大杉栄とその時代年表(99) 1894(明治27)年2月26日~30日 一葉、田中みの子の家で中島歌子・田辺花圃を批判 一葉「花ごもり」其1~其4(『文学界』第14号) より続く
1894(明治27)年
3月
行き詰った一葉(22)の心の内。
感想「いはでもの記」(塵之中日記(ちりのなかにつき)、表書年月「二十七年三月」。署名「樋口夏子」。)。日付のない感想文。当時の逼迫した生活の苦しみが感じられる。
「中々におもふ事はすてがたく、我身はかよわし。人になさけなければ黄金なくして世にふるたづきなし。すめる家は追はれなんとす。食とぼしければこゝろつかれて、筆はもてども夢にいる日のみなり。かくていかさまにならんとすらん。死せるかばねは犬のゑじきに成りて、あがらぬ名をば野外にさらしつ。千年の後万年の春秋、何をしるしに此世にとゞむべき。岡辺のまつの風にうらむは同じたぐひの人の末か」
(したいと思うことはなかなか捨てきれるものではないが、我が身は力なく弱い者だから、捨ててしまうより他はない。世間の人には同情心もないし、私にはお金もないので、この世に生きる手段は何もない。今住んでいる家も追われようとしている。食事もろくに取れないので、精神は疲れはて、筆を執って物を書こうとしてもいつの間にか眠ってしまう日が多い。こんな調子では一体どうなるのだろうか。のたれ死にの果ては犬の餌食となってしまい、空しい名前を野にさらすことになるのだろう。千年の後、万年の後のために、私がこの世に生きていたしるしとして何を残すことが出来ると言えるのだろうか。岡辺の松風の音が恨むように悲しく聞こえてくるのは、私と同じ悲しみを持った人のなれの果ての声なのだろうか。何とも俺しい限りです。)
「日々にうつり行(ゆく)こゝろの、哀れいつの時にか誠のさとりを得て、古潭(こたん)の水の月をうかペるごとならんとすらん。愚かなるこゝろのならひ、時にしたがひことに移りて、かなしきは一筋にかなしく、をかしきは一筋にをかしく、こしかたをわすれ行末をもおもはで、身をふるまふらんこそ、うたても有けれ。
こゝろはいたづらに雲井(くもい)にまでのぼりて、おもふ事はきよくいさざよく、人はおそるらむ死といふことをも、唯(ただ)嵐の前の塵とあきらめて、山桜ちるをことはりとおもへば、あらしもさまでおそろしからず、唯此死といふ事をかけて、浮世を月花(つきはな)におくらんとす。」
(日々に移り行く心は、一体いつになったら本当の悟りを得て、水に澄む月のような心境になれるのでしょうか。愚かな私の心は時の流れとともに移り変わり、何か事あるたびに揺れ動いて、悲しい時はただもう悲しいばかり、おかしい時はただもうおかしいばかりで、過去を忘れ未来を思わず、その場限りの生き方をしているのは、本当に情けない思いです。
心は雲の上まで高く登り、清くいさざよい事ばかりを考え、人の恐れる死というものも塵のようにはかないものとあきらめて、山桜が散るようにやがて死ぬのは道理だと思えば、嵐もそれ程恐ろしいこともない。このように死ということを覚悟した上で、浮世を風流に楽しく生きて行こうと思うのです。)
「ひとへにおもへば、其(その)いにしへのかしこき人々も、此願ひにほかならじ。さる物から、おもふまゝを行なひておもひのまゝに世を経んとするは、大凡(おほよそ)人の願ふ処なめれど、さも成がたきことなれば、人々身を屈し、ことをはゞかりて、心は悟らんとしつゝ、身は迷ひのうちに終るらんよ。あはれはかなしやな。虚無のうきよに君もなし、臣もなし。君といふ、そもそも偽(いつわり)也、臣といふも、又偽也。いつはりといヘども、これありてはじめて人道さだまる。・・・」
(よく考えてみると、昔の賢人たちもこのことを願っていたのでしょう。そうは言っても、思うままを行って思うままに暮らそうとするのは誰でも願うところですが、そうも出来ないので、大方の人は自分の考えを曲げて遠慮し、心では悟ろうと努力しながらも現実には迷いのなかに一生を終わるようです。本当にはかない事です。この虚無の人生には君とか臣とかの区別はないのです。君といっても仮のものです。臣というのも仮のものです。しかし仮のものとは言っても、現実にはこれがあって、人の生きる道がきまっているのです。
