村座、市村座、守田座)以外にも興行が許可されるにあたり、劇場出願しこれを認められる。
1873(明治6)年4月28日、日本橋久松町河岸(現、久松警察署南側)に喜昇座として会場、「東京十座」の一つとなる。
その後、1879(明治12)年8月6日、当時の第一級劇場である新富座に準拠して大改築を行い、久松座と改称。
しかし、翌1880(明治13)年2月、大火で類焼。7月13日、仮小屋で再出発するが、10月の暴風雨で屋根を飛ばされる。更に、翌年12月には税金滞納で営業停止処分、翌年にはコレラ流行により休場となり、1883(明治16)年には仮座での公演延期が認められず、取り払いを言い渡される。
その後、新しい出資者が現れ、1885(明治18)年1月4日、久松座は千歳座と改称して新築開業するに至る。
1890(明治23)年5月、千歳座は火災で焼失するが再建される。
1893(明治26)年、初代市川左團次が千歳座を買収して座元となり、明治座と改称し、11月1日こけら落しを迎える。
11月2日
一葉のもとに姉・久保木ふじ子来訪。金の工面を頼む。
11月3日
早川徳次、誕生。シャープ創業者。
11月4日
一葉、図書館へ行く。平田禿木から手紙。一昨日金の工面を依頼した姉久保木から秀太郎(ふじの子)が5円持参。
11月5日
一葉、神田多町へ買い出し。小間物屋「さくら香」で仕入れ。
11月6日
一葉、図書館へ行くが、今日から12日まで虫干しんため閉館、やむなく帰る。今日も改題が多い。
11月6日
(露暦10/25)チャイコフスキー(53)、ペテルブルク、弟モデスト宅で没
11月8日
一葉日記より。初の酉で酉の市が発つ。夕方少し前、人出が多くなるころに雨。儲けたのは、馬車、人力車、飲食店、傘やなどである。
11月9日
一葉、多町へ買い出し。
11月13日
子規、長篇評論「芭蕉雑談」(『日本』連載~翌年1月22日)。
明治28年9月『獺祭書屋俳話』が増補再版された際に単行本に収録。
「旧派俳人の芭蕉に対する偶像崇拝・迷妄を打破し、ひいては旧派俳人そのものを攻撃するというモティーフにおいてなりたっている」(「明治文学全集」『正岡子規集』年譜、浅原勝編)。
「名は雑談であるが、居士が古俳人に対して下した最初の評論と見るべく、『獺祭書屋俳話』よりも更に響の大きい警鐘であった」(柴田宵曲『評伝正岡子規』)。
「・・・・・旧派の俳人たちが「一文学者として芭蕉を観るに非ずして一宗の開祖として芭蕉を敬ふ」現状、つまり文学ではなく宗教のように芭蕉を崇拝している在り方を批判した。
子規が選択した批判の方法は、芭蕉の俳句の、文学としての独自性を明らかにすることであった。子規はまず、「一千余首」の「芭蕉の俳句は過半悪句駄句を以て埋められ上乗と称すべき者は其何十分の一たる少数に過ぎず」という「一断案」を下す。
そして「上乗と称すべき者」が文学的にすぐれている理由として、「芭蕉の文学は古を模倣せしにあらずして自ら発明せしなり」、「蕉風の俳譜を創開せり」、つまりそれまでの俳諧の延長線上ではなく、まったく新しい表現方法を「発明」し、それが「蕉風」と呼ばれる「俳諧」の在り方の「創開」だった、という解釈を提示する。「古池や蛙飛びこむ水の音」という、あまりに有名な句の中に芭蕉の「発明」と「創開」がある、というのが子規の主張である。
子規は、この句についての解釈を提示する。
芭蕉が深川の草庵で一人静かに世に流行している俳諧のことを考えている、という状況設定。連歌が「陳腐」になったので「貞徳俳諧」が興り、さらに「檀林(だんりん)」俳諧がそれに新しい「意匠」を加えたが、それも古くなった。その中で「漢語を雑(まじ)へ」る方法が取り入れられ、自分の「門弟等」も「盛んに之を唱道」しているが、こうした「漢語を雑へ」て「奇」を衒(てら)うやり方について、「厭(いと)ふ」ようになってしまった。このように、従来の俳句の表現方法全体を拒絶するような状態に入ってしまった芭蕉の胸中を、子規は「臆測」するのである。
そして、まったく新しい表現方法が、芭蕉において「発明」「創開」される瞬間を、子規は次のように描き出している。
