元暦2/文治元(1185)年
11月9日
・義経らが淡路に渡ったとの風聞。
11月10日
・「鎌倉に還御するの処、左典厩申されて云く、只今都人の伝言に云く、義経反逆の間、追討の宣旨を下さるべきや否やの事、左右内府並びに師納言経房等に仰せ合わさるるの処、右府の意見、首尾殊に理を尽くさる。皆これ豈関東引級の詞なり。内府は是非分明の儀を申されず。左府は早く宣下せらるべきの由申し切らる。師納言は再三これを傾け申すと。また刑部卿頼経・右馬権の頭業忠等は、その志偏に豫州の腹心に有り。廷尉知康同前の由と。」(「吾妻鏡」同日条)。
11月10日
・「夜に入り範季来たり。・・・又云く、頼朝追討の宣旨を下さるるの間、余の申し状、道理を存すの由、世人謳歌すと。」(「玉葉」同日条)。
11月11日
・後白河法皇、太宰権帥藤原経房の奉じる源義経・行家追討の院宣を発する。
兼実は、「世間の転変、朝務の軽忽」を嘆き、朝令暮改ぶりを「指弾すべし」と批判(「吾妻鏡」12日条)。
『玉葉』と『吾妻鏡』では、前者が11月12日、後者が11月11日と、日付に1日のずれがあるが、ともに吉田経房が奉じた同文の院宣が掲げられている。なお、その宛所は、『吾妻鏡』では「其国守殿」とあるが、『玉葉』では「和泉守殿」である。『吾妻鏡』が院宣の内容を伝えるための掲載にすぎないのに対し、『玉葉』は具体的に兼実の知行国である和泉国に出された院宣が掲載されている。
『玉葉』では、後白河の朝令暮改ぶりを、「弾指すべし」と非難しているが(12日条)、『吾妻鏡』では、こうした院宣が出された背景が記されている。それによると、後白河の考えでは、義経等の申請に任せて頼朝追討宣旨を出し、関東には追って事情を説明しようという心積もりであったが、頼朝の怒りが激しく、日頃の思惑に相違したためであるという(11日条)。
義経・行家にとっては、自分達に対するこうした院宣が出されたことは、その時点で国家の反逆者になってしまったのであり、義経の潜伏・流浪そのものが反逆行為となってしまった。
「義経等反逆の事、申請に任せ宣下せられをはんぬ。・・・院宣を畿内近国の国司等に下さると。その状に云く、院宣を被りて称く、源義経・同行家、反逆を巧み西海に赴くの間、去る六日、大物浜に於いて忽ち逆風に逢うと。漂没の由風聞有りと雖も、亡命の條狐疑無きに非ず。早く有勢武勇の輩に仰せ、山林河沢の間を尋ね捜し、不日にその身を召し進せしむべし。当国の中、国領に至りては、この状に任せ遵行せしめ、庄園に於いては、本所に触れ沙汰を致す事、これ厳密なり。曽て懈緩すること勿れ。てえれば、院宣此の如し。これを悉せ。謹状。十一月十一日 太宰権の師[経房(奉る)] その国守殿」(「吾妻鏡」同日条)。
「昨日ハ頼朝ヲ討ツベキノ院宣ヲ蒙(かうむ)り、今日ハ又此ノ院宣こ預ル。世間ノ転変、朝務ノ軽忽(きやうこつ)、コレラ以テ察スベシ。弾指(だんし)スベシ。弾指スベシ。」(『玉葉』11月12日条)
「同(おなじき)十一月七日(なぬかのひ)、鎌倉の源二位頼朝卿(げんにゐよりとものきやう)の代官として、北条四郎時政、六万余騎を相具して都へ入る。伊予守源義経(いよのかみみなもとのよしつね)、備前守(ぴせんのかみ)同行家(ゆきいへ)・信太三郎先生(しだのさぶちうせんじゃう)同義憲(よしのり)追討(ついたう)すべきよし奏聞しければ、やがて院宣をくだされけり。去(さんぬる)二日(ふつかのひ)は義経が申しうくる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし、庁(ちやう)の御下文(おんくだしぶみ)をなされ、同(おなじき)八日(やうかのひ)は頼朝卿の申状(まうしじやう)によツて、義経追討(ついたう)の院宣を下さる。朝(あした)にかはり夕(ゆふべ)に変ずる、世間(せけん)の不定(ふじやう)こそあはれなれ。」(『平家物語』巻第12「判官都落」)
11月12日
・頼朝、駿河以西の御家人に義経が京を落ちた事を伝え、上洛を延期したので揺るぎ無い様にと触れさせ、河越重頼の所領を没収(謀反人義経の縁者=義父ということで)。そのうち、伊勢の国の五ヵ郷は大井兵三次郎実春に与えられたが、その外のところは重頼の老母に預けられた。重頼は殺されるが、何時かは不明。下河辺政義は、重頼の聟ということで所領を没収されるが、のち、また召出される。
大江広元、「守護・地頭設置を建議」する。
「世上は乱れ、兇悪な者にとって絶好の機会となっている。天下に反逆者は絶えることがない。しかし、「東海道」(頼朝の支配する「東国」)の地は頼朝の居所(幕府)があるから平穏であるが、秩序を乱す動きは、必ずや他の地域で起きることだろう。それを鎮圧しようとするたびに関東の武士を派遣することは、人々にとって、そして国にとっての負担である。この機会(義経追討の機会)をとらえて、全国に規模を及ぼして国衙・荘園ごとに「守護地頭」を任命すれば、なにも恐れることはなくなるだろう。早く朝廷に申請をなさるべきである」と。
しかし、地頭制は、東国武士の「敵方占領地」に対する頼朝の権益追認行為があり、これが朝廷の没官刑制度と結びつきながら、複雑な政治史の展開と在地秩序の現実の中から生まれたもので、広元の献策によるものという理解は「幻想」であるとされている(川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』)。
西国で展開した幕府による平氏追討の戦いの中で、急速に形成されていった東国武士の荘公在地支配職権には、地頭職以外にも沙汰人職・下司職などの多様な名称が存在していた。この年(文治元年)、それら諸権益を「地頭職」の名に統一して全国一律の一般的職務に位置づけ、任免権を頼朝が掌握することが幕府より朝廷に提言され、承認を得ることとなった。
頼朝が朝廷に対して「守護・地頭」設置の申請をした時の『吾妻鏡』は、広元の他に三善康信・藤原俊兼・藤原邦通ら幕府文官層が「沙汰」に加わっとが記されており(文治元年12月6日条)、広元個人の業績とされているわけではない。
「今日、河越重頼の所領等収公せらる。これ義経の縁者たるに依ってなり。その内伊勢の国香取五箇郷、大井の兵三次郎實春これを賜う。その外の所は、重頼が老母これを預かる。また下河邊の四郎政義同じく所領等を召し放たる。重頼の聟たるが故なり。・・・凡そ今度の次第、関東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太だ恩食し煩うの処、因幡の前司廣元申して云く、世すでに澆季に属く。梟悪の者尤も秋を得るなり。天下反逆の輩有るの條、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依って静謐せしむと雖も、奸濫定めて地方に起こるか。これを相鎮めんが為、毎度東士を発遣せられば、人の煩いなり。国の費えなり。この次いでを以て、諸国の御沙汰に交わり、国衙・庄園毎に守護・地頭を補せられば、強ち怖れる所有るべからず。早く申請せしめ給うべしと。二品殊に甘心し、この儀を以て治定す。本末の相応、忠言の然らしむる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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