1894(明治27)年
6月上旬
一葉は久佐賀義孝を訪問し、今後の支援の口約束をとりつける。
6月1日
朝鮮、東学農民軍、全州城攻略
6月1日
朝鮮、日本公使館書記生鄭永邦、袁世凱を訪問。清国の出方を探り、「日本政府は決して他意を持つものではない」と付言。袁世凱は、この会談の模様を李鴻章に報告、日本は国内多事で、出兵するとしても公使館保護の100余の規模となる模様との判断を付け加える。
6月1日
朝鮮、鄭書記生の報告をうけて、朝鮮駐在代理公使杉村濬、東学党指導の農民暴動による全州占領と朝鮮政府の清国への援兵要請を外相陸奥宗光に報告(2日、受信)
6月1日
朝鮮、政府、金鶴鎮を全羅道監司に任命、農民軍宣撫工作させる
6月2日
朝鮮、領議政閔泳駿、清国代表袁世凱と密会。非公式清軍出動要請(3日公式要請)。袁世凱は直ちに高宗要請を北京の李鴻章に打電。漢城駐在清軍、即日出動。
一方、朝鮮政府は、清国軍到着までの時間稼ぎのため全琫準の要求全てを呑むことにする(和議)。
6月1日
論説「対韓問題如何」(「自由新聞」)。「遅疑躊躇する」べきでないと主張。政府と呼吸を合わせて世論を誘導。
6月2日
臨時閣議、冒頭陸奥外相が杉村代理公使の電報を読上げ、朝鮮での日清両国の権力均衡意見を述べ、一同賛成。清国の出兵に対抗して混成1個旅団(7千人前後)の朝鮮派兵決議。衆議院解散決議。
この夜、陸奥外相・川上操六参謀次長・林董外務次官会談し、壬午軍乱(明治15年)・甲申政変(17年)では清国に後手をとったので、今回は機先を制して前回の損失を回復しなければならず、清国以上の兵力を送りこれに臨むべき。
杉村代理公使の急電。「全州ハ昨日賊軍ノ占有ニ帰シタリ。袁世凱曰ク、朝鮮政府ハ清国ノ援兵ヲ請ヒタリ」。日本は朝鮮の現状維持(=日清の権力平均)を口実に、国民と欧米諸国に出兵を納得させることができる。
日清戦争の過程の第1期。6月2日閣議での出兵決定~5日大本営設置から7月23日王城事変まで。この間、日本は「厳に事局を日清両国の間のみに限り、務めて第三国の関係を生ずるを避くべし」(「録」17)との廟算から、朝鮮問題に対し、「表裏二個の主義」(同30)、即ち、表面では「成るべく平和を破らずして、国家の栄誉を保全し、日清両国の権力平均を維持すべし」としつつ、裏面では「全力を尽して当初の目的(「日清両国の衝突」)を貫く」ことを決意(同17)。それを実現する為に、日本は軍事上は主動権を保持しつつ、外交上は「被動者たるの地位」に立ち、3度にわたり清国を挑発。
第6議会、抜き打ち的に解散。実質審議を行わず、わずか半月で終了。
最終段階の条約改正。政府は対外硬派の活動に神経を尖らせ、半年間に2度の解散を行い対外硬派封じ込めを図る。第2次伊藤内閣発足以来、陸奥外相が改正交渉を行う。彼は井上・大隈の失敗から、中途半端な改正案では国民を納得させられないことを悟り、改正を領事裁判権撤廃に絞る。秘密主義をとり、実際の交渉は青木駐英公使が行う。明治27年春からは改正のため正式委員会が開かれ、第6議会当時、交渉は最終段階を迎えている。
6月3日
グスタフ・マーラー、「<巨人>交響曲様式の音詩」、ワイマールで再演。
6月4日
李鴻章、朝鮮第1次援兵900派遣指令。
6月4日
帰国中の大鳥公使、海軍陸戦隊・警視庁巡査隊400従え帰任。伊藤首相は袁世凱と協議して可能な限り平和的に軍局をむすぶよう指示。陸奥外相は、「韓国においては優勢をとる」事を絶対的必要条件とし、「過激に思うも顧慮する処なく断然たる措置をとるよう訓令。10日漢城入り。
6月4日
この日、「東京朝日」、3日付け仁川電を号外にする。「東学党益猖獗(三日正午仁川特置通信員発) 官軍敗れ大将死す。全州(首府)は東学党に略取せられ電報通ぜず。政府狼狽し京城の人心恟々たり。又兵六百を発す」。これにより、「東朝」は5日から、「大朝」は13日から、夫々3日間の発行停止を命じられる。
6月4日
北村透谷追悼会、九段坂下の貸席玉川亭で開催。島崎藤村ら友人、石阪昌孝・北村快蔵・美那・英子も出席(42名)。
