より続く
日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ5)
2 反骨の人、加藤拓川
子規亡きあと、律が戸主となって正岡家を守っていたが、大正三年三月、叔父の加藤拓川の三男忠三郎が東京府立一中に入学が決まったのを機に、律の養子として正岡家を継いでもらうことにした。律は四十四歳、母八重は七十歳だった。拓川は八重の弟だから忠三郎は子規や律の従弟ということになる。
忠三郎は明治三十五年五月十八日に生まれた。外交官であった父の拓川は、ベルギーの特命全権公使に任じられ、産み月の妻ひさを東京に残して五月三日に横浜を出航した。その半月後に忠三郎は誕生したわけだ。
子規は七月二十七日付でベルギー公使館の拓川のもとへ、拓川が無事赴任地へ着いたことを喜ぶ手紙を書き、「副申」として忠三郎誕生の祝いを述べた。
令児御出生は五月十八日なりし故誰も皆今度ハ五十八(イソハチ)卜命名スべキ由いはれ候由 されど余り太鼓持めきてをかしき故御旧名を取りて忠三郎と御名づけありし由
雀 の 子 忠 三 郎 も 二 代 哉
戯作ニ御坐候
拓川は子供の命名などにはこだわらない人で、忠三郎の兄二人にも、十月九日に生まれた長男は十九郎、六月十日に生まれた次男には六十郎と名付けた。それで今度も五月十八日生まれで五十八と名付けるかと思ったと、子規は叔父をひやかしているのである。いわれてみれば確かに五十八は太鼓持ちめくので、妻ひさが拓川が船中にあるのをいいことにして、拓川の幼名を付けたのにちがいない。
余談めくが、忠三郎は俳句はやらないといっていたが、晩年ひそかに俳句をたしなみ、俳号は雀子、五十八のどちらかを使っていたという。
拓川(本名は恒忠)の父、大原観山は松山藩の藩儒で八重が長女、拓川は三男だった。観山の一族には英才の誉高い人が多く、拓川も幼い時から秀才だった。拓川は現在の東大法学部の前身、司法省法学校に学んだ。同級生には後に総理大臣になる原敬、日本新聞社を興す陸羯南、新聞記者で史論家として著名な福本日南などがいた。
拓川は晩婚で、駐仏公使館から外務省に戻り、外務省大臣官房秘書課長を務めていた三十九歳の時、山形県士族、樫村清徳医博の長女ひさと結婚した。ひさは十八歳下の二十一歳だった。
拓川は外務省きっての俊才で、末は外務大臣といわれていながら、明治四十年五月、初代の韓国統監伊藤博文、林外相らと韓国問題で意見が合わず、あっさり職を辞してしまった。ひさの妹たまの聟、石井菊次郎も後に外務大臣になっているから、もし拓川が伊藤らに逆らわず外務省に留まっておれば、外務大臣になれたかもしれない。そうなれば樫村家の娘婿二人が外務大臣になるという珍しいケースが生まれた筈だが、出世など意に介しない拓川の気性からいっても、それは有り得ないことであった。
さて、前に述べたように忠三郎には兄が二人いた。どちらも拓川ゆずりの秀才で共に私立暁星中学校から一高に進むが、不幸にして二人とも若くして他界した。末弟の忠三郎もよくでき、府立一中から仙台の二高理科に進んだ。
中学校にはいった時から忠三郎は根岸の子規庵で生活していたが、外交官で海外での生活の長かった実家の加藤家と正岡家では、生活様式が違うのも無理はなかった。弘化二年生まれで八十歳近い養祖母八重と、明治三年生まれで五十歳近い養母律に囲まれて、中学生の忠三郎が、毎日窮屈な思いをしていたことは想像にかたくない。
それで忠三郎は四年修了でさっさと東京を去り、仙台の二高へ行ったのではないかと思える。もちろん一高を受験しておれば、兄二人と同じように一高生になれていたに違いない。二高で忠三郎は後に詩人となる冨永太郎や、マルキシズムの活動家になる西沢隆二(ぬやま・ひろし)らが友人だった。後に冨永を通じて詩人の中原中也と知り合い親しくなった。
二高では青春を謳歌しすぎて留年もした。しかしそれでも東大にはいるのは、さほど難しくなかったのに、忠三郎は東京を通り越して京大に進んだ。京大の方が当時ははいり易いというせいもあったが、やはり八重や律のいる東京を敬遠したい気もあったであろう。
忠三郎の父拓川は外務省を辞したあと、衆議院議員を一期務め、その後勅選の貴族院議員になった。その間に関西に移り、大阪新報社長を六年近く務め、退社後は郷党に推されて松山市長になった。しかし在任中の大正十二年三月、名声を惜しまれながら六十五歳で食道癌のため没した。墓は市内の相向寺にあり、墓碑には「拓川居士骨」とのみ彫られている。本来なら「墓」とすべきところを「骨」としたのは、明治から大正へと型破りに生き抜いた拓川の最後の反骨ぶりだった。
境内には「散策集」から採った子規の
真 宗 の 伽 藍 い か め し 稲 の 花
という句碑が叔父の菩提を弔うかのように建てられている。
つづく
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