・・・・・何がな一体を創めて我心を安うせんと思ふに第一に彼佶屈聱牙(きつくつごうが)なる漢語を減じて成るべくやさしき国語を用うべきなり。而して其国語は響き長くして意味少き故に十七字中に十分我所思を現はさんとせば為し得るだけ無用の言語と無用の事物とを省略せざるベからず。さて箇様にして作り得る句は如何なるべきかなとつづく思ひめぐらせる程に脳中濛々(もうもう)大霧の起りたらんが如き心地に芭蕉は只惘然(もうぜん)として坐りたるまゝ眠るにもあらず覚なるにもあらず。万籟(ばんらい)寂として妄想全く断ゆる其瞬間窓外の古池に躍蛙の音あり。自らつぶやくともなく人の語るともなく「蛙飛びこむ水の音」といふ一句は芭蕉の耳に郭きたり。芭蕉は始めて夢の醒めたるが如く暫らく考へに傾けし首をもたけ上る時覚えず破顔微笑を漏らしぬ。
・・・・・子規が想像する芭蕉は、まず「漢語」を用いることをなるべく減らして、やさしい「国語」を使うべきだと考えている。しかし、その「国語」は十七文字の俳句には向いていない。なぜならいくつもの音をつらねても、それによって表象出来る意味はきわめて少ないからだ。「国語」で自分の思うところを表現しようとすると、必要のない「言語」や「事物」を徹底してみな「省略」しなければならない。「無用」ではない「言語」と「事物」だけで「作り得る句」は、どのようなものかを考えていると、芭蕉の「脳中」は、「大霧」が渦巻き、「眠る」のでも「覚」めているのでもないような、無意識と意識の間での宙吊り状態になってしまった、と子規は言う。
(略)
この「脳中」の操作を限界まで推し進めれば、「眠」っているのか「覚」めているのか区別のつかない状態になることは明らかだ。自らの内側の世界に集中し、「脳中」で余計な経験の記憶を全てそぎ落としてしまった瞬間、静寂が訪れる。
内側の全ての「言語」と「事物」を消去した芭蕉の耳に、外側の世界で「蛙」の「古池」に「躍」び込んだ音が聞こえてくる。それとほぼ同時に、しかしわずかな遅れをもって「脳中」という内側からではなく外側から、「蛙飛びこむ水の音」という「言語」が、「芭蕉の耳に響」いてきたのだ。だから、その「言語」は、「自らつぶや」いたものでもなく、「人の語る」ものでもなく、同時に「自らつぶや」き「人の語る」、自己と他者の間に生成した「言語」でもあったのだ。人間の内と外の境界線上の「事物」と「言語」に、ずれを孕んだ同時性において、芭蕉はこの表現に出会った、と子規は論じているのである。
すなわち「古池の句は実に其ありの儘を詠ぜり、否ありのまゝが句となりたるならん」、「古池の句は単に聴官より感し来れる知覚神経の報告に過きすして其間毫(ごう)も自家の主観的思想、形体的運動を雑へざるのみならず而も此知覚の作用は一瞬時一刹那に止まりしを以て此句は殆んど空間の延長をも時間の継続をも有せざるなり」と、子規の分析は身体論的かつ哲学的に先鋭化していく。「ありのまこの「知覚神経の報告」を、受け入れることによって、それまでとはまったく異なった言語的表現を生み出すことが可能になるのだ。
「響き長くして意味少き」はずであった「国語」であるにもかかわらず、「聴官」による「知覚神経」の刺激に対し、一切の「主観的思想」や「形体的運動」を排した表現を与えることによって「ありのまゝ」をとらえることが出来たのだ。
芭蕉の最も有名な句における表現の達成を分析し切ったことによって、子規の俳句革新の理論的方向性が定められていったのである。」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
11月14日
森鴎外(31)、陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員となる。
12月16日、正六位に叙任。中央衛生会委員となる。
11月15日
一葉、萩の舎の中島歌子を4ヶ月ぶりに訪問。感傷的になって涙まじりの対話となる。年をとって一層金銭欲が盛んな歌子を見る。
縁側に出ると、明治23年5月~9月末、内弟子としてここで暮らしていたことを懐かしく思い涕が流れた。
