1894(明治27)年
7月
有賀長雄(日清戦争に万国公法担当法律顧問として従軍)、ブラッセル宣言を陸軍大学校に提出。
7月
ラフカディオ・ハーン、熊本の五高を退職。 神戸のジャパンクロニクルに就職、神戸に転居する。
7月1日
駐日イギリス公使ラルフ・ページェット、外務省を訪れ日本の妥協を要請。別に、キンバリー外相も青木駐英公使に妥協を求める。
イギリスは、清国の韓国への宗主権を認めロシアの南下を防ぐという現状維持論がベース。青木公使は、清国が元山に、日本が釜山に駐兵する条件でイギリスの調停に応じるのが得策と上申。
伊藤首相は、これを容れ、大鳥公使には進んで激越な処置をとらぬよう、参謀本部には大島旅団に急激な処置をとらぬよう指示。
陸奥外相はこれに不満で、イギリスの調停受諾条件に、清国が受入れ難い「政治・通商上の均一な地位」を入れる。李鴻章は同時撤兵が先決と主張。
イギリスは、ロシアが紛争調停し、日清間に勢力を伸張する事を恐れ、「露国ヲ局外中立ノ地ニ立タセ置夕為メ」に、仲裁に立とうとする。イギリスも朝鮮の現状維持を期待するが、政策のウエイトはロシアの南下阻止に置かれる。日本はこれを見抜き、その提案に同意しつつ、清国が受け入れられない朝鮮における政治上・経済上の同一特権を要求。これは第3回目の挑発。
7月1日
下谷区上野桜木町の丸茂病院(院長は山梨出身の丸茂文良)で治療を受けていた一葉の父方の従兄弟の樋口幸作が急死、大きな衝撃を受ける。丸茂病院は皮膚科の医院。幸作はハンセン病との説もある。一葉は、幸作の突然の死に自分の短命を予感。樋口くらは幸作の妹で、入院している幸作に付き添っていた。
「七月一日 芳太郎来訪。しばしありて、横須賀より野々宮君参らる。かなしく、浅ましく、かつは哀れにも、はづかしくも、さまざまなる物語をかたり出る。失敗の女学生が標本ともいふべきにや。十時頃成けん、桜木丁より使来り、幸作死去の報あり。母君驚愕、直に参らる。からはその日寺に送りて、日ぐらしの烟とたちのばらせぬ。浅ましき終(おはり)をちかき人にみる。我身の宿世(すくせ)もそゞろにかなし。」(「水の上日記」)
*「日ぐらし」;北豊島郡日暮里村の火葬場。
*野々官菊子は結婚に失敗して、この年の二月から横須賀小学校に勤めていた。
(七月一日。芦沢芳太郎が来る。しばらくして横須賀から野々宮菊子さんが見える。悲しく、情けなく、また可真相な身の上話をなさる。彼女は本当に失敗した女学生の見本とでも言うべきでしょうか。十時頃だったでしょうか、桜木町の病院から使いが来て、幸作さんの死去を知らせてくる。母上は驚き慌ててすぐ病院に行かれる。なきがらはその日のうちに寺に移し、日暮里の火葬場で茶毘に付されたとのこと。悲しく情けない人生の終焉を身近な人の上に見て、私の一生のことも考えられて何となく悲しい思いでした。)
7月2日
「二日 早朝、母君およびおくらと共に、日ぐらしに骨ひろひにゆく。山川程を隔てたる叔甥の、おなじ所に烟とのぼるは、こものがれぬ宿縁なるべきにや。「おはしまさば」と、今日はなき人に成し父上嬉しとおもふ。」
*一葉の父則義は明治22年7月12日死去、同14日に日暮里火葬場にて茶毘に付された。
(二日。早朝、母上やおくらと一緒に日暮里の火葬場に骨拾いに行く。遠く離れて別別の人生を生きた叔父と甥が同じ火葬場の煙となって消えて行くのも、これものがれられない前世からの因縁だったのでしょうか。父上が存命であったらどんなに悲しまれただろうと思うと、今日ばかりはおなくなりになっていたことが嬉しい気さえするのでした。)
7月2日
米、連邦裁,シャーマン反トラスト法違反を理由にプルマンのストに禁止命令.
7月3日
陸奥外相、大鳥公使に、内政改革要求中に鉄道・電信の権益獲得条項を入れること、政務局長栗野慎一郎を派遣するので4日迄、実行行為を避けるよう命令。
7月3日
朝鮮、大鳥圭介公使、外務督弁に改革綱領を提示。回答期限を8日正午とする。朝鮮政府は内政改革調査委員を任命。
7月3日
クリーブランド大統領,スト鎮圧のため連邦軍など1万4千名出動・弾圧.死者13名.
