元暦2/文治元(1185)年
12月3日
・侍従一条能成(義経同母弟)、保田子男と共に下向(「玉葉」同日条)
12月6日
・頼朝、大江広元とらと協議、廟堂粛清・朝廷政治改革案(「天下草創の時」)の院奏を作成。
これは12月6日に折紙という文書様式で執筆され、翌7日に、別に兼実に宛てた頼朝の書状とともに、雑色浜四郎に託され、京都に送られた(『吾妻鏡』12月6日、7日条)。
それを兼実が目にしたのは12月27日であり、「夢のごとし、幻のごとし、珍事たるにより、後鑑のためこれを続き加ふ」と記して、書き写している(『玉葉』12月27日粂)。『吉記』同日条にも記されている。
これらの要求は、兼実自身のことを含めて後白河から兼実への様々な諮問を経たうえで、12月29日には、ほぼ頼朝の要求通りに認められた(『玉葉』12月27日~29日条)。
①議奏公卿制整備と人選。
右大臣九条兼実・内大臣藤原実定・大納言三条実房・権大納言藤原宗家・同中山忠親・権中納言吉田経房・同久我通親ら10人。大炊御門経宗は左大臣であるが、頼朝追討宣旨発布関係者であるために議奏公卿に選ばれず。
「已上(いじよう)の卿相(けいしよう)、朝霧(ちようむ)の間、先(ま)づ神祇(じんぎ)より始め、次に諸道に至るまで、彼の議奏に依りこれを計(はか)らひ行はるべし」(『玉葉』12月27日条)
②摂籙(せつろく、摂政の意)・氏長者は近衛基通のままとし、九条兼実を内覧に指名(但し、翌年3月基通が義経と結んでいたとし更迭要求、3月兼実が摂政となる)。
③蔵人頭は藤原光長(兼実の近臣)・兼忠とし、藤原光雅は追討宣旨に関ったので停廃。
④略。
⑤大蔵卿は藤原宗頼、高階泰経は解官。
⑥弁官は藤原親経(兼実の近臣)。
⑦右馬頭に侍従藤原公佐(義経の実兄全成の女の子で時政の外孫)。
⑧略。
⑨久我通親は、議奏公卿への知行地割り当てにより因幡を得る。内大臣藤原実定を越前の知行国主とする。豊後は行家・義経に与する党類多いため、暫く頼朝の知行とする。
⑩解官。義経に与した者の解官。尚、添状で守護・地頭設置の必要性を詳述する。
(大蔵卿高階泰経・刑部卿藤原頼経の解官・配流、参議平親宗・右大弁藤原光雅・右馬頭南階経仲・左馬権頭平業忠などの解官を要求)
・同日、頼朝、かねて提携している右大臣九条兼実へ守護地頭設置の目的を上申。全国の謀反発生を未然に防ぎ、年貢公事の徴収を請負うため、とする。地頭は謀反人の跡地のみに置かれ、その謀反人の権限・得分のみを継承するとされる。
12月8日
・頼朝、高階泰経等の正式解官を待たずに所領没官を命じる(「玉葉」同日条)。17日、高階泰経ら、解官。
12月8日
・吉野執行、静を京都の北条時政亭に送る。時政、軍士を吉野山に発す(「吾妻鏡」同日条)。
12月11日
・「二品の若君俄に以て御病悩。諸人群参す。営中物騒なり。若宮の別当法眼御加持の為参候せらると。」(「玉葉」同日条)。
12月14日
・藤原秀衝、院に献物。
12月15日
・北条時政の飛脚、鎌倉に着き、静を尋問した旨を伝える。義経一行は大物浜から天王寺に出て、3日かけて吉野に行き、5日間吉野山中に潜伏後、別離したと白状。16日、頼朝、時政に静を関東に送らせる。
12月17日
・平忠房、後藤基清に預けられる。後、斬首。北条時政、平維盛の嫡男六代(13)を伴い京を進発。
北条時政による平家残党狩り。
