2022年9月1日木曜日

〈藤原定家の時代105〉治承4(1180)年11月5日~17日 「去ル夜、維盛少将坂東ヨリ逃ゲ帰リ、六波羅ニ入ルト云々。客主ノ貌、已ニ相若カズ。況ンヤ亦疲足ノ兵、新騎ノ馬ニ当リ難シト云々。入道相国、猶以テ逆鱗卜云々」(「明月記」) 福原からの還都内定 侍所を置く(別当和田義盛)         

 


〈藤原定家の時代104〉治承4(1180)年11月4日~8日 頼朝の佐竹氏(常陸)追討 金砂城合戦 より続く

治承4(1180)年

11月5日

・東国追討使平維盛ら、近江勢多到着。平維盛、清盛へ合戦報告の使者派遣。

平知度20余騎・平維盛10騎、入京(園城寺大衆が近江路を阻み、伊勢路をとる)。

平宗盛、還都を主張し平清盛と口論。平時忠も主張。

追討使を承るの日、命を君に奉り了ぬ。縦へ骸を敵軍に曝すと雖も、豈恥たらんや。未だ追討使を承るの勇士、徒らに帰路に赴く事を聞かず。若し京洛に入りて誰人に眼を合わすぺけんや。不覚の恥、家に胎(のこ)し、尾籠の名、世に留めんか。早く路より趾(あと)を暗ますべきなり。更に京に入るべからず。

追討使になったものが負けておめおめと帰ってくるのか、「不覚の恥」「尾籠の名」を家に残したこの屈辱を知らんのか、という清盛の激怒も届かず、維盛はひそかに検非違使の藤原忠綱の宅に寄宿し、平知度は八条邸に入っている。

「伝聞、前の将軍宗盛、遷都有るべきの由、禅門に示すと。承引せざるの間、口論に及ぶ。人以て耳を驚かすと。また伝聞、追討使等、今日晩景に及び入京す。知度先ず入る。僅か二十余騎。維盛追って入る。また十騎を過ぎずと。・・・明暁十九日寄せ攻むべきの支度なり。而るの間、官軍の勢を計るの処、彼是相並び四千余騎、平常の陣議定めを作しすでにをはんぬ。各々休息の間、官兵方数百騎、忽ち以て降落し、敵軍の城に向かいをはんぬ。拘留に力無く、残る所の勢、僅か一二千騎に及ばず。武田方四万騎と。敵対に及ぶべからざるに依って、竊に以て引退す。これ則ち忠清の謀略なり。維盛に於いては、敢えて引退すべきの心無しと。而るに忠清次第の理を立て再三教訓す。士卒の輩多く以てこれに同ず。仍って黙止すること能わず。京洛に赴くより以来、軍兵の気力、併しながら以て衰損し、適々残る所の輩過半逐電す。凡そ事の次第直なる事に非ずと。今日勢多に着き、先ず使者(馬の允満孝)を以て子細を禅門に示す。禅門大いに怒りて云く、・・・更に入京すべからずと。然れども竊に入洛し、検非違使忠綱の宅に寄宿すと。知度に於いては、先ず以て入洛し、禅門の八條の家に在りと。大略伝説を以てこれを記す。定めて遺漏有るか。但しこれ軍陣に供奉するの輩の説なり。」(「玉葉」同日条)。

「七日。天晴ル。去ル夜、維盛少将坂東ヨリ逃ゲ帰リ、六波羅ニ入ルト云々。客主ノ貌、已ニ相若カズ。況ンヤ亦疲足ノ兵、新騎ノ馬ニ当り難シト云々。入道相国(清盛)、猶以テ逆鱗卜云々。」(「明月記」7日)。定家は維盛に同情を示している。

〈五節之沙汰(ごせつのさた、「平家物語」巻5)〉:

8日、維盛、福原到着。清盛は、維盛を鬼界ヶ島へ流し、忠清を死刑にせよと言うが、結局、維盛は右近衛中将になる。11月13日、天皇が福原に移る、この年大嘗会は行われず、新嘗会と五節だけ行われる。

