文治2(1186)年
10月1日
・秀衡が送った貢金450両が鎌倉に到着。3日後、頼朝が送る貢馬と共に京に送られる(「吾妻鏡」同日条)。
10月8日
・「文治元年の守護・地頭問題」が一つの決着をみる(謀叛人跡以外の地頭職停止)。地頭設置の範囲を縮小。太政官符、地頭は諸国謀反人の跡地だけを継承すると定める。地頭の干渉を停止。
「去る月八日の宣旨、同九日の院宣、去る比到来す。今日御請文を奉らる。大夫屬入道・筑後権の守等所談を加うと。これ平氏追捕の跡の地頭等、指せる謀反の跡に非ずを以て、課役を宛て行い、公官等を煩わすの旨、国司領家訴え申す所なり。現在謀叛人の跡の外は、停止せしむべきの由と。」(「吾妻鏡」11月24日条)
10月8日
・大江広元、平家没官領周防国大島荘地頭職を与えられる。右筆としての権威を高めた広元にふさわしい待遇。
また、『吾妻鏡』文治3年4月29日条にみえる文治3年3月30日付(実際には文治5五年のこと。書写誤りと『吾妻鏡』編纂時の切り貼りのミスによる)伊勢国公卿勅使駅家雑事(うまやぞうじ、天皇が伊勢神宮に遣わす公卿の通行・宿泊の費用)勤否(ごんぴ)注進状には、粟真(くりま)荘・窪田(くぼた)荘・遍法寺(へんぽうじ)領・慈悲山(じひさん)領・小倭田(おやまと)荘・永富名(ながとみみよう)・得永(とくなが))名・福延別(ふくのべべつ)名・石丸名といった九ヵ所の所領が、広元の所領として見える。その多くは平家没官領あるいは義経没官領であると判断できる。
このうち、小倭田荘は頼朝を本家とする荘園すなわち関東御領であり、広元が有した所職は預所(あずかりどころ)であった。
広元は、一文官官僚にとどまらず、多くの所領を有する有力御家人となりつつあった。
10月12日
・西行、平泉に到着。
「十月十二日、平泉にまかりつきたりけるに、雪ふり、嵐はげしく、ことの外に荒れたりけり。いつしか衣河見まほしくて、まかりむかひて見けり。河の岸に着きて、衣河の城しまはしたる、ことがらやうかはりて、ものを見るここちしけり。汀氷りてとりわきさびしければ とりわきて心もしみてさえぞ渡る衣河見にきたる今日しも」(「山家集」)。
「衣河の城」は、「吾妻鏡」で「衣河館」と呼ばれる藤原基成の居館指すが、そこは源義経が居を構えた場所(基成居館でなく、衣川中州にある「泉ケ城」を指すとの異論もあり)。詞書で「まかり向かいて」と謙譲語を使っているのをみると、基成なり義経が居ることが前提となっていると考えられる。鎌倉で頼朝と別れて2ヶ月後、西行は鎌倉の動勢や頼朝の考えを秀衡に伝え、のち、衣川の館の義経の許に向かったのではないか。
10月16日
・頼朝、雑色を上洛させて木工頭藤原範季が義経に同意したことについて強い抗議の意思表明。
18日、朝廷、藤原範季を審議。範季は2~3度堀景光に会うが同意したことはないと述べる。
11月1日、範季、木工頭と皇后宮亮を辞任。
「酉の刻参院せんと欲するの間、先ず左少弁定長御使として来たり。木工の頭範季朝臣罪科の間の事なり。頼朝卿の許より、件の朝臣義行に同意の聞こえ有り。奇怪の由、経房卿の許に示し送る。殊に奏聞の趣に非ずと雖も、事体黙止難し。仍って召し問わるるの処、義行に同意するの條に於いては無実たり。堀の彌太郎景光に於いては、一両度謁しをはんぬと。實隆その科無し。景光に謁しながら搦め進せざるの條、すでに過怠たり。仍って聊かその罪を行わるべきや。将又関東の申状を待ち、暫くその沙汰有るべからざるか如何。・・・聊かその科に行われ、関東に仰せ遣わさること尤も宜しいかてえり。」(「玉葉」同28日条)。
10月17日
・九条兼実(38)、右大臣を辞任。
10月22日
・藤原定家(25)、十七番歌合五首
10月23日
・頼朝と大進局との子、貞暁を育てていた江太景国は、政子の不興をかい、貞暁とともに深沢の里あたりに隠れ住む。
「長門の江太景国御台所の御気色を蒙る。これ御妾の若公(去る二月誕生)を扶持し奉る事顕露せしむに依ってなり。今日景国若公を抱き、深沢の辺に隠居すと。」(「吾妻鏡」同日条)
10月24日
・安達盛長、甘縄神明の修理を沙汰する(「吾妻鏡」同日条)。
10月29日
・九条良通、内大臣任官(「玉葉」)。
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