文治2(1186)年
11月2日
・藤原範季、義経の同意したとして木工頭(もくのかみ)と皇后宮亮(こうごうぐうのすけ)を解官される(『吾妻鏡』11月17日条)。
堀景光の自白によれば、景光は義経の使者として、藤原範李のもとを度々尋ねていたという(『吾妻鏡』9月29日条)。そこで、10月16日、範李が義経に同意していたことを抗議するための使者が鎌倉を発つ(『吾妻鏡』10月16日条)。範李は後白河近臣でありながら義経に同意したために、頼朝も抗議した。
これにより、範李を尋問したところ、義経には同意していない。景光には一・二度会ったことがあるとの答え。しかし、謀反人の家人である景光に会いながら、捕らえなかったことは過怠があるとして罪に問われることになった(『玉葉』10月28日条)。
なお、範李は幼少期の範頼を養育したらしく(『玉葉』元暦元年(1184)9月3日条)、範李の子息範資は、大物浦に向かう義経等を討とうと追っていた武士達の先頭に立った人物である(『玉葉』文治元年(1185)11月8日条)。
11月5日
・頼朝、中御門経房を通じて朝廷に奏状。義経がなかなか捕まらないのは、公卿や殿上人がみな鎌倉を憎み、京中の諸人が義経に同意・結構しているからであろう。特に範季が義経に同意していたことは憤っている。また、仁和寺宮(道法法親王(どうほうほっしんのう))さえ義経に同意していると聞く。子細を承りたいという書状を後白河に提出した。仁和寺宮に疑いが掛かったのは、大夫尉友実という者が義経の使者として摂津に向かったが、仁和寺に近い友実の居所は、官から借りていたからという理由である。なお、三善康信の提案で義行という名は「よく(隠れ)行く」ということだから、義経がなかなか見つからないのではないか。だから、もとの義経に戻すことを兼実に相談することにしたという(『吾妻鏡』11月5日条)
「豫州の事、猶師中納言に付けらる。その趣、義行今に出来せず。これ且つは公卿の侍臣皆悉く鎌倉を悪み、且つは京中の諸人同意結構の故に候。就中範季朝臣同意の事、憤り存じ候所なり。兼ねてまた仁和寺宮御同意の由承り及び候。子細何様の事やと。これ大夫の尉友實豫州の使いとして、京都を出て摂津の国に行き向かいをはんぬ。而るに彼の友實の居所屋、北條殿点定せられをはんぬ。これ御室の御近隣なり。則ち子細を触れ申せらるの処、反逆者の家に非ざるの由、一旦謝し仰せらるると雖も、この屋は御室より友實に借し給うの條露顕するの間、頗る御同心の疑い無きに非ず。仍ってこの儀に及ぶと。また大夫屬入道申して云く、義行はその訓能く行くなり。能く隠れるの儀なり。故に今にこれを獲ざるか。此の如き事尤も字訓を思うべし。同音を憚るべしと。これに依って猶義経たるべき由、摂政家に申せらると。」(「吾妻鏡」同日条)
11月9日
・緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲、義経都落ちの先導と「宇佐宮」攻撃事件により上野沼田荘に流罪。領地は没収され、豊後は鎌倉幕府の知行国(「関東御分国」)になる。
11月12日
・「若公鶴岡八幡宮に御参り。御輿を用いらる。小山の五郎宗政・同七郎朝光・千葉の平次常秀・三浦の平六義村・梶原の三郎景茂・同兵衛の尉景定等供奉す。還御、馬場の本仮屋於いて、大庭の平太景義駄餉を献ずと。」(「吾妻鏡」同日条)
11月16日
・頼朝書状には、事の進展がなければ、2、3万騎の武士を派遣して義経を捜索するとまであった。
「左少弁定長、院の御使として来たり。定長仰せて云く、頼朝卿申す旨此の如し・・・頼朝申状に云く、義行の事、南北二京・在々所々、多く彼の男に與力す。尤も不便なり。今に於いては、二三万騎の武士を差し進し、山々寺々、今に捜し求むべきなり。但し事定めて大事に及ぶか。仍って先ず公家の沙汰として、召し取らるべきなり。重ねての仰せに随い武士を差し上すべきなり。兼ねてまた仁和寺宮(後高野御室道法)、始終御芳心有るの由承る所なりと。この状に依って定長彼の宮に参る。」(「玉葉」同日条)
11月18日
・頼朝の奏請により、改めて義経追討の院宣。院の殿上で審議。宣旨により諸社・諸寺・京中・畿外諸国にも義経追討を命じ、義経の縁者を召し出し嫌疑の所々を捜査する。京中の在家の人数を把握し、寄宿の旅客の姓名を注進することも行われる。南都北嶺の長史や僧綱を召し、義経縁者を捜す様命じるなど、畿内周辺を中心に義経の大捜索始まる。
義経の潜伏・逃亡生活を支援したのは、比叡山・興福寺という当時の二大勢力を含む畿内近国の宗教関係者が中心。かれらが義経を支援したのは、義経が幼少期に鞍馬で稚児として過ごしたことが関係するだけでなく、やはり在京中の施策によるものであろう。そして、宗教関係者には朝廷や幕府の権力も及び難かったために、捕らえられずに潜伏・逃亡が出来たのであろうが、そこには、追っ手の先をいく確かな情報源の存在とともに、覚一本で「すゝどき」と表現された、義経の行動力や身体能力の高さも関係しているのであろう。
なお、伝説ばかりで実態が不明な弁慶だが、伝説の弁慶、つまり一般によく知られている義経に徹底的に献身する弁慶像は、こうした義経を支援したあまたの宗教関係者の集大成として、その象徴として形作られたものという。
11月25日
・源頼朝の奏請で、義経捜索を命じる宣旨、畿内・北陸道に下る。京中の捜査も継続(「玉葉」同日条)。
12月1日
・千葉常胤、下総より参上。安達盛長、その祝宴に参加(「吾妻鏡」同日条)。
12月3日
・強盗が太皇太后宮御所に侵入、大夫進仲賢以下男女が殺害される。
「十二日、庚辰、右武衛(一条)能保の消息到来す、当時京中に群盗所処に乱入し、尊卑之が為に魂を消さざるなし、就中、去年十二月三日、強盗、太皇太后宮(近衛后多子)に推参し、大夫進仲賢以下の男女を殺害して以来、大略隔夜此事有り、勇士等を差(つかは)して、殊に警衛し給ふべきの由、天気有りと云々、」(「吾妻鏡」文治3年(1187)8月12日条)。
12月10日
・天野遠景、鎮西九国奉行人となる(「吾妻鏡」同日条)。
12月15日
・後白河は兼実が摂政になってからも人事権を手放さなかった。そのため、兼実の主張した公卿の人数削減は進まず、兼実の摂政就任後、はじめておこなわれたこの日の除目では、かえって中納言が増員される始末。
少しのちの建久2年(1191)11月5日、兼実は、除目について「院の叡慮を察して、そのときの事情を読み取り、繰り返し院に奏上して、院の意向に沿ったかたちでおこなわなければならない」と述べている。兼実自身、後白河の意志は第一に尊重せざるをえないという。兼実はこうした自分の姿を、「無権の執政、孤随の摂摂籙(摂関)」と自嘲している。
12月24日
・朝廷、義経を義行から義顕と改名。これより先、九条兼実の子良経と同音であるため「義行」と改名するが、「能く隠れ行く」ために今だに捕まらないので、「能く顕する」に改名(「玉葉」同日条)。
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