2024年4月5日金曜日

大杉栄とその時代年表(91) 1893(明治26)年8月1日~11日 漱石、就職の目途がつかず落ち着かない日々を過ごす 龍泉寺での一葉の荒物店開店(すぐに駄菓子もおくようになる) 一葉が買い出し、妹邦子が店番 一葉、幼年時代を顧る 

 


大杉栄とその時代年表(90) 1893(明治26)年7月19日~30日 子規の東北旅行(3) 鮎貝槐園との交歓 旅費の工面 商材仕入れのための5円の金が手元にないと歎く一葉 黒田清輝、フランス留学から帰国 より続く

1893(明治26)年

8月

漱石、就職の目途がつかず落ち着かない日々を過ごす。


「何分にも炎暑に耐へがたく、日々呻吟仕居候段、吾ながら憫笑の至、貧生(ひんせい)の境界あはれ斯の次第御察し可被下(くださるべく)候。寄宿舎も当時は大不景気にて惣勢十三四人に過ぎず、至つて寂寥を覚え候。当夏卒業の文学士売口大に悪しく、皆困却の体気の毒に存候。小生抔も如何成る事やら頓と不相分、今日を今日とのみ未来の考へなく打暮し居候。此分にては九月に御馳走の約束もあまり当にならず、当にせずと御待ち可被下候。・・・」(8月7日付西谷虎二宛)


漱石の友人中村是公は帝国大学法科大学英法学科を卒業し、8月3日、大蔵省試補となる。養父中村弥惣次の五女千代子と結婚。12月8日、依頼試補を免じ、大蔵属に任ぜられる。94年4月、秋田県収税長。96年4月、台湾総督府民政局事務官として転出、台湾総督府衛生顧問後藤新平の知遇を得る。後藤は民政長官となり、是公を重用して植民地経営に敏腕を振い、後藤新平と中村是公の太いパイプが形成される。

8月1日

一葉の母たき、伊勢久へ仕立物を持って行く。大変褒められたとのこと。久しぶりに「七書」(中国の七つの兵書、「孫子」「呉子」「司馬法」など)を読む。夜、家の前を通る人力車の数を数えると10分で75輌だった。1時間では500輌となる計算で吉原の繁盛ぶりが窺える。ただ、女連れのひやかし客も多いという。伊勢久では客のない日もあるとのこと。

8月1日

エンゲルス、最後の大陸旅行。~9月29日。ドイツ、スイス、オーストリア。6日、チューリヒ、第2インターナショナル第3回国際社会主義労働者党大会開催。エンゲルス演説。

8月3日

ゴーギャン(45)、タヒチよりマルセイユ到着。

8月6日

一葉の荒物店開店

8月2日、山梨県に帰っていた広瀬伊三郎から、郵便為替で7円送って来た。

8月3日、日が暮れてから妹邦子と東京名物となっている吉原の燈籠を観に行く。

吉原の様子。心中物などを三味線にのせて語る30歳すぎの流しの女性が廓にいて哀れをさそう。人力車の数のこと(一昨日と同じ)。9時まで見歩いたところ、角海老楼だけはにぎわっていたが、看板提灯を下げて見送られる客は一人も見なかった。夜、江戸町(吉原大門に最も近い一角)で迷子を助ける。

8月5日、夕方5時、ようやく荷が届く。2間の間口にたかだか5円の品物を入れたのでその寂しさは推して知るべしである。田部井からガラスの陳列箱を買うことにしておいたので、それがせめてもの賑やかしになる。伊勢利に一献振舞い、10時近くまで飲んで話し込む。

(仕入帳によれば、のり、安息香、元結、掃除用具、附木、磨き砂、箸、麻紐、楊枝、鉄漿下、亀節、歯磨き粉、ランプの芯、藁草履、卵、石鹸、束子、蚊遣香、マッチ、ささら等)

「二間の間口に五円の荷を入れけるなれば、其淋しさおもふべし。幸ひに田部井(古道具屋)よりがらす箱を買ひおきしかば、それにて少しものにぎやかしに成ぬ」(「塵の中」明26・8・5)

