文治2(1186)年
6月17日
・越前の国務に対する北条時政の目代越後介高成の妨げが、国主実定の訴えで停止される(「吾妻鏡」同日条)。西国に対する頼朝の譲歩。時政はこの時期この国の国地頭(国惣追捕使は比企朝宗)。
「梶原刑部の丞朝景京都より使者を進し、内大臣家の訴事を執り申す。これ家領等、武士の為押妨せらるる事なり。所謂越前の国は北條殿眼代越後の介高成国務を妨ぐ。般若野庄は籐内朝宗、瀬高庄は籐内遠景、大島庄は土肥の次郎實平、三上庄は佐々木の三郎秀能、各々或いは三年、或いは一両年、所務を煩わし乃具を抑えると。二品殊に驚かしめ給う。速やかに妨げを止むべきの由、面々に仰せ含めらるべきの由と。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月13日、最勝寺領丹生郡大蔵荘の地頭時政の代官平六時定・常陸房昌明による新儀無道が停止される(「吾妻鏡」同日条)。これより先の寿永3年、時政が大野郡牛原荘に頼朝の使と称して代官宗安を入部させる。時政は、越前の国地頭となり所領を確保。
6月18日
・多武山で義経を匿った僧龍諦房(りょうたいぼう)が京に召し出される(『吾妻鏡』18日条)。
6月20日
・この頃、義経、比叡山上に隠れる。
6月21日
・頼朝、九州除く西国37ヶ国において、中原広元を使者に、院宣により武士の濫行を停止されたいと王朝に申し入れ(西国について頼朝が譲歩)。10月8日太政官符で、謀叛人跡以外の地頭職を停止し、加徴米徴収権・検断権・下地知行は認められないことになる。37ヶ国に尾張・美濃・飛騨・越中以西の東海・東山・北陸道諸国が含まれ、東国「王権」の統治権の及ぶ諸国が若干減少し、王朝統治下の西国諸国と明確に区別される。陸道では、頼朝知行国の越後と他の諸国とは東西に分かれる結果となる。
「行家・義経の隠居所を捜し尋ね求めんが為、畿内近国に於いて守護・地頭を補せらるるの処、その輩事を兵粮に寄せ、譴責累日す。万民これが為に愁訴を含み、諸国この事に依って凋弊せしむと。・・・諸国守護の武士並びに地頭等、早く停止すべし。但し近国没官の跡に於いては然るべからざるの由、二品京都に申せらる。・・・また因幡の前司廣元使節として上洛する所なり。天下澄清の為院宣を下さる。 非道を糺断し、また武士の濫行を停止すべき国々の事 山城国 大和国 和泉国 河内国 摂津国 伊賀国 伊勢国 尾張国 近江国 美濃国 飛騨国 丹波国 丹後国 但馬国 因幡国 伯耆国 出雲国 岩見国 播磨国 美作国 備前国 備後国 備中国 安藝国 周防国 長門国 紀伊国 若狭国 越前国 加賀国 能登国 越中国 淡路国 伊豫国 讃岐国 阿波国 土佐国 右件の三十七箇の国々、院宣を下さる。・・・
但し鎮西九箇国は、師中納言殿の御沙汰なり。然れば件の御進止の為、濫行を鎮められ僻事を直さるべきなり。また伊勢の国に於いては、住人梟悪の心を挟み、すでに謀反を発しをはんぬ。而るに件の余党、尚以て逆心不直に候なり。仍ってその輩を警衛せんが為、その替わりの地頭を補せしめ候なり。・・・凡そ伊勢の国に限らず、謀叛人居住の国々、凶徒の所帯跡には、地頭を補せしめ候所なり。然からば庄園は本家・領家の所役、国衙は国役の雑事、先例に任せ勤仕せしむべきの由、下知せしめ候所なり。・・・就中、武士等の中には、頼朝も給わず候へば、知り及ばず候の所を、或いは人の寄付と号し、或いは由緒無きの事を以て、押領せしむ所々、その数多く候の由承り候。尤も院宣を下され、先ず此の如きの僻事を直せらるべく候なり。また縦え謀反人の所帯の為、地頭を補せしむるの條、由緒有りと雖も、停止すべきの由仰せ下され候所々に於いては、仰せに随い停止すべく候なり。院宣爭か違背すべく候や。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
6月22日
・義経が仁和寺・岩倉に隠居との告げにより急襲したが実なしと鎌倉に伝わる(「吾妻鏡」同日条)。
6月25日
・義経の郎党伊勢義盛が梟首されたという報が兼実のもとに届く(『玉葉』7月25日条)。
6月25日
・「歓喜光院領播磨矢野別府の事、海老名の四郎能季地頭と称し、寺家の所堪に随わざるるの由、院宣を下さるるに依って、向後非分の押妨を止むべきの旨、二品下知を加えしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
6月29日
