2016年8月7日日曜日

堀田善衛『ゴヤ』(104)「マドリード・ホセ一世」(1) 行動なき観念、観念なき行動とは、民衆なき観念、観念なき民衆とも言い換え得るであろう。これでは革命が流産をするであろうことは自明事であろう。

 ホセ一世は弟のような戦争屋ではなく、何はともあれ、平和な治世をもちたいと心からねがっていた。

 だから、王はマドリードをスペイン本土のみならず、中南米にまたがる大帝国の首都としてふさわしい、立派なものに仕立てようと土木工事から手をつけはじめた。王宮のすぐ前にごちゃごちゃとかたまっていた細民街をとり払い、そこに広々とした広場をつくった。アラビア流の迷路のような狭い路を広くし、広場を設け、方々に大通りを貫通させた。王宮のある丘と次の丘との窪地には壮大な陸橋をかけ、市の入口にはそれぞれ壮麗な門を作った。

 またしても上からの改革である。しかもそれが「侵入王」によってなされるのである。民衆はもう一つの仇名をこの王につけた。”広場王(el Rey plazuelus)”というのである。・・・
 そういう長期にわたる大工事、都市計画に手をつけたということは、つまりこの”王”が王としてこの先長く居すわるということを意味するであろう。・・・
 彼は狭くて汚い細民街をとっぱらっては広場と広場で結ばれた広い道をつくり、その広場をスペイン史上の偉人たちの石像で飾らせた。民衆はかつて名前も聞いたことのなかった自国の偉人、カルデロン、ローペ・デ・ペーガ、セルバンテスなどの石像にはじめてお目にかかることになる。また彼は無理をして闘牛を奨励さえした。すなわちスペインの歴史と伝統と、近代化、汎ヨーロッパ化を結びつけようと努力をした。今日の、都市としてのマドリードは、大旨この王の都市計画にもとづいて改造されたものである。パリがナポレオンの都市計画によって面目を一変したように。

 ・・・行政組織も、近代的なものに着々と整備されて行った。・・・
しかし、かかる状況が外国人の「侵入王」によって実現されて行く有様を見せつけられていた人々の心境の複雑さは、想像にあまりある、とは、やはり言わざるをえないであろう。

 元来スペインの開明派、リベラルは、フランス的諸観念によってつちかわれた、いわば百科全書派の精神的孫のようなものであり、彼らはブルボン王家によって迫害こそされたけれども歓迎されたことなど一度もなかったのである。彼らの思想も趣味もフランスによって養われていた。従って彼らにはホセ一世の開明な政策を拒否すべき理由は何もなかった。

 しかしそれでもなお、急進的な開明派にとっても、やはり割り切れぬものが残った筈である。
- それじゃ、いったいカディスの中央評議会をどう評価するのかね? 開明派の頂点にあったホペリァーノスが議長として、ここでも憲法草案について論議をしているではないか?
マドリードに残った開明派にとっても、この問いにまともに答えることは困難である。
 
 困難はしかし、マドリードのみならず、カディスにもあった。ホベリァーノスもすでに六七歳の高齢であり、民衆恐怖症にとりつかれ、かつ「衒学的な慣習のなかに病み老いてしまってい、半島のへんぴな地方におしこめられ、二年にわたりフランス包囲軍によって王国の主要部分から切断されていた中央評議会は、一方では、実際のスペインがすでに侵略されているがいまもってたたかっているときに、観念上のスペインを代表したのである。レオン島(カディス)には、行動のない観念が、ほかのスペインには、観念のない行動があった。中央評議会は、その革命的使命をはたさなかったから、その祖国防衛をもはたさなかったのである。」
いま引用(抄)したものは、このときから約五〇年後になされたマルクスの批判である。

 行動なき観念、観念なき行動というマルクスの名文句の後者は、独立戦争側の軍事行動、特にゲリラ活動に関して、まことに痛烈な批判であった。

 そうして、この中央評議会の憲法草案にも、次第にフランス的自由の観念が潜み込んで行き、いわゆるカディス憲法として一八一二年にフェルナンドの名によって一方的に公布された憲法は、ナポレオン・イデオロギーによってつくられた憲法と、まことに大差のないものになるのである。スペインの歴史家たちの大多数は、カディス憲法だけを問題とし、ほとんどはホセ一世のそれを無視している。
 しかもマドリードに居残った開明派がフランスの支持によってでなければ何も出来なかったように、カディスの頑迷固陋な貴族も開明派の一団も、実は英国の直接支持によってこそ存立しえたのである。