6月4日
現存する一葉「水の上日記」の初め。この日は、妹邦子と中島歌子の母のお墓に参る。
続けて、この間の久佐賀とのやり取りが記されている。
水の上-本郷丸山福山町時代-
①「塵の中」期の最後の日記と「水の上」期の最初の日記の問に1ヶ月の空白(1冊分の記録が散逸)。
②27年7月~28年4月が大きく欠落(11月9日~13日の部分は現存)。一葉が処分したと考えられる。この欠落部分には、日清戦争の興奮や久佐賀義孝・村上浪六らとの苦い交渉が記録されていたはずである。
③28年6月~10月、11月~12月、29年2月~5月も空白。これは「にごりえ」「十三夜」「たけくらペ」「わかれ道」「通俗書簡文」「われから」などの執筆に忙殺されて記録を怠ったと考えられる。
④傍系日記としては、「つゆしづく」の後半部分、二つの残簡(明27・秋~同28・1)、「しのぶぐさ」(明28・1~2)が詞書の和歌の形式で書かれ、序文だけが書かれた「詞がきの歌」もある。
続いて、「随感録」「さをのしづく」(明28・2~4)がある。「しのぶぐさ」は詞書に日付が多く出て来るので、日件録に近い印象を与える。
雑記系統は、日清戦争時に書かれた「かきあつめ」(明27、28頃)と「うたかた」(明27・末~同28・冬)が存在するだけ。
記録は29年7月22日で終り、その後「はな紅葉一の巻」の余白を使用して病床でわずかな手記が書かれ、それが最後の日記になっている。
「かつて天啓顕真術会本部長と聞えし久佐賀のもとに物語しける頃、その善と悪とはしばらく問はず、此世に大(おほい)なる目あてありて、身を打すてつゝ一事に尽すそのたぐひかとも聞けるに、さてあまたゝびものいふほどに、さても浅はかな小さきのぞみを持ちて、唯めの前の分厘にのみまよふ成けり。かゝるともがらと大事を談(はな)したらんは、おきな子にむかひて天を論ずるが如く、労して遂に益なかるべし。おもへは我れも、敵(かたき)をしらざるのはなはだしさよと、我れをさへあざけらる。」
(以前に天啓顕真術会本部長の久佐賀という人を訪ねて話したことがあったが、その善悪はしばらくおくとして、この世に大きな目的をもって身を捨ててその事に邁進するような人かと思っていたが、何度も逢って話しているうちに、全くあきれはてたつまらない小さな望しか持たず、ただ目の前の僅かな事にばかり迷っている人でした。このような人物を相手に人生の大事を語るのは、幼な児を相手に天を論ずるようなもので、全く苦労ばかり多くて何の益もないことでした。今にして思えば、私も相手を見分ける眼が全くなかったことよと、自分で自分が可笑しくなるのでした。)
6月5日
戦時大本営条例により大本営を動員。宣戦布告前だが、戦時に入る。広島第5師団に兵員7~8千の混成旅団編成着手させる。
この日に初めて陸軍参謀本部内に設置され、9月15日には広島城内(本丸上段)に移る。天皇は、翌明治28年4月27日に京都に移るまでの約7ヶ月間、広島に滞在。
戦時大本営条例:
(第1条)大本営を天皇親裁のもとにある最高統帥部と規定、
(第2条)そこにおいて「帷幄ノ機密ニ参与シ、帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スル」任務は参謀総長に与えられ、
(第3粂)大本営幕僚は陸海軍将校だけで組織され、文官の容喙を許さず。大本営組織後は、天皇の戦時軍令大権は参謀総長の補弼だけで発動され、統帥事項は一切、他のいかなる国家機関の制限も受けず、その機務には首相も参加できない。従って、平時には居留民保護の為の軍艦派遣・応急出兵は外交的・政略的事項として閣議決定されるが、一旦大本営が設置されると、「帝国大作戦」の一部として、大本営幕僚長(参謀総長)の専決事項となる。
大本営設置期間は、作戦用兵に関する限り、外交が戦争に従属し、統帥は国務に優越する。大本営設置は平時の法状を変更するので、1937(昭和12)年大本営令を軍令によって公布し、設置要件に事変を加えるまでは、戦時に限定されている。