(このように無の中に有が生じ、一つの道がはっきりとなってくるので、この人間世界で何かをしようとする者は、必ずこの人道に頼らねばならないのです。天地を心のうちに呑み込み、有も無も手のうちに納めたとしても、実行されない誠は、人は見ようと思っても見ることは出来ない。自分だけは清らかであっても、それを感じるのは人の心であって耳ではないから、放言高論しても何の甲斐もない。))
(世には文章家という者がいて、美辞麗句をつらねたり、和歌俳句を上手に作る者がいる。また弁士といって悲歌憤慨の強い言葉をつらねて一時の感動を与える者もいる。しかしこれらは人形使いが人形を操って人の目を楽しませるようなもので、ただ一時的な喜びにしかすぎない。一時的な感動はやがて消えてしまうものです。一代にわたりさらに百代にまで残るようなことをと願っても、それは自分自身の問題であって人の問題ではない。従って自分が清潔だからといって他人をけなすのはまあよいが、人のことを批判するばかりで自分の誠を示そうとしないのはよくない。まして国政をそしり、大臣をけなし、大家や知名士の非を指摘し非難しても、相手は著名人でもありこちらは一小批評家にすぎないのだから、何の役にも立たない。心には天地の誠を抱いていたとしても、身は一生涯気違いということで終わってしまえば、人に対しても社会に対しても何の効果もないことになってしまうでしょう。これでは清らかな人生と汚れた人生と、どちらが優れていると言えるのでしょうか。だから昔の賢人たちは心の誠を第一として現実の人の世に生きる務めを励んできたのです。)
(務めとは行いであり、行いは徳です。徳が積もって人に感動を与え、この感動が一生を貫き、さらには百代にわたり、風雨霜雪も打ち砕くことも出来ず、その一語一句が世のため人のためになるものです。それが滾々(こんこん)として流れ広まり、濁を清に変え、人生の価値判断の基準となるのです。自分一身の欲を捨て楽しみを捨てて初めて自分の思うままの人生を生きて行けるのです。花も実も初めから得ようとすると、とても得られるものではないと書き残した人もあるのです。机上の理論ももちろん虚ではない。しかしそれが実行にまで熟さなければ実とは言えない。理論家には実行が伴わず、実行家には言葉がない。言葉が無いとはいっても行いの結果ははっきりと現れているのです。)
「・・・四時(しいじ)の順環(じゆんくわん)、日月(にちげつ)の出入(でいり)、うきよはひとりゆかず、天地はひとり存せず。地に花あり、天に月あり。香(か)は空(くう)にして、色は目にうつる。あれも少(せう)とし難く、これも大とはいひ難し。されば、人世(じんせい)に事を行はんもの、かぎりなき空(くう)をつゝんで、限りある実(じつ)をつとめざるべからず。・・・」
((しかし、その行いを百代の後に残しても、結局は虚であり、無なのです。天地の誠はこの虚無意外にはないのですが、人生の誠は道徳仁義であって、それ以外にはないのです、こちらを尊んであちらを棄てるのは愚かであり、あちらを取ってこちらに背くのもよいとはいえない。虚は空であり、実は実存です。無は裏であり有は表です。)
季節の巡りや日月の出入りを見てもわかるように、人生も天地も、それだけが勝手に動いているのではない。地には花があり天には月がある。花の香りは空に流れ、月の色は目に映る。そこには大小の差はない。だから人生で何かを行おうとする者は無限の空を内に抱いて、有限の実を行うのです。
(一時の勇気にはやるのは決して本当の勇気とはいえない。一人で一人の敵を打ち殺したといっても全軍にどれほどの効果があるといえるのでしょうか。一人で十人の敵を打っても十分とはいえない。一人で万人の敵に当たるのがあの孫子呉子の兵法です。奇も正もその兵法の中にあるのです。その変化運用の妙味は天地を包んでしかも天地の法則からはなれていない。これを知ることの出来る者は偉大な傑人となり、知ることの出来ない者は名もない狂人となる。だから法は奇であって濁ではない。清流は昔から今に至るまで一貫して流れている。思えば聖者の行いが水の流れのようにとどこおるところがないのは、まことに羨ましい限りです。
一首の歌に托してみました。))
3月初め(下旬?)