8月6日、浅草東本願寺前の荒物問屋中村屋から仕入れ、伊勢利に飾り付けを頼み、荒物店として開店。しかし、売上げが不安なため、雑貨や駄菓子を次第に多く置くようになった。星野天知が訪ねたときには、駄菓子屋として眼に映ったという。

開店当初の品は伊勢利が紹介した浅草東本願寺前の荒物問屋中村屋から仕入れる(その後、荒物は花川戸や駒形の蝋燭屋などからも仕入れる)。

6日に母は父の負債の債権者奥田栄に、借金の利子を払いがてら、田部井へ行き、ガラス箱を買い足す。一葉は夕方から、菊坂の伊勢屋質店に衣類を質入れし、その足で本郷の紙店で、半紙や浅草紙を2円近く仕入れる。

「今宵はじめて荷をせをふ。中々に重きものなり。家に帰りしは十時ちかく成りき。持参の紙類、明日の朝店に出すすべき様、今宵のうちに下ごしらへをなす。十一時床に入る。」(同、8・6)

こうして店には、箒、はたき、みがき粉、割箸、歯磨き、藁草履、ふのり、蚊やり香、ろうそく、半紙などの紙類などが並び、店の淋しさは、マッチや箱類で補う。

8月6日

ギリシャ、コリント運河完成。

8月7日

斎藤阿具が、興津の清見寺境内の龍沢院に、小屋保治を訪ねて行く。保治はその時、別坊を訪れていた大塚楠緒子の母の伸子、楠緒子、弟の豊とともに龍華寺へ行っており、留守であった。

翌8日、大塚家一行は保治に挨拶して、佐野の瀑園に向かって出発した。

保治と阿具は、二人とも泳げないので、浜辺でポチャボチャ遊び、久能山、三保、薩埵峠、蒲原の由比正雪の生家を訪ねたり、江尻へ鰻を食いに行ったりして過ごした。

二人は20日に興津を引き上げ、佐野の瀑園の五龍館に立ち寄ったが、一家は引き上げた後でいなかった。

二人は佐野に一泊し、さらに大磯に二泊して、東京の寄宿舎に帰った。寄宿舎には漱石一人が居るだけだった。三人で外出し昼食を食べ、斎藤阿具はその日のうちに郷里の埼玉に帰った。小屋保治は翌日、郷里の群馬に帰った。

8月7日

一葉の日記。「七日、晴れ、早朝花川戸の問屋に糸はりをもとめけり。しやぼんの割合、中村屋よりは廉(レン)に覚えしかば、一本もとめて来る。駒形の蝋燭屋にろうそくをかひ、看板の事などたのむ。」

8月9日、早朝に2人客。商品の値段に慣れず失敗を重ねる。このままでは利益が出ないが、そのうちなんとかなるだろうと話し合う。木村千代(新吉原中之町の引手茶屋伊勢久の番頭女中。仕立物の斡旋をしてもらったり、廓内の事情を教えてもらう)が買い物に来る。20銭ほどの売り上げ。

8月10日、菓子類を神田雉子町の北川問屋から仕入れ。以後、駄菓子と玩具が売上げの主力を占めるようになる。

一葉の幼年時代からの閲歴と感想。

「七つといふとしより草草紙といふものを好みて、手まりやり羽子をなげうちてよみけるが、其中にも一と好みけるは、英雄豪傑の伝、仁侠義人の行為などの、そぞろ身にしむ様に覚えて、凡て勇ましく花やかなるが嬉しかりき。かくて九つ許の時よりは、我身の一生の世の常にて終らむことなげかはしく、あはれくれ竹の一ふし抜け出でしがなとぞあけくれに願ひける。

(ああ淡竹の一節ほどの高さだけでも人々から抜け出したいものと、朝に晩に願ったことだった。)


「其頃の人はみな我を見ておとなしき子とほめ、物おぼえよき子といひけり。父は人にほこり給へり。師は弟子中むれを抜けて秘蔵にし給へり。おさなき心には中々に身をかへり見るなど能ふべくもあらで、天下くみしやすきのみ、我事成就、なし安きのみと頼みける。下のこころにまだ何事を持ちて世に顕はれんともおもひさだめざりけれど、只利欲にはしれる浮よの人あさましく厭はしく、これ故にかく狂へるかと見れば、金銀はほとんど塵芥の様にぞ覚えし。