辻々に高札を立て、平家一門の子弟を密告した者には恩賞を与える旨告示。密告により処刑された者70人という(「平家物語」)。「源平盛衰記」の阿房上人の目撃談、「平家物語」の平経正の妻の話など。但し、①女性は対象外、②早く僧籍に入り、寺院に正住していた者は不問、③他家に生れ平家に養子に入りながら、一門とは行動を共にせず、都に留まった者は不問。
平維盛の子六代丸の場合。母は鹿ケ谷の首謀者藤原成親の娘で建春門院に仕えた新大納言局。12月中旬、密告により六代丸逮捕。六代丸の乳母の女房が神護寺文覚上人に助命支援嘆願。文覚は時政に六代丸処分猶予を頼み、弟子を鎌倉に派遣。24日、頼朝は六代丸を暫く文覚に預けるようにとの書状を時政に送る。
重盛の子宗実の場合。残党狩りが始まると、猶子となっていた左大臣藤原経宗邸より追出され、南都の俊乗坊重源を便りここで出家。重源は頼朝に伺いを立てると、宗実は重源の許に置いて良いとの回答。重源は宗実を高野山蓮華谷別所の明遍僧都の許に送り、宗実は生蓮坊と号する高野聖となる。
「小松内府の息丹後侍従忠房、後藤兵衛の尉基清これを預かる。また北條殿関東の仰せに任せ、屋島前の内府の息童二人・越前三位通盛卿の息一人これを捜し出さる。遍照寺の奥、大覺寺の北菖蒲沢に於いて、権の亮三位中将惟盛卿の嫡男(字六代)を虜え、乗輿せしめ野地に向かわるの処、神護寺の文覺上人、師弟の昵み有りと称し、北條殿に申請して云く、須く子細を鎌倉に啓すべし。その左右を待つの程、宥め置かるべしと。前の土佐の守宗實(小松内府息)は左府の猶子なり。これまた二品に申され、暫く免許すべきの由仰せ遣わさる。これに依って両人はこれを閣かる。屋島内府の息等に於いては梟首すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「文覺上人の弟子某上人の飛脚として参り申して云く、故維盛卿嫡男六代公は、門弟たるの処、すでに梟罪を被らんと欲す。彼の党類悉く追討せられをはんぬ。此の如き少生は、縦え赦し置かるると雖も、何事か有らんや。就中祖父内府は貴辺に於いて芳心を尽くさる。且つは彼の功に募り、且つは文覺に優ぜられ、預け給うべきかと。彼は平将軍の正統たるなり。少年と雖も、爭か成人の期無からんや。尤もその心中測り難し。但し上人の申し状、また以て黙止すべきに非ず。進退谷むの由仰せらると。使者の僧懇望再三に及ぶの間、暫く上人に預け奉るべきの由、御書を北條殿に遣わさると。」(「吾妻鏡」同24日条)。
「北條思ひ煩ひける所に走り付て、若君ゆるし給たりといふ二位殿の御文あり。北條急ぎて見給へば、御自筆にて、小松の権亮三位中将維盛の子息、生年十二に成、字六代といふなるを尋出したるなる。高雄の文覺上人頻に申請給ぞ。いまだあらば預け奉り給べし。 文治元年十二月二十五日 頼朝 北條四郎殿へ とぞ書れたりける。北條四郎高くよみ給はで、神妙々々と宣ひて打おき給へば、若君ゆり給にけり。」(「平家物語」)。
12月17日
・頼朝の要請に応じ朝廷は謀反に同意した輩(大蔵卿兼備後権守高階泰経、右馬頭高階経仲、侍従藤原能成(義経の同母弟)、越前守高階隆経、少内記中原信康)を解官。頼朝は追討宣旨の責任を追求することで、義経追討を名目に大幅な権限を朝廷に認めさせる。
18日、義経と懇意の高階泰経・経仲、藤原能成が解官される。
29日、17日に解官した高階泰経を伊豆に、刑部卿藤原頼経を解官の上安房に配流。
