2024年4月9日火曜日

大杉栄とその時代年表(95) 1893(明治26)年11月26日~12月31日 第5議会、星亨除名決議可決 「かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ」(一葉日記) 一葉、ぎりぎりの金策の末、どうにか年越しができる 

 

星亨

大杉栄とその時代年表(94) 1893(明治26)年11月1日~25日 明治座開場 チャイコフスキー(53)没 子規「芭蕉雑談」 森鴎外(31)陸軍一等軍医正、軍医学校長兼衛生会議議員 一葉、買い出しと図書館通いの毎日 「琴の音」成稿 より続く

1893(明治26)年

11月26日

一葉日記。「二十六日 晴れ。寒し。今朝、洲崎弁天町、火あり。夜の三時頃よりと聞えしかは、過半はやけうせしなるべし。・・・」

(*深川洲崎遊郭の大火。大半が焼ける。明治10年にも大火、21年に再建されていた)

11月28日

第5議会、開会。翌日、大日本協会安部井磐根から、星議長不信任決議案が緊急動議として提出され、賛成多数により可決。

星は憲法上議長不信任はあり得ないとして、翌日も平然と議長席に着く。これに対し、衆議院は、議長不信任上奏案を可決するが効果なく、更に星の7日間登院停止を決議するが、その期限後、星は平然と議長席に着く。この倣慢不遜な態度は自由党内にも敵を作り、12月13日、衆議院除名決議が可決され、遂に議席を失う。議長在任は1年7ヶ月。短期間で議長の座を失うが、その剛腹さを見せつけたことはその後の活躍の為にはむしろ役立った面がある。

不信任の直接の理由は、①相馬事件と②取引所事件。

①相馬事件は、旧相馬藩の旧家臣が、相馬家当主を、その兄謀殺を理由に告訴、星は、告訴された相馬家当主を弁護し、無罪を勝ち取り、告発者が逆に誣告罪で有罪となる。しかし当初は、告発が正当と思われ、その弁護人となった星は社会的非難を浴びる。

②第4議会、星議長の下で、取引所に関する諸法令(米商会所条例、株式取引所条例、取引所条例)が統合され、会員組織取引所と株式会社組織取引所の2種類の取引所設立を認める取引所法が成立。新法令では、商品取引所と証券取引所の設立を免許制として政府監督下に置くが、免許制の為、政府には100社近い出願が殺到。しかし実際に免許を受けたのは18社のみ。商品取引所設置に関する監督官庁は農商務省で、大臣は星と関係が深い自由党系後藤象二郎。後藤は清廉潔白からは程遠い人物で、出願を却下された業者は、後藤-星ラインとこれに癒着する競願業者にしてやられたとの思いが強い。改進党機関紙「改進新聞」は、星が一部業者から賄賂を受け取ったと書き立て、他の改進党系新聞もこれに追随。星は新聞社を告訴し、第5議会開会直前には新聞発行人に対する禁固・罰金刑、新聞社に対する謝罪広告掲載を命ずる判決を得て、法的には決着。しかし裁判の勝利によって、逆に星にまつわるダーティなイメージを消し去る事はできず。


12月

蘇峰『吉田松陰』(初版)。

12月1日

一葉日記より。「文学界」第11号が送られてくる。三宅龍子の「山の井勾當」がすばらしい。馬場孤蝶「酒匂川」、島崎藤村「哀縁」なども優れた作品だと思う。現代の詩歌がつまらないのは、人の心の中に入って真実の心を歌っていないからであり、開けゆく時代の感情と一致していないからである。

夜、号外が届く。衆議院議長の不信任問題について上奏案が可決されたとのこと。

(*星享議長の汚職容疑で不信任動議が11月29日可決。星はこれを拒否したため、12月1日不信任上奏案が可決された)