一葉、廃業決意の心境。塵中(ちりのなか)につ記。表書年月「廿七年三月」。署名「夏子」。
「わがこゝろざしは国家の大本にあり」。憂国の志士のような高唱。
日清戦争前夜の日本は国家的な危機感に包まれていた。一葉もその危機感から自分が和歌の改革に挺身する決意を、危ぶまれる国家の根本の建て直しのために働くのだと述べて、明治27年3月初めの「塵中につ記」に記す。
近代的自我意識に立ち、踏みにじられる者の怒りをこめ、社会のあり方に不信をつきつける、毅然とした姿勢を示す。
「国子はものにたえしのぶの気象とはし。この分厘にいたくあきたる比(ころ)とて、前後の慮(おもんばかり)なく、「やめにせばや」とひたすらすゝむ。母君も、「かく塵の中にうごめき居らんよりは、小さしといヘビも門構への家に入り、やはらかき衣類(きもの)にてもかさねまほしき」が願ひなり。されば、わがもとのこゝろはしるやしらずや、両人(ふたり)ともにすゝむる事せつ也。されども、年比(としごろ)うり尽し、かり尽しぬる後の事とて、此みせをとぢぬるのち、何方(どこ)より一銭の入金(にうきん)もあるまじきをおもへば、こゝに思慮はめぐらさゞるペからず。さらばとて、運動の方法(てだて)をさだむ。まづかぢ町なる遠銀(鍛冶町の遠州屋石川銀次郎)に金子(きんす)五十円の調達を申しこむ。こは、父君存生(ぞんじよう)の比(ころ)より、つねに二、三百の金はかし置たる人なる上、しかも商法(しやうはう)手びろく、おもてを売る人にさへあれば、「はじめてのことゝて、つれなくはよも」と、かゝりし也。此金額多からずといヘども、行先(ゆくさき)をあやぶむ人は、俄にも決しかねて、「来月、花の成行にて」といふ。」
(邦子は辛抱する気性が乏しい。この一銭一厘の僅かの利益の商売にはすっかり飽きはてたといって、前後のこともよく考えずに店を閉じることばかりをしきりに勧める。母上もこんな塵の中の世界に埋もれているよりは、小さくとも門構えの家に住み、柔らかな衣服を身につけて生活したいのが願いでしょう。だから、私の本心を知っているのか知らないのか、二人とも熱心に店を閉じようという。しかしここ数年来家の衣類家財は殆ど売り尽くし、お金も借り尽くしてしまった後のことなので、店を閉じた後は一銭の収入もないことを思うと、ここは十分考えねばならない。そこで皆でその対策の方法を考える。まず鍛冶町の遠州屋石川銀次郎氏に金五十円の調達を申し込む。これは父上の存命中の頃からいつも二、三百円のお金は貸しておいた人であり、商売も手広く、また顔役の人でもあり、これまでは貸金を取り立に行ったことはあっても、こちらから借金を申し込むのは初めてのことなので、すげない返事はまさかあるまいと思って申し込んだのです。この金額はそれ程多くはないといっても、先のことを心配する人としては急にも決定しかねて、来月花の頃の商売の成りゆきを見た上で決めようということになった。)
「おもひたつことあり、うたふらく、
すきかへす人こそなけれ敷島の
うたのあらす田(だ)あれにしを
いでや、あれにしは敷島のうた斗(ばかり)か。道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん。かひなき女子(おなご)の何事を思ひ立(たち)たりとも及ぶまじきを知れど、われは一日の安きをむさぼりて、百世の憂を念とせざるものならず。かすか成(なり)といヘども、人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生(ししやう)いとはず天地の法(のり)にしたがひて働かんとする時、大丈夫(ますらを)も愚人も、男も女も、何のけぢめか有るべき。笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成ぬ。わがこゝろざしは国家の大本(おほもと)にあり。わがかばねは野外にすてられてやせ犬のゑじきに成らんを期(ご)す。われつとむるといヘども賞をまたず、労するといヘどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし。いでさらば、分厘(ふんりん、僅かな利益)のあらそひに此一身をつながるゝべからず。去就は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひのみせをとぢんとす。」
(*「しき島の歌のあらす田荒にけりあらすきかへせ歌の荒樔田」(香川景樹)。)
(・・・荒れてしまったのはこの和歌の道ばかりではない。道徳はすたれ、人情は紙のように薄くなり、政治家も一般の人も私利私欲ばかりを追及し、国家の発展を考える者もなく、世の中はどうなるのでしょうか。力もない女が何を思い立ったところでどうにもならないことは分かってはいるが、私は今日一日だけの安楽にふけって百年後の憂えを考えない者ではない。たとえ僅かでも人間の心を持っている者が、生涯の情熱をそそいで、死をもいとわず、天地の法則に従って働こうとする時、賢人であろうと愚者であろうと、また男であろうと女であろうと何の区別があるでしょうか。この私を笑いたいものは笑い、謗りたいものは謗るがよい。私の心は既に天地自然と一体になっており、私の志は国家の大本にあるのです。力及ばず倒れ、私の屍は野に棄てられ痩犬の餌食となっても、それは望むところです。どんな努力をし苦労をしたからといってその報酬を求めているのではないので、私の進む道は前後左右に広々としているのです。だから今のような僅かの利益を求めて争う商いの道にこの身を束縛しておくべきではないのである。その時その時の処世の術は風の前の塵のように変わるものです。何も心配することはないと考えて、この商売の店を閉じょうと決心したのです。)
透谷の影響と共感
一葉は、『女学雑誌』『文学界』を読んで、北村透谷の「人生に相捗るとは何の謂ぞ」(『文学界』明治26・2)、「内部生命論」(同5)などの詩や評論を読んでいたと思われる。
透谷は、精神の道義を失った「今の時代に沈厳高調なる詩歌なき」ことを嘆き、
「噫詩人よ詩人たらんとするものよ、汝等は不幸にして今の時代に生れたり、汝の雄大なる舌は陋小なる箱庭の中にありて鳴らさゞるべからず。汝の運命はこの箱庭の中にありて能く講じ能く歌ひ能く罵り能く笑ふに過ぎざるのみ。汝は須(すべか)らく十七文字を以て甘んずべし、能く軽口を言ひ、能く頓智を出すを満足すべし。汝は須らく三十一文字を以て甘んずべし、雪月花をくりかへすを以て満足すべし、にえきらぬ恋歌を歌ふを以て満足すべし」(評論「漫罵」(明治26・5))
と伝統に甘んじる和歌、俳句などの「詩人」を批判。
一葉は、この詩人批判を共感をもって読んだと思われる。一葉は既に、「心をあらひめをぬぐひて誠の天地を見出んことこそ筆とるものゝ本意なれ、いさゝかの井のうちにひそまりて、これより外に世はなしとさとりがほなるを人より見んにいか斗(ばかり)をかしからぬ」(「よもぎふにつ記」明26・2・9)と、歌人の閉鎖的、旧套的姿勢を批判している。
つづく
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