一葉は、弟子らを批判し、身の不幸を嘆き、老後の安心のためにさしわたし一尺ほどのダイヤモンドが欲しいという歌子を俗だとも思うが、しかしそれを避難するような気にはなれず、心の隔たりがなくなる。世の中に善人、悪人はいるが、善人といっても完全ではない。どこまでいっても満足というものが得られないのは、満月の夜でも雲がかかることもあるのと同じだ、と考える境地に到達する。
「橡に出て見れば、黄白のきくにほひこまやかに、露にぬれたるけしきもなつかし。我も昔しはここに朝夕をたちならして、一度はここの娘と呼ぼるる計、はては此庭もまがきも、我がしめゆひぬべきゆかりもありしを、今はた小家がちのむさむさしき町に、かたゐ乞食など様の人を友として、厘をあらそひ毛を論じて、はてもなき日を過すらんよ。」
一葉はかつては萩の舎の後継者と云われた時もあった。
11月16日
一葉、図書館へ行く
11月18日
一葉のもとに平田禿木が来訪。文壇のことなどについて話す。
11月19日
一葉、神田へ買い出し。「文学界」に出すべき作品もまだまとまらないのに、明日の二の酉に備えて店の用が忙しく、煩わしくてたまらない。世間は好景気とのこと。
11月月23~24日
一葉、「文学界」の原稿が纏まらない。
23日、星野天知から「文学界」の原稿の催促がくる。
23日~24日、殆ど寝ずに原稿用紙に向かうが、書けないままに朝を迎える。
25日は僅かの睡眠で早朝に起床、雪でも降ったかと思うような深い霜のなかを買い出しに行き、帰ってから清書を終える。
「二十三日 星野子より「文学界』の投稿うながし来る。いまだまとまらずして、今宵は夜すがら起居たり。」
「二十四日 終日つとめて猶ならず、又夜と共にす。女子(オナゴ)の脳はいとよはきもの哉。二日二夜がほど露ねぶらざりけるに、まなこはいともさえて、気はいよいよ澄行ものから、筆とりて何事をかかん。おもふことはたゞ雲の中を分くる様に、あやしう一つ処をのみ行かへるよ。「いかで明るまでにつゞり終らばや。これならずんば死すともやめじ」と只案じに案ず。かくて二更(*夜10時)のかねの声も聞えぬ。気はいよいよ澄ゆきぬ。さし入る月のかげは霜にけぶりて、もうもう朧(ロウ)々たるけしき、誠に深夜の風情身にせまりて、まなこはいとどさえゆきぬ。かくても文辞は筆にのぼらず。とかくして一番どりの声もきこえぬ。大路ゆく車の音きこえ初ぬ。こゝろはいよいよせはしく成て、あれよりこれに移り、これよりあれにうつり、筆はさらに動かんともせず。かくて明けゆく夜半もしるく、向ひなる家、となりなどにて戸あくる音、水くむなどきこえ初るままに、唯雲の中に引入るゝ如く成て、ねるとしもなくしばしふしたり。」(「塵中日記」明治26年11月24日)。
「どうしても明日までには書きあげたい。この作品が完成しないならば、たとえ死んでも書くことはやめまい」
一葉の創作への気迫。
11月25日
一葉、「琴の音」成稿、11月30日刊行の「文学界」11号に間に合わせる強行仕事であったが、結局12月30日発行の『文学界』第12号に掲載。
「二十五日、はれ。霜いとふかき朝にて、ふとみれば初雪ふりたる様也。ねぶりけるは一時計(ヒトトイバカリ)成けん。今朝は又金杉に菓子おろしにゆく。寒さものに似ざりき。しばしにても魂をやすめたればにや、今日は筆の安らかに取れて、午前の内に清書も終りぬ。郵書になして星野子におくりしは、一時頃成しか。午後、禿木子にはがき出す。・・・」
(眠ったのほほんの僅かの時間だったのでしょう。今朝はまた金杉町に菓子の買出しに行く。何とも言えないほど寒い。しばらくでも心を休めたためでしょうか、今日は筆が軽く動いて午前中に清書も終わった。)
主人公の金吾(「うさんらしき乞食小僧」)の描写。「恐ろしく気味悪く油断ならぬ小僧と指さゝるゝはては、警察にさへ睨まれて、此処の祭礼かしこの縁日、人山きづくが中に忌はしき疑を受けつ、口をしやまえ剪児(スリ)よ盗人と万人にわめかれし事もありき。」
貧民街に住む一葉だからこそ書ける題材。貧困、弱者、落後者、下層の人々を描く以降の一葉の創作活動の核が形成されつつある。
つづく
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