「十二月一日 晴れ。『文学界』十一号来る。花圃女が文章、めづらしくみえたり。山の井勾当がことを書しなるが、文辞いたく老成になりて、こゝ疵とみゆる処もなく、とゝのひゆきぬ。今の世に多からぬ女文学者の中、この人などやときは木のたぐひにぞ、後のよまで伝はりぬべきなめり。おのづから家の筋、人ざまなどもうちあひて。

孤蝶子が「さかわ川」、無声(*藤村)が「哀縁」など、をかしき物なり。「哀縁」はおきて、「さかわ川」はいん文といふべき物にもあらず、五七の調にてうたふべき様にもあり、浄るりに似て散文躰にもあり、今一息と見えたり。

いひふるしたるみじか歌の、月花をはなれて、今のよの開けゆく文物にともなひ難きあまり、新体などいふも出くめり。もとよりざえかしこく、学ひろき人々がものすのなめれど、猶わかう人が手になれるは、好みにかたより、すきにへんして、あやしうこと様のものになれるもあり、ふる人の指さしわらふもげにと覚ゆることなき忙しもあらず。さりとて、みそひと文字の古体にしたがひて、汽車汽船の便あるよに、ひとりうしぐるまゆるゆるとのみあるべきにあらず。いかで天地の自然をもとゝして、変化の理にしたがひ、風雲のとらへがたき、人事のさまざまなる、三寸の筆の上に呼出してしがな。さはいへ、かくおもふは我人共の顧ひなるべけれど、そは天才といふ人の世に出ざるかぎり、成りたつまじきものなるにや。俗中に風流あり、風流のうちに大俗あり。新たい詩歌の俗の様に覚えて、かのみぢか歌のみやびやかに聞ゆるは、ならはしのみのしかるにあらず、人の心に入て人の誠をうたひ、しかも開けゆくよの観念にともなはざれは也。詞はひたすら俗をまねぴたりとも、気いん高からは、おのづから調たかく聞えぬべし。さても学び易くしてうたひがたきは、猶この道の奥にぞある。

此夜、号外来る。議長不信任問題上奏案の可決なしたるよし。」

12月2日

この日の樋口一葉(21)の日記。欧化の波に漂う日本の国情を憂い、議会の混乱や外交の軟弱ぶりを憤激。

「物好き」とあざけられても、「なすべき道を尋ねて、なすべき道を行はんのみ」と激情をほとばしらせている。

議会の問題について、私行の暴き合いや隠事の摘発なでお大人げないと思う。

夜半、静かに目を閉じ、現代社会の有様について考える。

〈政治上のことに女性が口を出すことは一般的に技巧であり、差別される時代であるが、女性といえど同じ人間である。安楽な生活に慣れた人々は外国の華やかな風俗を求め、日本の伝統を捨て、日常の小さい面から文学、教育、政治といった本質的な事にまで広がり、留まることを知らない有様だ。もの好きな女だと世間から噂され、後世の人々から嘲笑されても、このような時代に生れたものとして、何もせず一生を終えていいのか、何をなすべきかを考え、その道を進んでいくのみ〉

