2020年12月10日木曜日

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ5)「二十一世紀初頭の今日、日本神話を主題に大画面に「理想」を描いた明治の「日本画」の主流よりも、省亭の花鳥画の方が、遥かに「生きた」絵として評価されていることから推して、最晩年の子規が病床で見通していた、日本の文化・芸術の将来像は、かなり透徹したものだったと言っていいのかも知れない。」    

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ4)「子規のように、多才で戦略家で負けず嫌いの男が、死を前に愚直の境地に至ったことを確信した漱石は、俳友らしく余裕を持って笑うとともに、感服もした。.....子規の絵に萌した「拙」は、ひとり絵に留まらず、彼の文学・芸術に対する結論になっていった。」

より続く

井上泰至『正岡子規-俳句あり則ち日本文学あり-』(明治34年以降)(メモ5)

写生の古典性と先見性 

端的に言えば、江戸中期の円山応挙によって、速写のスケッチが日本では生まれたが、まだ技法的には洋画の写生に比べ、彩色や光と影の描き方の点で劣っており、空想的な歴史画を描くよりも、一見愚直な写生画の方が、将来性があると見ていた。この見取り図のもとに、前章でも引いた「写生」論があったのである。


之(理想画 - 引用者注)に反して写生といふ事は、天然を写すのであるから、天然の趣味が変化して居るだけ其れだけ、写生文写生画の趣味も変化し得るのである。写生の作を見ると、一寸浅薄のやうに見えても、深く味へば味はふ程変化が多く趣味が深い。写生の弊害を言へば、勿論いろいろの弊害もあるであらうけれど、今日実際に当てはめて見ても、理想の弊害ほど甚だしくないやうに思ふ。理想といふやつは一呼吸に屋根の上に飛び上らうとして却つて池の中に落ち込むやうな事が多い。写生は平淡である代りに、さる仕損ひは無いのである。さうして平淡の中に至味を寓するものに至つては、その妙実に言ふ可からざるものがある。(『病牀六尺』六月二十六日)


法政大学図書館に残る子規の旧蔵書の中には、当時日本画の中で、飛び抜けて写生に成功し、その卓越した技術と品格のある花鳥画で、欧米から高く評価されていた渡辺省亭の編になる雑誌『美術世界』が確認できる。この雑誌こそは、理想画を主軸に訴えてゆく、岡倉天心らが主導する雑誌『国華』に対抗すべく、江戸以来の技芸を新しい雑誌メディアで試みるものだった。省亭は後に、虚子や鳴雪と俳句をたしなんだらしく、彼の葬儀はこの二人の俳人によって執り行われ、省亭の息子水巴は、虚子門下の俳人として羽ばたいてゆく。

二十一世紀初頭の今日、日本神話を主題に大画面に「理想」を描いた明治の「日本画」の主流よりも、省亭の花鳥画の方が、遥かに「生きた」絵として評価されていることから推して、最晩年の子規が病床で見通していた、日本の文化・芸術の将来像は、かなり透徹したものだったと言っていいのかも知れない。

この他にも『病牀六尺』には、絵画に関する記事が目立つ。特に応挙以降の四条派、渡辺南岳・上田公長、それに近い河村文鳳らを省略の観点から評価していた。


(略)


子規の日本画評価は、省略の利いた軽妙な写生に光を当てることで、ウィリアム・アンダーソンが取り上げなかった画家に焦点を当てた点が、新生面であった。

晩年の絵と俳句

なお、この軽妙で省略の利いた写生については、子規の俳句に通じる。子規の色を詠んだ句は習作の段階では、こなれない形の、色と色を意識的に対比した句が多く見出せるが、明治二十九年あたりから、子規らしい視覚を主題にした句が現れ始めることは既に述べた。明治三十五年の次の句などは、眼前の果物をどう描こうかと絵の具を選ぶ、画家の視線そのものと言っていい。


黒キマデニ紫深キ葡萄カナ


子規句の特徴に、視覚が前景化した、絵のような印象明瞭な句が多いとはよく言われることである。ただし、言語芸術である俳句は視覚の表現力に関して言えば、当然絵に劣る。自身絵筆をとった子規は、むしろ、俳句では、色を暗示して言表しないことで、逆に視覚の記憶を刺激する方法を意図的にやっていたようだ。


朝兒(あさがお)ヤ絵ノ具ニジンデ絵ヲナサズ


明治三十四年のこの句は、朝顔一輪を描いた周囲に書きつけられた四句のうちの一つである (口絵4頁参照)。絵の具のにじむのに苦心する様を詠むことで、逆に朝顔の色の健気な美しさが浮かんでくる。漱石のいう子規の俳句の省略は、絵を愚直に描くことで改めて確認できたことだろう。


つづく






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