「十二といふとし学校をやめけるが、そは母君の意見にて、女子にながく学問をさせなんは、行々の為よろしからず。針仕事にても学ばせ、家事の見ならひなどさせん成き。父君はしかるべからず、猶今しばしと争ひ給へり。汝が思ふ処は如何にと問ひ給ひしものから、猶生れ得てこころ弱き身にて、いづ方にもいづ方にも走かなることいひ難く、死ぬ許悲しかりしかど、学校は止になりけり。それより十五まで家事の手伝ひ、裁縫の稽古、とかく年月を送りぬ。されども猶夜ごと夜ごと文机にむかふ事をすてず。」

8月8日

ローザ・ルクセンブルク、チューリッヒでの国際社会主義労働者会議の議席を拒否。

8月11日

初めて神田の問屋街へ仕入れに出かける。以後、一葉が買い出しに回り、くにが店番を担当した。

妹くに子は、周辺の人々の貧しい暮らしぶりから、雑貨だけでは商売にならないと考え、この界隈には子供が多いの目をつけ、菓子小売と仕入れの許可を申請すると、8日に鑑札が下りる。11日には菓子や子どもの手遊び類を仕入れて帰り、飾りつけると、待っていたとばかりに子供が買いに来たとある。

その日の「塵中日記」


「十一日、晴天、朝まだき家を出づ。北川君のもとへ着けるが漸く五時半頃なりけん。藤兵衛老人の周旋にて菓子ならびに手遊ものなどの買ひ出しをなす。まだ生れ出てよりかゝる処の景況を知らざる身にはそゞろ恐ろしきまでものはげし。正午少し前、家に帰る。かざりつくるも遅しと計かひに来たる子供あり。」


8月12日、「十二日、はれ。母君は小石川本郷あのあたりに礼参りに行き給ふ。今日のいそがしさは又無類成き。さて売上の金はと問へば、二十八九銭成しなるべし。」

8月13日、「十三日、はれ、かひ出しに多丁へゆく。今日のうりあげは廿三銭。」

8月14日、「十四日 晴れ。又多丁へ行く。帰路はくるま。今日のうりあげは三十九銭。」


下谷龍泉寺町での生活:

商いを始めてから、いつしか役割分担ができ、店番は主として妹のくにが行い、一葉は仕入れに出た。特に神田方面に買出しに出るときは、未明の暗いうちに家を出て問屋街に向かった。帰って来ると店は妹くにに任せて、奥の間の部屋で一葉は店先の人声も気にもせず机に向った。時には「十三夜」の舞台となる新坂を登って東京図書館にも出かけて半日を過ごした。

日記や仕入帳などによると、開店当初は、主として雑貨類の1日の売上げが40銭~60銭、月に15円ぐらい、それに要した仕入れ金額は、9月が11円、10月が売上げも伸びて15円ぐらいであった。11月になると仕入れ金額が増えて17円、売上げはこれに3割程度のマージンを上乗せした金額と想像されるが具体的記録は無い。

商品の仕入れ先は、浅草高原の問屋中村(兼寿軒)、花川戸の問屋、駒形の増田、本郷の菊池(むさしや)、下谷車坂町のさくら香、金杉の問屋、神田多町の問屋などから、雑貨、小間物、菓子類を仕入れている。仕入れの内容から判断すると、9月~10月頃は雑貨頬が主に売れていたが、11月以降は子供相手の駄菓子、小間物に変っている。仕入帳には鉄道馬車代(4銭~6銭)もメモされている。

当時は、一般職人の1日の手間賃が30銭ぐらい。米1俵6円60銭、袷1枚の仕立て賃20銭~30銭、2~3人家族の家庭の最低生活費は月10円ぐらいであった。一葉の店の家賃は1円50銭。

「多丁」は神田多町のこと。駄菓子・玩具の問屋の多い街。龍泉寺町からは、直線距離4km(実際6km程)。「帰路はくるま」とあり、そうとは書かれていない日は歩きだったようだ。


つづく

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