11月7日

・朝廷、再度宣旨を出し、源頼朝・武田信義らを追討させる。

11月8日

・亮子前斎宮、摂津貴志庄に下向。

「十一月八日。前斎宮、今暁摂津国貴志ノ庄ニ下向シ給フト云々。姫宮同ジク具シ奉ラル。法眼栄全行事。去ル夜、迎へノ車ヲ遣ス。健御前、此ノ亭ニ渡ラル。此ノ両人共ニ不快。漁夫ノ誨ニ従ハザルノ致ス所ナリ。」(「明月記」)。

(亮子前斎宮は、法眼栄全の経営で、摂津の貴志の庄に、以仁王の姫宮と共に下向。俊成は車を送って、健御前を自邸に迎える。栄全と健御前は、日頃から仲が悪かったので、遠い借住居の同居を避けた。健御前は、同僚の女房ともうまく行かないことがあった。)。

11月10日

・頼朝、「武蔵の国丸子庄を以て葛西の三郎清重に賜う。今夜彼の宅に御止宿。」(「吾妻鏡」同日条)。

□「現代語訳吾妻鏡」。

「十日、戊午。武蔵国丸子庄を葛西三郎清重に賜り、今夜清重の宅にお泊まりになった。清重は妻女に頼朝の御膳を備えさせた。ただし清重はそのことを申さず、お気に召していただこうと他所から若い女を招いたと申し上げたという。」。

11月10日

・『平家物語』は、この日、維盛が右近衛少将から中将に昇任し、人びとが「これは何事の勧賞(けんじょう)ぞや」と陰口をいいあったとある(巻五「五節之沙汰」)が、実際の昇任は翌年6月10日なので、これは人びとの非難を集めることで、維盛の軍事的無能ぶりを印象づける物語の作為である。

11月11日

・安徳天皇、福原新内裏に行幸。

11月12日

・頼朝、論功行賞。

11月13日

・旧都への還都を決定。20日、正式発表。

都生まれの宗盛以下の平氏一門や貴族たちは、福原から京都に戻ることを熱望しており、わずかに還都に反対したのは時忠だけだったという。

「伝聞、還都、来二十六日御出門、来月二日御入洛有るべきの由仰せらる。延暦寺衆徒大悦し、種々の御祈り等を始むと。或る人云く、東乱近江の国に及ぶと。」(「玉葉」同19日条)。

11月13日

・藤原定家(19)伯母九条三品(俊子、85)、没。

11月14日

・この日、兼実が福原に下ろうとしたところ、遷都のことが一定した、との噂を聞きしばらく様子を見ていたが、夜になって人づてに、決定はしたがその日取りは未定である、と聞き、明暁出立することにした。翌朝辰刻(午前8時頃)息子の良通と出京し、巳刻(午前10時頃)船に乗り10余町ほど下ったところへ福原からの飛脚が来て、下向は見合すように、子細は迫って申すべし、という清盛の命に京へ引返す。

11月14日

・土肥次郎實平、武蔵国内の寺社に向かう。諸人の乱入狼藉停止の下知する(「吾妻鏡」同日条)。 

11月17日

・在京して洛中警固の一端を勤めてきた美濃源氏までもが反乱に加わる。

11月17日

・福原、この日の丑の日、帳台(ちようだい)の試(こころみ)の儀、翌18日淵酔(えんすい、酒宴)、19日童(わらわ)御覧、遊宴に明け暮れる。中山忠親は、さすがに「東国乱逆を憚らざるか」、と記して非難。

11月17日

・頼朝、佐竹討伐より帰還。侍所を置き和田義盛を別当とする。続々と帰属し家人に加わった在地武士たちを統率するため。侍所の設置により家人の統制は組織化され、東国武士たちは、所領支配の権利を保証される。

このころから頼朝は、東国の武士団に対し、主君としての地位を主張し、かれらを家人として処遇する方向へ進もうと考えたのではないだろうか。もちろん、直属の軍事力をもたぬ頼朝にとって、軍事力を提供した源氏一族や豪族的な東国の武士の処遇は大きな問題であった。侍所を設置したからといって、巨大な軍事力をもつかれらを自由に駆使しえるわけではない。

「伝聞、美濃の源氏等、皆悉く凶族等に與力し、美濃・尾張両国併せて伐り取りをはんぬと。また聞く、熊野権の別当湛増、その息僧を進せしむ。仍って宥免有りと。また鎮西の賊(菊池権の守)、指せる故無く恩免すと。関東これ等の子細を聞かば、いよいよ武勇の柔弱を察すか。」(「玉葉」同日条)。


つづく


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