〈プルマン・ストライキ〉(「日本大百科全書(ニッポニカ)」より)
アメリカ合衆国の19世紀末の労働争議。1894年5月、シカゴ郊外にあった発明家プルマンGeorge Mortimer Pullman(1831―97)の経営するプルマン寝台車製造会社の大幅賃金切下げに抗議して、アメリカ鉄道組合に属する労働者がストに入った。会社側が交渉拒否、首切りの挙に出たため、デブス(後の社会党党首)を長とする同組合は、6月下旬、寝台車取扱いをボイコットし、各地で鉄道輸送を止めた。経営者団体が、同時に郵便車阻止となるように工作したため、組合側は公務妨害を問われることになった。政府は作業員を派遣して一部列車を動かし、裁判所は差止め命令を出した。なお従わぬ組合に対し、クリーブランド大統領は連邦軍を派遣し、抵抗する労働者に発砲させたため、7人死亡、多数負傷のうちに組合は敗れた。デブスは法廷侮辱および州際通商妨害による反トラスト法違反で投獄され、社会主義思想に傾いていった。また、このとき用いられた差止め命令と反トラスト法は、その後長く労働者を苦しめるものとなった。[長沼秀世]
7月4日
対外硬派大演説会。神田錦輝館。大井憲太郎、犬養毅、新井章吾、小林樟雄、福田友作。
7月4日
この日付け福沢諭吉、「時事新報」社説「兵力を用るの必要」。
「斯る頑民(朝鮮人民)を導て文明の門に入れんとするには、兵力を以て之に臨むの外、好手段あることなし」と云う。更に、17日付けの社説では、「抑も今回日本政府が隣国(朝鮮)の国事改革を謀るは、其国を日新の門に導き国民を無政無法の塗炭に救ふて文明の恩沢に浴せしめ、世界万国と共に天与の幸福を与にせしめんとするの義挙にして、俯仰天地に愧ぢず・・・」と述べる。
27日付け「時事新報」では、「今日に到りては押し問答は無益なり。一刻も猶予せず、断然支那を敵として我より戦いを開くにしかざるなり・・・直ちに開戦を布告して、もって懲罰の旨を明らかにすると同時に、彼支那人をして自ら新たにするの機を得せしむるは、世界文明の局面において大利益なるべし」と述べ、清兵が集結する朝鮮牙山への進撃を希望。
7月4日
ハワイ、共和国となる。サンフォード・ドール判事(50)大統領選出。
7月5日
大屋晋三、誕生。
7月5日
尾崎紅葉・渡部乙羽校訂『西鶴全集』発売禁止となる。
「明治二十七年の風俗壊乱としては、尾崎紅葉・渡部乙羽校訂の『西鶴全集』(上・下巻)がある。五月二十日(上巻)と六月十二日(下巻)の発行で、上巻千十八頁、下巻千二十二頁という分厚い背革の立派な本である。渡部乙羽が上巻で「西鶴是非」を書いているが、古人の西鶴についての諸説を列記して、なかなか手がたい解説となっている。七月五日に発売を禁止された。」(平凡社「別冊太陽」シリーズ『発禁本』)
7月7日
イギリスの調停により、北京で小村寿太郎代理公使と清国との交渉、筋書き通り成果なし。
9日も。陸奥外相は好機到来と判断、「我国将来の行動上ようやく自由を得た」と喜ぶが、イギリスとの条約改正が未実現という問題があり、条約改正に成功するまでは、ロシアに与えた言質からも、日本から戦争を仕掛けることはできない。
7月7日
駐清ロシア公使カシニ、日清紛争へのロシアの積極的干渉を上申。
10日、本国政府は、①極東ロシア軍の兵力不充分、②日本が撤兵に応じないとき、ロシアが戦争に巻き込まれる危険がある、③単独干渉では、外交上ロシアは孤立する、ため紛争に干与することを絶対に希望しないと訓令。欧米諸国の日本を妨害する可能性は消滅。
7月7日
山県、桂太郎第3師団長に、「此際、欧州諸大国之容喙不致之時期ニ授ジ、兵端を開く可き手段を尽シ、工夫を凝シ」ていると伝える。
7月7日
一葉の日記より
「七日 小石川稽古日也。十二日までには是非金子(きんす)の入用(いりよう)あるに、此月は別していかにともなすによしなく、「師君(しのきみ)に申てこそ」とこゝろは定めたりしを、さても猶いひおくれて、昨日までに成ぬ。「今はいかにしても言はではあられぬ時」とて、夕べ書物(かきもの)おはりて帰るさに、文したゝめて机の上に残し置し。されば、今日の稽古日に何とかの給ふべきは道理なり。よきこたへならは嬉しけれど、例(いつも)の気質も知らざるにはあらぬ師君が、いか様なる事やの給(たまふ)らん。」
(七日。小石川の稽古日。十二日までには是非ともお金が必要なのに、今月はとりわけどうしようもなく、先生にお願いしてと心に決めていたのに、それも言い出せずに昨日まで過ぎてしまった。今日はどうしてもお願いせずにはおれない時まできてしまったので、昨日の夕方書き物の仕事などすべて終わって帰りがけに、手紙を書いて机の上に残しておいたのです。だから今日の椿古日には先生はきっと何かおっしゃる筈です。善いご返事なら嬉しいけれど、いつもの先生の気性を知っているので、はたしてどのようにおっしゃるでしょうか。(以下五行抹消))
7月8日
陸奥外相、大鳥公使にイギリス政府が調停を提起したことを伝え、事態好転の見込みは「物質的利益」の獲得にあると注意。
7月8日
一葉の日記より
「八日 平田君来訪。田中ぬしが「かまくら紀行」、いづくの雑誌にか記載のこと頼む。「これより森鴎外君のもとに趣けば、同君にたのみて、『しがらみ草紙』などに出さばや」とてかへる。午後、中島くら殿来訪、物語多し。夜食を馳走してかへす。樋口のくらも来る。「明早朝、一番汽車にて帰郷したし」とあるに、今宵はみやげ物などとゝのふる為、本郷通へ諸共に行く。」
*「かまくら紀行」:明治25年7月1日~5日、中島歌子と鎌倉に旅行した折の紀行。「しがらみ草紙」第58号に掲載。
つづく
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