2020年12月13日日曜日

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ7)「碧梧桐は、四、五日は持つという医師の言葉を信じて一旦帰っていた。その碧梧桐に知らせに行くべく、外に出て根岸の空を見上げた虚子の眼には、旧暦で言えば十月仲秋十七日の夜の月が、煌々と空を照らしていた。満月から二日遅れではあるが、「一点の翳も無く恐ろしき許りに明か」だった、という。 子規逝くや十七日の月明に  虚子」    

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ6)「子規にとって絵は、天然の色に魅せられ、それをわが物にしていく楽しみがあり、それが生きる事そのものとなっていた。もはや最晩年には肘をついて俯きになることもかなわず、仰向きで引力と戦いながら、わずかな麻酔薬の効いている間に、律儀に描き続けられていったのである。子規は、特に生命力を感じさせる「赤」が昔から好きだったが、その鮮やかな生命力の再現と伝達こそ、詩人として子規の一生を貫くものだったとも言えよう。」

より続く

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ7)

愚なる糸瓜に託して

死にゆく自己を「佛」と突き放す最初の句は、鄙(ひな)びてはいるが明るい糸瓜の花の餞(はなむけ)によって、自ら死化粧する感も漂う。ただし、虚子の証言によれば、九月十四日朝、十本ほどの糸瓜が皆痩せて棚の上まで届かず、花は二、三輪であった、という(「九月十四日の朝」)。

喉に効くとされた九月十六日(旧暦では仲秋の名月の日、八月十五日に当たる)の糸瓜の水が取れるまでには至らなかった。二句目も、自身の病の苦しみを「痰一斗」と誇大に可視化しつつ、そこに剽軽な形状の「糸瓜」をさかせる点、笑いがある。三句目はこれを受けて、糸瓜の水は「をととひの」旧暦十五日に薬効があるとされるが、それさえも取れず、旧暦の八月十七日(新暦九月十八日)を迎えてこの句を作った、ということになる。

「も」は「さえも」の意味にとってこそ、生への執着を言い表すことになるか。そうとることで、「取らざりき」の言い切りからは、対照的な「これで終わりだ」という強い主観も響いてくる。

「糸瓜」へのこだわりは、「愚」を連想させるその実の形状と、花の鄙びた美しきから考えて、子規の境地を考慮することも可能だろう。漱石が子規の東菊の絵を見て、子規晩年の境地が「拙」であったと見抜いたことと符牒が合う。

さらに言えば、この三句で大事なことは、子規自身が言葉の「おくりびと」となって、俳句らしい客観と滑稽を以て示してくれた、死そのものへの確かな、しかし優しい「まなざし」なのだ、と思えてならない。

子規は喀血の当初から、自分の病を客観的に、時には笑いのニュアンスさえ込めて描いてきた。それには子規一流の強がりもあるだろう。しかし、視野を広く持てば、こうも反問することができる。

現代に深刻な病を笑ってみせることはまずない。むしろ、笑いにしてはいけない雰囲気が強い。ところが、子規の時代、いや子規は、この人生の一大事を、なぜかくも明るく笑ってみせることができたのだろうか。

近代は、人間を神に近い存在まで引き上げて、理性を求め、人権を確立した。したがって、その命は唯一無二のかけがえのないものとなる。しかし、子規の「腹」の中にあった、江戸の感覚はそうではない。

彼らにとって、人は鳥や虫と変わりない生き物に過ぎないから、そこに多少のふぞろいがあるのは当然で、お互いを理想的な、あるいは守られるべき、かけがえのないものなどと見なす感覚はなかった。世界に一つだけのかけがえのない自分などなく、「お互い様」の感覚で卑近な自分たちを笑うことも許されたのである。いやその「笑い」こそが、生命の賛歌にも転じ、共に生きる希望の根源にもなったのであろう。

月明の臨終

遅れてやってきた虚子の証言によれば、子規は午後五時目覚めるも、苦しむので最後のモルヒネを飲ませてもらう。やがて宮本医師が注射を打って昏睡する。午後八時に再び目覚め水を飲む。「だれだれが来て居でるのぞな」と聞いて、律が「寒川(鼠骨-引用者注)さんに清(虚子 - 引用者注)さんにお静さん」と答えた後、また眠りに落ちた。

子規の昏睡は続き、母八重と律は蚊帳を吊った。子規は「うーんうーん」と唸るばかりである。明けて十九日未明、律が眼を覚まして八重を呼び起こし、子規の額に手を当てて、「のぽさん、のぽさん」と連呼するが、既に子規の手は冷たくなっていた。午前一時のことである。

碧梧桐は、四、五日は持つという医師の言葉を信じて一旦帰っていた。その碧梧桐に知らせに行くべく、外に出て根岸の空を見上げた虚子の眼には、旧暦で言えば十月仲秋十七日の夜の月が、煌々と空を照らしていた。満月から二日遅れではあるが、「一点の翳(かげり)も無く恐ろしき許(ばか)りに明か」だった、という。


子規逝くや十七日の月明に  虚子


つづく




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