元暦2/文治元(1185)年
11月5日
・義経一行、多田行綱等の攻撃を受け、退けたが、軍勢の多くが離反し、残りは僅かになった(『吾妻鏡』11月5日条)。
一ノ谷では義経に従って軍功をあげた行綱であったが、ここへ来て義経を裏切った。畿内近国の武士達は、義経への加担を拒むだけでなく、攻撃までしている。義経はそうした攻撃を退け、優れた戦士としての片鱗はみせているものの、その凋落は甚だしい。
11月5日
・義経追討の先鋒1千、義経逃亡後の京都に入る。関東御家人、頼朝の怒りを左大臣藤原経宗(頼朝追討宣旨に関る)に伝える。経宗は大蔵卿高階泰経らと善後策を練る。
「関東発遣の御家人等入洛す。二品忿怒の趣、先ず左府に申すと。今日豫州河尻に至るの処、摂津の国の源氏多田蔵人大夫行綱・豊嶋の冠者等前途を遮り、聊か矢石を発つ。豫州懸け敗るの間挑戦に能わず。然れども豫州の勢以て零落す。残る所幾ばくならずと。」(「吾妻鏡」同日条)。
11月6日
・義経一行、摂津大物浦から乗船。ところが、疾風が急に起こって船が転覆し、一行は散り散りに。義経のもとに残ったのは、源有綱・堀景光・武蔵房弁慶・愛妾静の4人だけ。一行はその夜は摂津の天王寺周辺に一宿し、その後、消息を絶つ(『吾妻鏡』11月6日条)。
ただし、『玉葉』によると、義経一行が大物浦で難破するのは5日夜となっており、義経と行家等は小舟に乗って和泉方面に逃げ去ったという。さきに義経達を追った手島冠者と藤原範資は近辺の在家にあって義経一行を襲おうとしたらしいが、合戦する前に船が難破したので、義経一行にあった源家光を臭首し、やはり義経に従っていた豊後の武士等を生け捕ったり、討ち取ったりしたという。このことは範資が帰京して語ったことである(『玉葉』11月8日条)
先導役緒方惟栄は頼朝軍に捕らえられ鎌倉に下される(1186年11月9日、緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲、上野沼田荘(群馬県沼田市)に流罪、後、赦免・帰国)。
行家の子家光は大物で殺され、行家は翌年5月、和泉国の在庁日向権守清実(きよざね)の日根(ひね)郡八木郷の宅に匿われているところを密告され、捕縛・梟首される。
「行家・義経、大物浜に於いて乗船するの刻、疾風俄に起こって逆浪船を覆すの間、慮外に渡海の儀を止む。伴類分散し、豫州に相従うの輩纔に四人。所謂伊豆右衛門の尉・堀の彌太郎・武蔵房弁慶並びに妾女(字静)一人なり。今夜天王寺の辺に一宿し、この所より逐電すと。今日、件の両人を尋ね進すべきの旨、院宣を諸国に下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。
「判官頸(くび)どもきりかけて、戦神(いくさがみ)にまつり、門出よしと悦ンで、大物(だいもつ)の浦より船に乗ッて下られけるが、折節西の風はげしくふき、住吉の浦にうちあげられて、吉野の奥にぞこもりける。吉野法師にせめられて、奈良へおつ。奈良法師に攻められて、又都へ帰り入り、北国にかかッて、終に奥へぞ下られける。都より相具したりける女房たち十余人、住吉の浦に捨て置きたりければ、松の下、まさごの上に袴ふみしだき、袖をかたしいて泣きふしたりけるを、住吉の神官ども憐んで、みな京へぞ送りける。凡(およ)そ判官のたのまれたりける伯父信太三郎先生義憲、十郎蔵人行家、緒方三郎惟義が船ども、満々島々に打寄せられて、互にその行ゑを知らず。忽ちに西の風ふきける事も、平家の怨霊のゆゑとぞおぼえける。」(『平家物語』巻第12「判官都落(ほうぐわんのみやこおち)」)
義経の船が、六甲おろしの西風に吹かれて住吉に打ち上げられるくだりは、能の「船弁慶」にとりあげられ、平知盛の怨霊が義経に挑みかかり、弁慶が念珠をもみながら祈って、これを防ぎ戦う劇的な場面は、しばしば上演されるところ。
11月7日
・頼朝率いる黄瀬川の陣に義経都落ちの報告が届く。
「二品軍士を召し聚めんが為、京都の事を聞こし食し定めんが為、黄瀬河の宿に逗留し給うの処、去る三日、行家・義経中国を出て西海に落ちるの由その告げ有り。但し件の両人、院の廰の御下文を賜う。四国・九国の住人、宜しく両人の下知に従うべきの旨これを載せらる。行家は四国の地頭に補し、義経は九州の地頭に補すが故なり。今度の事、宣旨と云い、廰の御下文と云い、逆徒の申請に任せられをはんぬ。何に依って度々の勲功を棄捐せらるやの由、二品頻りに欝陶し給う。而るに彼の宣旨を下さるべきや否や、御沙汰に及ぶの時、右府頻りに関東を扶持せらるの旨風聞するの間、二品欽悦し給うと。今日義経見任(伊豫の守・検非違使と)を解却せらる。」(「吾妻鏡」同日条)。
11月7日
・兼実、『玉葉』11月7日条で、義経一行の渡海が失敗したというのが真実ならば、「仁義の感報すでに空しきに似る」(仁義もなにもあったものではない)と義経達に同情を示す一方で、その失敗を「天下の大慶」と喜んでいる。もし義経達が九州に籠もれば、追討軍が通る国々は疲弊し、また関東からの物資も途絶え、天下の貴賎が生きる術を失ってしまう。それが、義経等が前途を遂げずに滅亡したことは「国家の至要」だという。
また、義経は大功を成し遂げながら、その甲斐がなかったけれど(つまり平氏を追討しながら、頼朝の仕打ちで没落したことをいう)、「武勇と仁義においては、後代の佳名を胎(のこ)す者か、嘆美すべし、嘆美すべし」と賞賛。しかし一方、頼朝に謀反の心をおこしたのは「大逆罪」であり、だから天がこの災い(難破)を与えたのであると批判も加える。
「夜に入り、人曰く、九郎義経・十郎行家等、豊後の国の武士の為誅伐せられをはんぬと。或いは云く、逆風の為海に入ると。両説詳かならずと雖も、解纜安穏ならざるか。事もし実ならば、仁義の感報すでに空し。遺恨に似たると雖も、天下の大慶たるなり。」(「玉葉」同日条)。
11月7日
・義経、官職(検非違使・伊予守)を解かれる。
11月8日
・義経遭難の報が京都に伝わる。
黄瀬川から大和守重弘や一品房昌寛(いっぽんぼうしょうかん)等を使節として上洛させ、義経・行家等のことで、頼朝が怒っていることを伝えさせる。
頼朝、黄瀬川より鎌倉へ帰る。
法皇が桂林坊で四天王法を修し、義経謀叛の鎮定を祈る。
「大和の守重弘・一品房昌寛等、使節として黄瀬河より上洛す。行家・義経等の事欝し申さるる所なり。また彼等すでに都を落ちるの間、御上洛の儀を止め、今日鎌倉に帰らしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
11月8日
・院宣により博多の筥崎宮は石清水別宮とされる。
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