より続く
井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ6)
5 末期
娘同様に愛する絵
子規が亡くなる二十日前の、八月三十一日の『病牀六尺』の記事を見ておこう。
(略;渡辺南岳「四季草花図巻」の件)
・・・・・現在東京藝術大学の所蔵となっている。
そういう事情を知らない子規は、この画を明け暮れ眺めて命が延びる思いがすると、澄道に感謝を述べているが、注目されるのは、「筆付きの軽妙にして自在なる」点が子規の執心の理由だったことである。この絵は、ちょうどこの頃子規が描いていた『草花帖』に酷似している。短い子規の生涯の最後の境地が、軽妙な写生にあったことを如実に語るエピソードではないかと思う。
最後まで描く
子規の最後の写生画は、『果物帖』(明治三十五年六月二十七日~八月六日)、『草花帖』(同年八月一日~二十日)、『玩具帖』(同年八月二十二日~九月二日)、それに『仰臥漫録二』(九月三日)である。先に紹介したように、子規はこの時期、モルヒネが切れれば、阿鼻叫喚の痛苦に襲われていた。その中で、子規は精細に色を重ねて対象を物にしようと、あくまで愚直に描いた。これらの画幅は、完成すれば月日を書き入れることを子規は忘れなかった。一つ一つ、命を刻み付けていくような感覚である。
なかでも、子規が夢中になったのは彩色である。『病牀苦語』(『ホトトギス』明治三十五年五月号)にこうある。
(略)
子規にとって絵は、天然の色に魅せられ、それをわが物にしていく楽しみがあり、それが生きる事そのものとなっていた。もはや最晩年には肘をついて俯きになることもかなわず、仰向きで引力と戦いながら、わずかな麻酔薬の効いている間に、律儀に描き続けられていったのである。子規は、特に生命力を感じさせる「赤」が昔から好きだったが、その鮮やかな生命力の再現と伝達こそ、詩人として子規の一生を貫くものだったとも言えよう。
絶筆三句の証言
九月三日を最後に、子規は絵筆をとることも、かなわなくなった。足の腫れと共に襲い来る激痛は、先に紹介した通りである。いつまで書き続けらるかもわからず始めた『病牀六尺』も、八月二十日で百回を迎えて喜んでいたが、それからひと月に満たない九月十七日で途切れた。ここからは、碧梧桐の「君が絶筆」と虚子の「君が終焉の記」が詳しい。共に子規が亡くなって二ケ月後に刊行された『子規言行録』に収められている。
絶筆三句の碧梧桐の描写は細大漏らさぬものである。十八日午前十時、いよいよ容体が悪いと聞いて碧梧桐がまず駆けつける。子規の言明で虚子も電話で呼び出されるが、まだ来ない。妹律は、墨をすって、仰向けで絵を書くために使ってきた画板を用意し、細筆に充分墨を含ませて子規に渡すと、子規が左手で画板を持ち、上は律が持って次の三句を書いた。
をととひのへちまの水も取らざりき
糸瓜咲て痰のつまりし佛(ほとけ)かな
痰一斗糸瓜の水も間にあはず
まず中央に「糸瓜咲て」の句を書き出すが、「咲て」のところで墨がかすれたので、墨継ぎをして律が渡すと、「痰のつまりし」と書いて、また墨を継ぎ、「佛かな」と書いたところで、碧梧桐も絶筆を意識して衝撃を受ける。書き終わって筆を投げ捨てた子規は、痰が切れずに苦しむ。普段なら痰壷に自ら吐くのだが、それもできないほど息があがって、紙にこれを吐く。四、五分すると子規自身がまた画板を手繰り寄せ、「糸瓜咲て」の句の左に、「痰一斗」の句を書き出し、「水も」まで書いたところで、墨を継いで「間にあはず」と書きとめ、また投げるように筆を置いた。
さらに四、五分すると、三度画板を律に持たせたので、碧梧桐もどきどきしながら、子規に筆を渡す。いずれも子規は無言である。
右に「をととひの」の句を書き始めるが、最初「をふらひの」と見えたので、「ふ」の字の右に、「と」を書き加えた。もはや筆を操る力もそう残ってはいなかったのである。筆はやや右に流れて、今度も投げ捨てられ、寝床に少し墨が付いた。文字通り最後の力を振り絞った絶筆である。
つづく
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