より続く
井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ8)
終章 遺産が生む新たな遺産
秋山の告別
子規が亡くなった時、旧友秋山真之は横須賀の海軍大学校にいた。この年の正月には日英同盟が締結され、一年半後に起こる日露戦争を意識しながら、艦隊参謀の養成に務めていた。アメリカ留学で海軍戦略の世界的権威マハンに学んだ成果を生かしながら、兵学研究に余念のない日々だった。
子規は、五年前の明治三十年六月、アメリカ留学の前に、送別の句を送っている。死の病に臥す子規と、洋行して日本の海軍戦術の屋台骨を背負おうとする秋山には、明暗がはっきりある。子規の送別の句は、その「暗」を隠すことがなかった。
君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く 子規
夏の子規の病床は、蚊帳の中に筆も墨も尿瓶も同居する、押し込められたものだった。蚊帳は、しばしば江戸時代の幽霊画に登場する。その蚊帳を使って寝たきりの自分を、半ば幽霊に等しいと自ら描いてみせる子規には、俳人の業を感じないわけにいかないが、洋行をしたくてたまらなかった子規の涙は嘘ではない。
それでも、子規一流の意気軒高なところは失わず、虚子は、
さて「秋山は早晩何かやるわい」という事は子規君の深く信じて居られた事で、大きく言えば天下の英雄は吾子と余のみ、といったような心地もほの見えて居った。
(「正岡子規と秋山参謀」「ホトトギス」明治三十八年七月号)
と証言していて、この古い友人の活躍を信じ、自分も負けまいとする気分でいた、という。秋山も帰朝してから子規を訪ねている。
子規の葬儀は、予想外に人が集まった。死の二ケ月後に刊行された『子規言行録』では、出版の経緯に触れ、版元の吉川半七(吉川弘文館の初代)が、子規は立志伝中の人であると同僚の古島一雄に言って、この追悼文集の出版を勧めた、という(『子規言行録』「緒言」)。新聞『日本』に連載された子規の闘病日誌が、子規を有名にしていたのである。
棺が家を出て間もなく、「袴を裾短に穿いて大きなステッキを握」った秋山は、「スタスタ徒歩して来られて路傍に立ちどまって棺に一礼」した。それから棺は田端の大龍寺に行ってしまったが、虚子が後で聞いたところでは、秋山は正岡の家へ行って焼香をして帰った、という(「正岡子規と秋山参謀」)。死が身近にある軍人らしい、淡泊な別れである。
秋山はかつて子規と競った文章の才で、日本海海戦当日、「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と実に簡明な表現で、これから臨む状況を描いてみせた。秋山は、自身まとめた『海軍戦務』の中で、最少の言葉で的確な意思伝達をすべきという項目をわざわざ挙げているほどで、こういう表現への志向は、子規が俳句とは簡にして強い表現にあるのだ、としたのと不思議に符合する。
漱石の後悔
その四年後、漱石は小説家としての名声を得ていた。明治三十六年、ロンドンから帰った漱石は、東京帝国大学の英文学の教授となるが、講義も上手くいかず、神経衰弱となって、妻鏡子とも二ケ月別居している。明治三十七年の暮、気晴らしの意味もあって、虚子の勧めで「猫」という文章を書き、『ホトトギス』の写生文会「山会」で自らこれを朗読して、ようやく笑うことができた。翌年正月、『ホトトギス』に読み切りとして掲載されて好評を博し、連載されることで『ホトトギス』は部数を伸ばした。これが小説家漱石の処女作『吾輩は猫である』である。翌明治三十九年十月、単行本化する『吾輩は猫である』の中編序文で、漱石は子規を思い出して、こう書き出す。
そこで序をかくときに不図思ひ出した事がある。・・・・・
漱石は手紙を寄こしてほしいと乞うてきた子規に、結局答えてやらなかった。先に紹介した、子規の最後の手紙を全文掲載した後、子規の筆力は瀕死の病人とは思えない程しっかりしており、この手紙を読むたびに、「何だか故人に対して済まぬ事をしたやうな気がする」と悔やんでいる。
「忙がしいから許してくれ玉へと云う余の返事には少々の」言訳が潜んでいて、子規は自分からの手紙を待ち暮らしながら、その甲斐もなく息を引き取ってしまった、と繰り返す。漱石の筆は一転笑いに転じ、柿崎正治ら留学組がドイツで活躍しているのに、漱石はロンドンの田舎に引きこもっている、と悪口を書いたりする(『墨汁一滴』)子規を、「にくい男」だと言いつつ、そういう強気の子規が、「書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉へ」などと書いてくると、とても可哀そうだ。それなのに自分は、子規に対して、彼のつらさを晴らしてやらないうちに、「とうとう彼を殺して仕舞った」とまで懺悔する。
つづく
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