2020年12月17日木曜日

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ2)「子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云ふか知らぬ。或は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作品である。有名になつた事が左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ。季子(きし)は剣を墓にかけて、故人の意に酬いたと云ふから、余も亦「猫」を碣頭に献じて、往日の気の毒を五年後の今日晴さうと思ふ。」(『吾輩は猫である』(中篇)序文;明治39年11月)   

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ1)「一月二十二日火 ほとゝぎす届く子規尚生きてあり 」(漱石の日記;明治34年1月22日)

より続く

日下徳一『子規断章 漱石と虚子』(晩年の子規に関するメモ)(メモ2)

5 季子の剣

子規は明治三十四年十一月六日の夜、久しぶりに漱石に手紙をしたためた。・・・・・


(略;僕ハモーダメニナツテシマツタ、・・・・・)


これが全文だが最後に「倫敦ノ」と書くべき所を、「倫敦ニテ」と書くほど子規も混乱していた。

内容は受け取った漱石も辛くて読めないほど悲痛なものだが、それでも間に焼芋や鰹節や年尾の名付親になった話なども入れて、子規らしい諧謔さも見せている。終わりの《書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉へ》は遺書かと思えるほど痛々しい。そして事実、これが子規が漱石のために筆を執る最後の手紙となったのである。

漱石もここまで頼まれたのだから、あと一篇「倫敦消息」を書けばよかったのに、忙しさにかまけてそのままにしている内に子規は死んでしまった。

漱石がこれに遅ればせながら応えるのは、明治三十九年十一月、大倉書店から『吾輩は猫である』中篇を上梓した時であった。それに序文を付けるよう頼まれた漱石は、ふと思い出して大切にしまっておいた子規の最後の手紙を取り出して読んでみた。そして異例のことだが、序文にはその手紙をそのまま掲載することにしその後に、


・・・・・余は此手紙を見る度に何だか故人に対して済まぬ事をしたやうな気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉へとある文句は露佯(つゆいつわ)りのない所だが、書きたい事は書きたいが、忙がしいから許してくれ玉へと云ふ余の返事には少々の遁辞が這入って居る。憐れなる子規は余が通信を待ち暮らしつゝ、待ち暮らした甲斐もなく呼吸を引き取つたのである。

(略)


と書いた。もちろん四年も前に死んでしまった子規にこれを届ける術はない。しかし漱石は今頃になって、『吾輩は猫である』を書いたことが、子規に対する返事だったと思うようになった。


子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云ふか知らぬ。或は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作品である。有名になつた事が左程の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好かも知れぬ。季子(きし)は剣を墓にかけて、故人の意に酬いたと云ふから、余も亦「猫」を碣頭に献じて、往日の気の毒を五年後の今日晴さうと思ふ。


と中国の『史記』に出てくる季子の故事を引き合いに出す。季子は呉王寿夢の子で信義に厚かった。ある時延陵の地に封じられた季子は徐の国を通った。その時、徐君が自分の佩(は)いている剣を欲しがっていることを知ったが、任に赴く途中なので帰途に贈ろうと思って徐の国を後にした。しかし任終えて立ち寄った時、すでに徐君は崩じた後であった。季子はその剣を徐君の墓に挂(か)けて帰った。

このことから「季子剣を挂く」は信義を重んじる譬(たとえ)に使われている。漱石はこの故事が気に入っていたようで、明治三十年四月、「子規に送りたる句稿、その二十四」にもすでに、


春寒し墓に懸けたる季子の剣


と詠んでいる。


子規の墓 - 棒杭を周ること三度


1 「欧州より来状」


子規が漱石に《僕ハモーダメニナツテシマック、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ》という最後の手紙を書いたのは、明治三十四年十一月六日の夜であった。これがロンドンの漱石の許に届いたのは、当時の郵便事情から考えると、その年の暮れか翌年の初めである。

なぜこうした些細なことに拘るかといえば、漱石が同年十二月十八日に出した手紙を、子規の手紙の返事だと思っている人がかなり多いからだ。たとえば、岩波文庫の『漱石・子規往復書簡集』でも、これは子規最後の漱石宛書簡に応えたものだとしているし、江藤淳の『漱石とその時代』でも、


(略)


とこれを子規の手紙に対する返事だとしている。

ところで、この漱石が十二月十八日に出した手紙は明治三十五年一月の終わりか、二月の初めに子規の許に届いたようで、きっそく以前の「倫敦消息」と同じように二月十日発行の「ホトトギス」(第五巻第五号)に掲載された。目次には「欧州より来状」となっていて、同じ頃届いたパリの中村不折の「巴里より」と漱石の「倫敦より」の二篇が掲載されている。

当時の「ホトトギス」を見ても内容は現在の『漱石全集』に収録されているのと全く同じで、文中に二か所(前略)(中略)とあるのも変わっていない。おそらくこれらは子規に対する個人的なことで編集者がカットしたものであろう。

さて肝心な漱石の手紙の内容はハイドパークの大道演説から始まって、セント・ジェームス・ホールへ日本の柔道使いと西洋の相撲取りの勝負を見物に行ったことなどを《軽い調子》(『漱石とその時代』)で面白く述べている。また、その年の七月、五度目の下宿に移ったことも報告する。


(略)


これはまさしく、漱石が子規の無聊を慰めるため筆にした八か月ぶりの手紙であった。もちろん子規のあの悲痛な手紙を受け取る前で、漱石も「倫敦消息」の続篇のようなつもりで面白おかしく書いたのにちがいない。

さらに漱石は興に乗ったのか、ロンドン留学中漢詩は一首も作らなかったのに、ここでは漢詩調で昼なお暗い霧の町ロンドンの風景にふれ、空腹になったのでこれで止めると子規に諧謔を弄して伝える。そして《此美しき数句を千金の掉尾》とすると得意満面だ。

もしこれを江藤淳がいうように、子規の手紙を受け取った直後に《時を移さず》(同前)書いたものであれば、いくら漱石でもこんな暢気な文面にはしなかったであろう。このように、内容から察しても、また先に述べたようにロンドンまでの郵便の所要日数から考えても、これが子規の最後の手紙に対する返事とは到底思えない。それをどうして、岩波文庫の編者や江藤淳が勘違いしたのか不思議でならないが、いずれにせよ、これが漱石が子規に宛でた最後の手紙であることにかわりはない。


つづく



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