文治2(1186)年
7月16日
・後白河(60)、丹後局をして地頭制について大江広元と折衝せしむ
7月17日
・後白河は、頼朝の摂関家領分割案に「逆鱗」したといわれており(7月15日条)、これをめぐって後白河と兼実との関係も悪化した。この日、後白河は頼朝の使者として上洛した中原広元に対し、兼実は自分に対し不忠だ、と伝えていた。
但し、「家領の間の事逆鱗の儀、たちまちに変じ、ただ平(ひら)に乞い請わしめ給う」「朕今生思い置く事、ただこの一事なり」と、一転して低姿勢で要求を述べる様が見える。
結局、この摂関家領相続問題は、頼朝が上皇の要求を呑んだ形で決着し、基通の領有していた所領は、以後「近衛家領」として伝領されていく。
7月18日
・長谷部信連、能登鳳至郡大屋荘地頭として入部、同荘穴水に居住。建保6(1218)年10月没(72)。
7月19日
・大江広元、京都で一条能保・中原親能(ちかよし)・北条時政・土肥実平ら8人に配分された京中の平家没官地の目録を作成して頼朝の許に送る。
22日、鎌倉殿御使の一人である近藤七国平に対して、神護寺所領への武士押領に関する指示を行なう。
29日に京を離れ(『玉葉』7月30日条)、閏7月19日に鎌倉に戻る。
7月19日
・北条義時(24)、駿河国富士領上政所、福地社への神田寄進を沙汰す。
7月24日
・「仙洞の御願として、平家の怨霊を宥められんが為、高野山に於いて大塔を建立せらる。去る五月一日より、厳密の御仏事を行わる。而るを供料所備後の国大田庄を以て、御手印を加え、今日奉寄せらるる所なり。但し土肥の彌太郎妨げを成すの由、その訴え出来するに依って、殊に仰せ下さるるの間、早く庄家を退出すべきの旨、今日二品下知せしめ給うと。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月24日
・「密々、廣元を招きこれに謁す。ほぼ鎌倉の子細を陳ぶ。また思う所を仰せをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
7月25日
・義経家人の伊勢義盛、捕縛、殺害。
「能保示し送りて云く、九郎義行の郎従、伊勢の三郎丸梟首しをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。
7月25日
・平盛国(74)、連行先の鎌倉の岡崎平四郎義実の邸で一切の食を絶ち没。
平盛国:
盛康(同じ伊勢平氏の正盛・忠盛と共に白河院の寵臣)の子。
保元元年(1156)7月、保元の乱では子の盛俊と共に清盛に従って奮戦。保元2(1157)年2月大内裏造営の功により、10月兵衛尉より右衛門尉に、ついで左衛門尉に任命される。
平治元年(1159)12月、平治の乱でも父子は清盛のもとで活躍。
永万元年(1165)正月、検非違使に補任。
仁安元年(1166)年10月、憲仁親王(高倉天皇)が皇太子になると東宮主馬署(じゆめしよ)の首(かみ)兼任を命じられ「主馬判官」と呼ばれる。
治承元年(1177)5月29日、多田蔵人行綱が藤原成親・西光法師の陰謀を密告に西八条第に来訪した時、清盛は盛国に応対させる。盛国は「清盛の側近にあって執事的役割を果した」(竹内理三)。大番頭として一門を取り仕切る。
治承4(1180)年11月富士川から敗走してきた侍大将藤原忠清の責任問題が評定された時、忠清を弁護し助命。
長寛2(1164)9月「平家納経」の立役者。
寿永3(1184)年2月、一の谷で子の盛俊は猪俣党小平六則綱に騙まし討ちされる。
文治元年(1185)4月、鎌倉に連行され、そのまま斬られることなく、岡崎平四郎義実の宿所に預けられる。
「大夫の尉(伊勢の守)平盛国入道去年召し下され、岡崎の平四郎義實(三浦の介義明舎弟)に預けらるるの処、日夜無言、常に法華経に向かう。而るにこの間断食、今日遂に以て帰泉す。二品これを聞こしめ給い、心中尤も恥ずべきの由仰せらると。これ下総の守季衡七男、平家の氏族なり。去る承安二年十月十九日出家を遂ぐ。今年七十四と。」(「吾妻鏡」同日条)。
7月30日
・この頃、義経の小舎陣童の五郎丸が捕まり、義経が悪僧俊章・承意・仲教らの与力で比叡山に隠れていることが判明。
7月30日
・「亥の刻、法印慶俊律師を以て、使いとして示されて云く、今朝能保朝臣彼の法印の許に参り、義行山の悪僧の許に在るの由風聞有り。その間の事能く沙汰を致さるべしと。廣元昨日下向しをはんぬと。法皇数十枚の御書、遅々の間懈怠すと。」(「玉葉」同日条)。
閏7月2日
・「二品草野大夫永平の所望を挙げしむ事、殊功有るに依ってなり。御書に云く、・・・筑後の国住人草野大夫永平、朝威を仰ぎ貳無く忠を致しをはんぬ。仍って筑後の国在国司・押領使の両職、本職たるの間、知行すべきの由これを申すと雖も、此の如き事、頼朝の成敗に非ず候。御奉行の由承り及び候。御奏聞有りて、永平に宛て給うべく候。恐皇謹言。 閏七月二日 頼朝 進上 師中納言殿」(「吾妻鏡」同日条)。
閏7月2日
・九条兼実の弟慈円、義経が比叡山にいると伝える。11日迄は尚、山門にいたとの風聞。
「早旦法印来らる。義行台山の辺に在るの由の事語り示さる。大略能保沙汰す。」(「玉葉」同日条)。
閏7月2日
・後白河は側近の藤原定長(さだなが、勧修寺流)に、「お前の兄光長(みつなが、兼実の政所執事(まんどころしつじ))は学があり、たいへん人望もある。しかし、摂政(兼実)の近習であるために、私のことを頻りに馬鹿にし、とりわけ摂政の指示によって太上天皇(上皇)は天下を治めるべきでないと関東に働きかけている。このことを深く怨みに思っている」と語った。この話を光長から聞かされた兼実は、自分は朝敵にされるのではないか、と震え上がる。
閏7月6日
・「近日ひとえに彼の女房(丹後局)の最なり」(「玉葉」同日条)。
この頃、丹後局は法皇と同居し、幕府への沙汰の密議にも加わり、頼朝腹心の大江広元と折衝するなど活動。局が広元に応接した際には、法皇が局の傍で詞(ことば)を授ける。中には兼実不忠との意味合いもある(「玉棄」文治2年7月17日条)。
閏7月7日
・「親経来たり條々の事を申す。南都訴訟の事、御教書を書き直に光長朝臣の許に遣わすべきの由仰せをはんぬ。また安楽寺別当の事、同じく師卿の許に遣わすの御教書案持ち来たる。所存仰せ聞きをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
閏7月9日
・「早旦能保朝臣使者を送り義行の間の事を申す。次第尾籠極まり無し。法印を招き子細を示す。また能保の許に示し遣わしをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
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