2024年4月10日水曜日

大杉栄とその時代年表(96) 1894(明治27)年1月1日~31日 三菱1号館竣工 一葉の店の向い側に同業が開店 星野天知(32)が始めて一葉を訪問 「男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき」(一葉日記)   

 

三菱一号館

大杉栄とその時代年表(95) 1893(明治26)年11月26日~12月31日 第5議会、星亨除名決議可決 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ」(一葉日記) 一葉、ぎりぎりの金策の末、どうにか年越しができる より続く

1894(明治27)年

1月

尾崎紅葉、『紫』(『読売新聞』連載)。紅葉初の言文一致の作品。

1月

幸田露伴戯曲『有福詩人』(『国会』連載)。露伴が作中に重要人物として登場する。

1月

日本で最初のオフィス・ビル三菱1号館竣工

設計は、政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルで、三菱が丸の内に建設した初めての洋風事務所建築。全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられている。当時は館内に三菱合資会社の銀行部が入っていたほか、階段でつながった三階建ての棟割の物件が事務所として貸し出されていた。

直営工事による施工であり、建設は曽禰達蔵現場主任が担当。当時、洋風事務所建築は横浜や神戸の外国人居留地などにも建てられたが2階建の小規模のものが多く、本建物は異例の大型建築だった。

1月

ハンガリー、中間階級の信者のためのカトリック会議開催。反カトリック改革活動

1月1日

一葉(22)の日記より


廿七年一月一日 あさのほど少し雪ちらつく。やがてはれたり。今日のせわしさ、たとふるにものなし。終日、くに(妹)と我れと立つくすが如し。礼者なし。

二日 おなじく。西村礼に来る。久保木来る。

三日 上野房蔵来る。佐久間夫婦来る。

四日 伊三郎来る。神田にかひ出し。

五日より常の如し。


1月1日

独、物理学者ヘルツ(36)、没。

1月4日

「報知新聞」、第5議会の論戦、「聴衆の多数は、攘夷論として之を聴取し、且つ感服」したと述べる。また、前年12月24日には、条約励行論は「頑人の脳裡の存する攘夷根性を燃発するの薪炭」としての役割を果たす、と述べる。

1月4日

ロシア・フランス同盟成立。軍事同盟。

1月5日

陸奥外相、第3回衆議院選挙にむけて、政府系紙「東京日日」に反条約励行論キャンペーンをさせるため機密費支出を伊藤首相に要請。6、7日、条約励行論反対社説掲載。

1月7日

七日 芝より兄君来る。むかひがはに同業出来る。

(一葉の店の向い側に同業が開店)

八日よりあきなひひま也。

       此ほどかくべき事なし。


日記に「分厘のあらそひ」と書くような値下げ合戦を繰り広げるようになる。かつて一葉の店が近所の同業者を潰したことがあるが、同じ運命が一葉家族を襲う。一葉の店は客足が伸びず、経営も生活も困窮を極める事態が発生した。

「いはでもの記」には「人になさけなければ黄金なくして世にふるたつきなしすめる家は追はれなんとす食とぼしければこゝろつかれて筆はもてども夢にいる日のみなり」と書かれている。


1月8日

子規、大原恒徳宛て手紙で2月に創刊される『小日本』の編集主任になる予定と伝える。


「それは『小日本』創刊の事で、一月八日大原恒徳氏宛の手紙に「私身の上に付ては内々大に心配致し居候ところこの度一事業相起り一身をまかすやうに相成申候。一事業とは日本新聞社にて絵入小新聞を起す事に御座候(勿論表向きは別世帯に御座候)。ついては私が先づ一切編輯担当の事とほぼ内定致し来月十一日より発行のつもりに御座候」とある。『小日本』の刊行は『日本』の頻々たる発行停止に備えるため、別働隊として計画されたのであるが、同時に上品な家庭向の新聞を作ろうという目的であった。多士済々たる日本新聞社中にも、家庭向の新聞となると存外適任者がない。仙田重邦氏を事務総裁とし、縞輯主任には思いきって居士を抜擢することになった。古嶋一雄氏などが推薦者であった。」(柴田宵曲『評伝正岡子規』)