 混乱し切り、「完全無欠な無政府状態」の当時にあって、割り切れているのはフランスと英国だけである。
少くとも何等かの”観念”をもっていた人々は、すべてえも言われぬ微妙かつ複雑な位置にあったのである。

 ・・・彼(*ゴヤ)がかつて肖像を描いた人も描かなかった人々をも含めて、彼の友人、知人、彼の教導者であった開明派の人々は、方々にいる。フランス派(afrancesados)としてマドリードに踏みとどまって祖国近代化のために献身的に働いている人々もあれば、ホベリァーノスや詩人キンターナに代表される人々のようにカディスにいる人々もいる。
 ゴヤの身近かな人々としては、詩人で法学者のメレンデス・パルデース、劇作家のレアンドロ・デ・モラティン、ウルキーホ、それにナポレオンがマドリードへ入って来たとき、直接ナポレオンと開城の条件を交渉した、アカデミイのベルナルド・イリアルテなどはいち早くホセ一世の政権の一端をになっている。・・・
 彼らのすべてはフランスこそが人間の尊厳を発見してこれを保証した国であり、この国との協力によってしか、いまだに、中世的暗黒のなかに浸っている祖国を救う道はないと信じた。"

 そうしてこのマドリード派とカディス派に共通していた一事は、双方ともに、民衆とは切れたところにいた、ということである。

 行動なき観念、観念なき行動とは、民衆なき観念、観念なき民衆とも言い換え得るであろう。これでは革命が流産をするであろうことは自明事であろう。

 歴史がかくも微妙かつ複雑な様相を呈していた時の、その微妙複雑そのものを、実に一身に体したかのような人物像を、ゴヤはこれもまた歴史的な傑作に描き上げている。

ゴヤ『アントニオ・リォレンテ師像』(部分)1811

 それは、かつての異端審問所官房長で、ゴヤの友人でもあるフアン・アントニオ・リォレンテ師像である。

 まずその表情の微妙さを見てみたい。
 何よりもその眼と口許である。
 部厚い眉毛の下の眼はほんの少し斜視気味であるが、口許とあわせて眺めていると、いったいこの人は微笑をしているのか、それとも心中の苦さを堪え忍んでいるのか、笑うにあらず、嘆くにあらず、君看ズヤ双眼ノ色、語ラザレバ愁無キニ似タリとはこういう表情のことを言うのではなかろうかと思われる程のものである。
 広く凹凸のある額と、がっしりした頬と顎の骨組みは、頑固一徹な意志の力を物語っていようし、大きな耳は異端審問に際しての、如何なる非合理、非論理性をも聞き洩らしはしないであろう。いささか受け口の下唇だけが、ほんの少し、微笑に行きかけてそこで凍結をしている。
 黒衣の襞が何を物語っているかは、そこまでは複製では読みとれないのが残念ではあるが、胸の前で手を組み、バックルの飾りのついた大きな靴をはいて、この師はがっしりと立ち、床に根を生やしている。

 彼は教会の重要な役職を経て、一七八九年 - フランス革命の年である - に異端審問所の官房長に就任し、一七九一年に辞任をしている。おそらくフロリダブランカ伯爵の、フランス革命に関する情報封鎖のために異端審問所を利用する政策について行けなかったためであろう。そういう要職についていたにも拘らず、生涯を通じて異端審問に対して批判的、というよりはむしろ否定的であった。
 聖職者として自分の役職に否定的であること、そういう矛盾、背理の只中に生きた人の肖像である。

 彼はおそらくゴヤの思想に誰よりも深い影響のあった人であろう。版画集『気まぐれ』にすでに見られた無知蒙昧な聖職者や教会批判、まだこのあとにも多く見られる同種の、しかも次第に痛烈なことになる諷刺画やデッサンが自信をもって描かれることの背景には、おそらくはこのリォレンテ師のがっしりとした存在があったものと考えられる。またゴヤが何度か異端審問所の取調べや呼び出しをうけているのであるが、結果はつねにウヤムヤで何等の証拠書類も残っていないことの背後にも、おそらくはこの師の存在があったものであろう。