・「伊勢の国林崎御厨の事、平家與党人家資の跡として、没官領の注文に加うと雖も、太神宮これを訴え申すに就いて、地頭有るべからざるの旨院宣を下さるるの間、今日沙汰有り。宇佐美の平次實正が知行を停止する所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月1日
・頼朝、平時定を左右どちらかの兵衛尉に任命するよう申し出る。
「平六兼仗時定(へいろくけんじょうときさだ)を以て左右兵衛の尉に任ぜらるべきの由、京都に申さる。これ度々の勲功有るに依ってなり。また伊勢の国林崎御厨、地頭職を止められをはんぬるの由の事、今日左中弁光長の許に仰せ遣わさる。奏聞の為なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月3日
・院使大江公朝は、頼朝の申状を上皇に奏上。頼朝の提案が基本的に以前と変わっていないことを知って上皇は激怒している(『玉葉』)。
「去る比検非違使公朝(院近臣、下北面に候す)、御使として関東に下向す。この両三日に帰参す。頼朝卿の申状を奏して云く、万事君の御最たるべきの由と。その次いでに摂録の事等有り。・・・然れば高陽院方を以て前の摂政領と為し、京極殿方を以て当時の殿下領と為す。尤も宜しかるべきか如何と。この状を以て同じく叡聞に達すと。終日評定。明暁飛脚を遣わさるべし。その状に於いては人知らず。而るに大略所領の事、一向前の長者に付くべきの由かと。」(「玉葉」同日条)。
7月7日
・「諸国地頭職の事、平家没官領並びに梟徒隠住の所処の外、権門家領等に於いては、停止せしむべきの由京都に申さるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月7日
・後白河法皇院宣。
「備後国大田庄は高野に寄付し・・・而るに實平押領するの由、聞こし食し及ぶに依って、・・・件の庄は本より没官の注文に入らず。・・・早く彼の妨げを停止すべきの由、下知を加え給うべしてえり。院宣に依って執達件の如し。」
7月8日
・「院の北面左衛門の尉能盛入道並びに院の廰官定康の所知武士濫望の事、早く停止すべきの由仰せ下さるるの旨、左馬の頭の消息到来す。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月9日
・藤原定家(25)、藤原季経・経家らとともに摂政兼実に召され連歌に興じる(『玉葉』)
7月11日
・行家を弔うための仏事が鎌倉で修せられる(『吾妻鏡』7月11日条)。
7月12日
・大江広元、頼朝の使者として初めての上洛。この日、朝幕交渉のパイプ役をつとめていた権中納言吉田経房の邸に向かう。
経房邸を訪れた広元が示した「条々の事」の中の主要な問題は、摂関家領の相続をめぐる後白河上皇・近衛基通と九条兼実の政治対立の解決に関わるものであった。
前年末に内覧となった兼実が、この年3月、頼朝の後押しで摂政・藤原氏長者となると、頼朝は、前摂政の近衛基通(兼実の兄基実の子)が領有していた摂関家領を兼実に与えることを主張しはじめた。この頼朝の考えに対し基通は反発し、後白河上皇に訴えたため、上皇はただちに在京中の北条時政を通じて、基通に摂関家領を手放す意図はないことを頼朝に告げた。
こうして、摂関家領の相続にからむ朝廷権力内部の深刻な利害対立が公武間の交渉課題となり、その解決は守護・地頭問題同様に重要な案件となった。
7月14日
・『玉葉』7月14日条には、「上皇の使者である公朝が鎌倉で、上皇に対する兼実の暴虐な振る舞いについて語ったために、事実を調べるために頼朝は自分を上洛させたのだ」という広元の経過説明が、兼実家司藤原光長の報告の形で記されている。
「この日光長朝臣来たり條々の事を申す。今朝廣元(12日上洛)来臨し、條々の事等を示すと。その内に去る比公朝関東に来たり、余の為様々の悪言等を吐く。偏に射山を蔑爾し己が威を振るい、院の御領を停廃し、院の近習者を解官する等、凡そ左右に能わず。茲に因って法皇頭を剃らず、手足の爪を切らず、寝食通わず、持仏堂の中に閉じ籠もり、修行する所の業を以て悪道に廻向すべきの由、肝胆を催し悪心を任じ、偏に他事を忘れ御念願有り。積もる所尊下(頼朝を指すなり)の為太だ要無きの由、弁説を構えこれを称す。頼朝頗る驚奇すと雖も、示す所法に過ぐ。仍って還ってまた信用せざるの気色有り。仍ってこの真偽を糺さんが為、俄に廣元を差し上す所なりと。」(「玉葉」7月12日条)。
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