日露戦争の場合は、それを極めて厳密に解釈し、開戦は1904(明37)年2月4日の御前会議で決定、6日動員裁可されるが、寺内正毅陸相は「宣戦布告以前は、絶対に大本営の成立を認むべきに非ず」と主張。その為、宣戦布告の翌2日にようやく動員下命、13日に完結。
日清戦争の場合、開戦決定の御前会議は7月17日、宣戦布告は8月1日だが、大本営設置はこの日6月5日。開戦の国家意志決意の以前に、統帥部が戦時機関である大本営を置き、平時の法状を戦時のものに変更した事は、閣議決定(居留民・公使館保護及び日清両国の権力平均という限定された出兵目的)を、その精神において無視したもので、二重外交に発展しうる論理を内包している。2日夜の川上操六参謀本部次長と陸奥外相の謀議が、開戦にもちこむ事を決定した際の論理は、日本軍が出兵すれば清国軍が戦を挑み、開戦の端緒が開けるということ。この思惑が外れ、朝鮮に帰任した大鳥公使が、閣議決定による出兵目標達成をみて増遣中止を電請した時、陸奥外相がこの申出を一面では「至当」と看做しながら、「既定の兵数を変更する能はざる」ことを理由に拒否したのは、軍事的観点が政治的観点に優越したことを意味し、政戦両略一致の点からみれば、極めて不合理。大本営設置の上での大軍派出の事実が、日清両国の同時撤兵を不可能とし、妥協成立の道を閉ざし、日清戦争回避の最大の機会を失わせる。日清戦争の真の起点は、列強の干渉や国内政治の影響により開戦政策が動揺することを阻止する目的で、統帥部が陸奥外相との私議のみにより独走的に大本営を設置した時点に、求められる。
戦争は、①清国との国際法上の戦争、②朝鮮・台湾に対する「戦争ならざる戦争」、③清帝国分割を巡る列強との「戦争にいたらない戦争」、の三局面の重層的・同時進行的戦争として遂行。
国内では、帝国憲法の多元的分立主義が新たな矛盾である統帥と国務の対立を生みながら進行。統帥は、大本営設置と海外派兵によって機構的にも国務に対する統帥の優越を獲得し、政略を戦略に従属させようとする。政略を担当する国務が戦略を拘束し、統帥を従属させる限り(政略の主導のもとに政戦両略が一致している限り)、戦争目的を達成することができる。日清戦争の歴史は、機構的に国務を抑える権限を握ってたえず戦略至上主義にたって独走しょうとする統帥を、国務が統御しょうとする歴史である。
明治憲法下では、国務・統帥分裂を統合できるのは天皇のみで、最高国策はしばしば天皇臨御の宮中での御前会議で決定される。御前会議は憲法上の会議でなく、法理的にはその決定が国法上有効ではないが、天皇の最高責任で決定した形式を含む為に、会議の決定は国務・統帥双方を強く拘束。日清戦争に際し、このような意味の御前会議は7回開催。会議参列者は固定ではなく、会議毎に相違、閣僚全員参列は初めの3回のみ、定例的出席は首相・陸相・海相・参謀総長・参本次長・軍令部長・山県有朋の7名。陸奥外相は初め3回のほか講和条件審議の御前会議に参列。
これとは別に、天皇が大元帥の資格で出席し、作戦を親裁する大本営御前会議があり、日清戦争の場合は約90回開催。会議出席者は、参謀総長・参本次長・軍令部長・陸相・海相を中心とする大本営幕僚であり、山県大将が特命で参加。伊藤首相列席が命じられた後は、双方の御前会議出席者は主要部分で一致。天皇を含めたこの8名(陸奥外相を加えると9名)が戦争指導寡頭制を構成。日露戦争の場合のように財政担当が加わわらず、また武官此率が高いことが注目される。
6月5日
伊東巳代治、伊藤首相に新聞同盟(反政府・反自由党)処分を請求。但し、新聞同盟は政社と認定されていず政社法では取締れず。4日、新聞同盟は東京ホテルで今後の方針を協議。「対外自主派総選挙本部規約」作成し、対外硬派の前代議士・貴族院議員に送付。政社の色彩でる。6日、神田錦町の錦輝館で懇親会。
つづく
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