更に、参議讃岐守平親宗、蔵人頭右大弁藤原光雅、左馬権頭平業忠、左大史小槻隆職、兵庫頭藤原章綱、左衛門少尉平知康・藤原信盛・中原信貞8名、解官。小槻隆職・中原信康は後白河院の近臣。
①平親宗:
時子・時忠の異母弟、平家一門より後白河院側に立ち、それ故治承3(1179)年11月清盛の意向により泰経・経仲・業忠・信盛らと共に解官。
②高階泰経(従三位、大蔵卿):
「法皇第一之近臣」(「玉葉」元暦元年7月25日条)。経仲は泰経の子。頼朝、右中弁藤原光長宛て書状で、これらの人々は「行家、義経に同意し、天下を乱さんと欲するの凶臣なり」と述べる。
12月20日
・九条兼実、王権失墜の感慨。
「日本国の有無、ただ今冬明春に在るか、すでに獲麟(ものごとの最後)におよぶか」(「玉葉」同20日条)。
「去る治承三年より以来、武権ひとへに君威を奪ひ、ほしいままに朝務を行ふ」(同28日条)。
12月28日
・親鎌倉派の九条兼実(37)、頼朝の要請により「内覧」の宣下を受ける。この日、兼実は、頼朝推挙でようやく登竜門にありつき、常は業房の旧妻・卑賎の者などとおとしめているが、丹後局を向こうに立たせては不利益と思い、法皇の逆鱗を宥めようと局に面謁を申し込む。しかし、すげなく拒絶され器量を下げ、悔しさ恥かしさに、数百言の繰言(くりごと)を述べ、「近日の朝務、ひとえに彼(丹後局)の唇吻にあり」と書く(兼実「玉葉」同日条)。
頼朝と対立した義経の要請で「頼朝追討」の院宣が出された時、ただ一人その根拠がないと反対した兼実の姿勢を評価した頼朝が、朝廷に申し入れたもの。兼実は翌年3月12日、摂政となる。
12月28日
・鎌倉で、御台所に仕える下野の局という女房が、夢の中で崇徳院の崇りによって天下の騒乱が引き起こされていると告げられたとのことで、若宮の別当が鎮魂の祈りをおこなうよう命じられたとある。
景政(鎌倉権五郎景政か)が夢に現われて二位つまり頼朝に崇徳院の崇りのことを告げようとしたので、自分がそれを制止し若宮の別当に言うようにいったところで目が覚めたということで、翌朝それを聞いた頼朝は若宮の別当に供物を献じて祈祷を依頼したとという。
「また御台所の御方に祇候の女房下野局の夢に、景政と号するの老翁来りて、二位に申して云はく、讃岐院天下において崇(たたり)をなさしめたまふ。われ制止し申すといヘビも叶はず。若宮の別当に申さるべしてへれば、夢覚めをはんぬ。翌朝事の由を申す。時に仰せらるるの旨なしといヘども、かれこれまことに天魔の所変(しよへん)といひつべし。よつて専ら国土無為の御祈を致さるべきの由、若宮の別当法眼坊に申さる。しかのみならず、小袖・長網等をもつて供僧・職掌に給ふ。邦通これを奉行す。」(『吾妻鏡』)
12月29日
・源義経家臣佐藤忠信、京に隠れているところを頼朝方北条義時に発見され、捕縛。
12月30日
・「今日、関東より飛脚到来す。その状に云く、大蔵卿泰経・刑部卿頼経等、行家・義経に同意する者なり。早く遠流に処せらるべし。一人は伊豆、一人は安房と。経房に付くべきの由、光長に仰せ(件の状、光長の許に送るなり)をはんぬ。光長書状を以て師卿に送る。返札に云く、申請に任せ、早く沙汰有るべしと。件の状を以て関東に仰せ遣わすべきの由、光長に仰せをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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