 この師は一八〇八年のバイヨンヌ憲法草案起草にも参加し、彼が胸につけている勲章はホセ一世制定のそれである(スペインの民衆はこの勲章をナスビ勲章と呼んだ。ゴヤもそれをもらっているが、後年、一度も佩用したことがなかったと弁明している。いつの日か近い将来には、この勲章をもらっていたこと自体犯罪視される時が来る。しかも時の現在では、将来これを犯罪視する当人〈フェルナンド七世〉自身が、亡命先からこの勲章をおれにもくれろとせがんでいるのである)。
異端審問所の廃止、つまりは信仰寛容令そのものはピレネー山脈の向うのヨーロッパではすでに常識であって、別にナポレオンの創意でもなんでもない。けれどもスペインでは、それはもう革命であり、反キリストそのものである。

 ナポレオンが一筆でこれの廃止を命じ、異端審問所が封鎖されると、リォレンテ師は各地の審問所に所蔵されていた慶大な文書を調査して『スペインにおける異端審問の批判的歴史』を書くことをホセ一世から委嘱される。・・・

 この聖なる役所(異端審問所)の恐るべき振舞いがスペインの力を弱め、人口を減らしてしまったのだ。芸術、科学、産業、商業の進歩を止めることによって、また多数の家族をして王国を放棄することのやむなきにいたらしめることによって、さらにはユダヤ人とモーロ人の追放を強要することによって、しかも三〇万以上の人々を燃えさかる薪の上で焚殺することによって。大審問官及びその顧問会議の制度は、実に欺瞞にみちたものであった。すなわち、もし教皇教書が彼らの権力を制限し、怨恨を晴らすことを抑止するものであるならば、彼らはそれが王国の法になじまぬものである、あるいはスペイン政府の秩序に背くものであるという口実で拒否をする。しかも同一のやり方でもって、王命を拒否する際には、教皇教書がそれに従うことを許さないとて、破門をちらつかせる。
ユダヤ教の根絶が、フェルナンド五世による異端審問所開設のための単なる口実にすぎないことは、疑問の余地なく事実が証明をしている。真の動機は、ユダヤ人たちに対しての財産没収のための強力な措置がとられ、政府の手に彼らのものを取り上げるためである。教皇シクストゥス四世がこれを許可したのは、ローマ教皇庁の利害と支配の伸長のためである。カルロス一世は、かくすることがルーテルの異端がスペインに侵入することを妨げる唯一の方法であるとして、これ(異端審問所)を保護した。フェリーペ二世は迷信と暴政によってこれを鼓舞した。しかも賦課税法までを加えて、フランスへの馬匹の輸出業者を異端の疑いありとして異端審問所の役人をして没収せしめさえした。・・・最終的にはカルロス四世は、フランス革命がこの監視制度を正当化するものとして、審問所を支持したのである。

 ・・・こういうことがはっきりと、あまりに露骨に書かれた場合、しかもそれが明らかに外国人の王のパック・アップによって書かれたとき、異端審問所の存在を支持しない人でも、あまりいい気はしないのではなかろうか。以上のような宣言文のあとに、古文書を駆使しての、一六世紀以来の種々様々なケースの例証が蜒々とつづくのである。

 リォレンテ師自身に周囲の人々からの反発や反感が感じられなかった筈はなかろう。
 この顔は、それを充分に知り尽した上で敢て踏み切った人の自信、信念と不安の双方があらわれていると私には見えるのである。

 またあるときには、この顔に、ホセ一世に”協力”をしていたスペイン人全体の信念と不安との、そのかげりの多い在り様が読みとれるようにも私は思うものである。
 さらにまた別のときには、自ら聖職者出身でありながら、フランス革命とナポレオン時代を経てその後の狂瀾怒涛の時代を警察長官として生き抜いたジョセフ・フーシェの面影がこの師の顔にかさなって来ることもある。

 リォレンテ師は一八一三年にはフランスへ亡命せざるをえず、一八二三年に帰国してすぐに死んだ。・・・
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