「(十二月)二日、晴れ。議会紛々擾(ジョウ)々。私行のあばき合ひ、隠事の摘発。さも大人げなきことよ。

半夜眼をとぢて静かに当世の有さまをおもへば、あはれいかさまに成りていかさまに成らんとすらん。かひなき女子の何事をおもひたりとも猶蟻みゝずの天を論ずるにもにて、我れをしらざるの甚しと人しらばいはんなれど、さてもおなじ天をいたヾけば風雨雷電いづれか身の上にかゝらざらんや。国の一隅にうまれ一端に育ちて、我大君のみ恵に浴するは彼の将相にも露おとらざるを、日々せまり来る我国の有さま、川を隔てゝ火をみる様にあるべきかは。安きになれてはおごりくる人心の、あはれ外つ国の花やかなるをしたひ、我が国振のふるきを厭ひて、うかれうかるる仇ごころは、なりふり、住居の末なるより、詩歌政体のまことしきにまで移りて、流れゆく水の塵芥をのせてはしるが如く、何処をはてととどまる処をしらず。かくてあらはれ来ぬるものは何ぞ。外は対韓事件の処理むづかしく、千島艦の沈没も、我れに理ありて彼れに勝ちがたきなど、あなどらるゝ処あればぞかし。猶、条約の改正せざるべからざるなど、かく外にはさまざまに憂ひ多かるを、内は兄弟かきにせめぎて、党派のあらそひに議場の神聖をそこなひ、自利をはかりて公益をわするゝのともがら、かぞふれば猶指もたるまじくなん。にごれる水は一朝にして清め難し。かくて流れゆく我が国の末、いかなるべきぞ。外にはするどきわし(ロシア)の爪あり、獅子(清国)の牙あり。印度、埃及(エジプト)の前例をきゝても、身うちふるひ、たましひわなゝかるゝを。いでよしや物好きの名にたちてのちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。なすべき道を尋ねてなすべき道を行はんのみ。さても恥かしきは女子の身なれど。

  吹かへす秋のゝ風にをみなへし

      ひとりはもれぬのべにぞ有ける」(「塵中日記」明26・12・2)

日記には政治や社会にも一段と強い関心が示されてる。改進党や自由党の対立を背景に、衆議院議長の星亨への不信任動議に紛糾する国会を嘆き、日朝・日英間の外交にも憂慮している。民族主義的、国家主義的な新聞論調に同調しているようだが、女であることにこだわりながら、平等の主張を示し、人生の目標を国家的な水準に引きあげようとしているかのようだ。

*防穀事件。大鳥公使の赴任後、朝鮮側は仁川・釜山二冗山での輪川米の持出しを禁止した。

*千島艦の沈没をめぐる上海裁判所での日英の係争は、英国側の勝訴に終る。

*吹き返す秋の野風に女郎花(がうちなびく)、(その女郎花のように、「女」の身である私も)一人だけ(吹く風から)逃れることはない野辺(=当世)なのだなあ

風に吹かれる女郎花は、古歌ではうちなびいたり折れふしたりするもので、女性の比喩としても詠まれてきた。「源氏物語」の「野分巻」でも、「吹きみだる風のけしきに女郎花しをれしぬべき心地こそすれ」とある。

歌で「女郎花」が女性の比喩となる場合、男性との差別化が図られる場合が多くなるが、一葉の場合は、女の身にあっても「国の一隅にうまれ一端に育ちて、我大君のみ恵に浴するは彼の将相にも露おとらざる」ものであると、対等化しようとする意識がうかがえる。

12月4日

一葉日記より。神田に買い出し。久しぶりに伊東夏子を訪問。夕方近くまで話し込む。「宇治拾遺物語」「西行撰歌集」を借りる。

(夏子は「私の家に、木版の本が多くありましたから、見せましたら「珍本ね、なぜ今まで見せなかったの」と喜んで持ち帰りました」と述べている(『一葉の思い出』))"

12月5日

松平容保(59)、没。

12月7日

一葉、多町に買い出しがてら北川秀子に菓子箱を返す。帰りに奥田栄に利子を支払う。広瀬伊三郎から五円借りる。小売りの金で俗に「日なし」というもので、生れてはじめてのこと。山梨に手紙を出す。一つは、後屋敷の芦沢に返金督促の手紙、もう一つは雨宮源吉に協力依頼する手紙。


「七日 晴れ。多丁にかひ出しながら、喜多川君に菓子箱かへす。帰路、奥田に利金入るゝ。此日、伊三郎より金五円かりる。高利の金にて、俗に「日なし」といふもの也。かゝる事、物覚えてはじめての事也。此夜、山梨県に手紙出す。金子のこと後屋敷に申つかはし、雨宮のもとへも頼み文出す」