1月10日

一葉(22)日記より


十日 平田(*禿木)君より状来る。五日帰京したるよし。「今月の双紙にも何か出しくれよ」とて也。末文に、古藤庵無声(*島崎藤村)が、我宅を訪ひ度よしかたりたり、とて紹介をなす。・・・


1月11日

鈴木庫三、茨城県真壁郡明野町大字鷺島の農家に誕生。父鈴木利三郎は豪農。6男4女の第7子。母乳が出ないため、生後間もなく大里菊平の里子とされる。

1月13日

「文学界」の出資者星野天知(32)が始めて一葉を訪問

前日の日記では、


「天知子よりの文は詞のたくみあり、もの事好みたらん様にも見ゆる。禿木子のは、まだわかく、やはらかく、愛敬ありて、とゝのはぎりしもまたたのもしき様也。」


と好意を寄せている。

当日の日記では、


「星野君はじめて来訪、かねておもひしにはかはりていとものなれがほに馴れ安げの人也 としの頃は三十計(ばかり)にや、小作りにて色白く八丈もめんの黒もん付の羽をり二重まわしをはをりて来たりき。物語多かりしが、さのみはとて。」


(十三日。午前、星野天知氏初めて来訪。前から想像していた人とはすっかり違って、いかにも世間馴れた近づき易い人です。年は三十歳ぐらいでしょうか。小柄で色白く、八丈木綿の着物に黒紋付の羽織、それに二重廻しの外套を着て来られた。お話も多かったが、ここにはとても書ききれない。)

と書く。

「泥中に蓮花を探る気で俥を飛ばした」天知はその日の一葉について、

「小柄で猪首な町屋風の娘が挨拶した。尾羽打枯らした二十四五の飾らぬ風采、稍々(やや)険しくはあるが、プラウドの高き光は大いに異敬するものがあった」(『黙歩七十年』)と記し、好感を待ったとは言えないようである。

1月15日

大審院判事千谷敏徳、突然の那覇地裁所長職補に従わず。判事の身分保障問題。

9月17日、千谷、懲戒裁判所に上訴中病死。

1月15日

一葉の日記より


十五日 平田君より状来る。寺住ひの寒さにおそれ、ちかくの横川医院とかいへるに転じたるよし。「そのうち訪はん」などありき。今日はあきなひいと忙し。

十六日 はれ。一日あきなひせはしくして、終日一寸の暇なし。・・・

1月19日

一葉日記より。夜から明け方まで読書。


二十日 はれ。植木屋寅次郎来る。午後、平田君来訪。『文学界』寄稿之こと尋ねに成り。露伴子作『五重塔』。

男はすべて重りかに口かず多からざるぞよき。さればとて、こと更につくろひ顔ならんはにくけれど、万(よろず)こゝろえがほになれなれ敷(しき)は、才たかく学ひろしとても、何となくあなどらるゝぞかし。春の花のうるはしきけはあらずとも、天雲(あまぐも)たな曳くたか山の、そゞろ尊く恐ろしき様にもあり、わづかにあふぎ見る様なる中に、何となくなつかしきけしきをふくみたらんぞよき。


(幸田露伴の 「五重塔」を貸して下さる。

男はすべて重々しく口数の多くないのがよい。だからといって、ことさらにわざとらしいのは嫌だが、万事何事も心得ているように世間馴れているのは、たとえ才能があり学問が広くても何となく軽蔑されるものです。春の花のような美しい気配はなくても、雲が棚引いている高い山のように何となく尊く恐ろしい所があり、尊敬の念を起こさせると共にまた何となくなつかしさが感じられるのがよい。)


禿木はのちに、正月は大抵大宮で過ごしていたので、この時期の訪問はあり得ないと否定している(『樋口一葉』)。

1月26日

福沢諭吉、政府が「若し、優柔不断、決せざるに於ては、天下の人心は最早や倦厭の状に堪へずして、遂には容易ならざる内変をみる」と注意し、「政府が其方向を一変して盛に東洋政略を行ひ、以て国内の人心を外に転ぜしむるが如きは、目下適当の一策」であると提案(「報知新聞」)。

1月31日

松岡康毅、内務次官。


つづく

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