*広瀬伊三郎は帰京後、やみ金融を始めた。「日なし」は、貸付けた当日から利子をかけ、日済で少しずつ返済させながら、高利の利子を取る貸し方。

*山梨県東山梨郡後尾敷村の芦沢卯助。卯助には養父五左衛門の時代に則義から借りた古い負債が残っていた。

*たきの甥、雨宮源吉。東山梨郡玉宮村に在住。

12月8日

一葉日記より。母たきが借金を頼むために久保木家にゆく。

伊東夏子から星野天知が文学をこころざすようになった経緯を聞く。芸妓に迷って悲恋を味わったとのこと。悟りきれぬ人の心の不可思議を思う。

12月9日

仏、無政府主義者オーギュスト・ヴァイヤン、国民議会下院にダイナマイト投擲。議会はこれを機に暴力行為準備集会取締法を強引に可決。

12月16日

20年ほど前(明治6,7年頃)に、父が母の弟の養子先に貸したという28円の回収の為に、一葉の母たきが山梨に出かける。

結局、交渉は失敗。その間、一葉姉妹は、母一人を送り出したことで、「母君のことをおもふに、くに子も我も終日むねいたくて、ともすれば涙のみなり。」(17日付け日記)、「此日頃大方なみだ也」(21日付け「日記」)となる。母は26日に戻る。

結局この年末は、山梨の従弟や、父の知人からの調達、28日には『文学界』から「琴の音」の稿料1円50銭も届き、どうにか年越しができる

12月16日

ドヴォルザーク(52)、「交響曲第9番ホ短調<新世界より>」、カーネギーで初演。

12月19日

外相陸奥宗光、条約改正の目的は国として受くべき権利と国として尽すべき義務を完うすることにある、「是ヲ実際ヨリ云へバ則此日本帝国ガ亜細亜州中ニアリナガラ欧米各国ヨリ特別ナル待遇ヲ受ケム云フ趣旨デアル」と議会演説。

12月24日

オーストリア、第1回労働組合全国大会開催

12月26日

毛沢東、誕生。湖南省湘潭県韶山冲上屋場。

12月28日

英帰国中の英公使フレーザー、在日英公使館付ショウ牧師に対する暴行事件に関し青木周蔵公使に警告。

対外硬派が第5議会に「条約励行建議案」を上程。大日本協会安部井磐根は、説明にあたり在留外国人が条約違反を積重ねていると暴露すると、外国人に対する暴行やいやがらせが頻発。イギリス公使館付牧師アルチデーコン・ショウが暴漢に襲われ際、巡査は傍観して救援せず。この報がロンドンに達するや、イギリス外務省の「模様俄カニ一変」。30日、青木公使の電報によりそれを知った伊藤内閣は、即座に衆議院を解散。

11月29日

政府、条約励行論は開国の国是に反するとして大日本協会に解散命令。

11月30日

衆議院(第5議会)解散。伊藤政権と自由党が提携すると、第5議会で国民協会と改進党が提携し、官紀振粛問題(後藤象二郎農商務相らの汚職問題)・条約励行問題で伊藤政権を追詰める。第5議会解散により反政府熱は高まる。貴族院では、近衛篤麿ら有志38名が対外硬派を支持し、政府の議会解散を非難し、伊藤内閣に対する国民の信任は失墜したと退陣を要求。

大日本協会は改進党と協同して排外的な「条約励行案」を上程。極秘裡に英国と条約改正交渉を進めている第2次伊藤内閣は衆議院を解散して励行案の成立を防ぎ、一方で大日本協会の結社を禁止。

取引所事件に閑し、後藤農商務相と斎藤修一郎農商務次官に対する官紀振粛上奏案も可決され、両名はその官を辞すた。梟雄と呼ばれた後藤象二郎もこの事件を最後にその政治力を失い、3年余後に没。

12月

一葉日記。「よし物好きの名にたちて、のちの人のあざけりをうくるとも、かゝる世にうまれ合せたる身の、する事なしに終らむやは。」(「日記」)。

「三十日 もちをつく。金壱円。上野君父子歳暮に来る。議会解散。」

「三十一日 あきなひ多し。二時まで起居る。」


つづく

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