2023年1月11日水曜日

〈藤原定家の時代237〉文治2(1186)年3月1日~3月29日 周防国を東大寺造営費用負担国に宛てる 長谷部信連(40)、頼朝の御家人となる 静と母の磯禅尼、鎌倉に到着 定家、殿上人に復帰 頼朝の推挙により兼実(38)摂政・氏長者となる 定家は兼実の家司となる 「予、初めて故入道殿文治二年に参ずるの時、進めず、先考相具し参じ給ふ」(『明月記』)   

 


〈藤原定家の時代236〉文治2(1186)年2月1日~2月30日 義経主従、奥州平泉へ出立 「今日、廣元肥後の国山本庄を賜う」(「吾妻鏡」) 「二品の若公誕生す。御母は常陸の介籐時長の女なり」(「吾妻鏡」) より続く

文治2(1186)年

3月

・周防国を東大寺造営費用負担国に宛て、重源に国務をみさせる。

・頼朝、西国から鹿ケ谷事件の奮戦で名高い長谷部信連(40)を呼び寄せ、御家人に加える。4月、能登鳳至郡大屋荘の地頭に補任。大屋荘は平時忠の配流先珠洲郡に隣接、時忠監視の命も受けたと推測しうる。

文治元年後半、頼朝は土肥実平に長谷部信連を捜し出させ、安芸の検非違使に補任。信連は、梶原景時を通じて頼朝に忠勤を励みたいと申し出る。のち、建久年間、加賀の検非違使時代に山中温泉を発見。子孫は長氏を名乗り、戦国時代に名を馳せる

3月1日

・北条時政、7ヶ国地頭職を辞退(「吾妻鏡」)。

「諸国に惣追捕使並びに地頭を補せらるる内、七箇国分は、北條殿拝領せられをはんぬ。而るに深く公平を存じ、去る比地頭職を上表す。その上重ねて書状を師中納言に付けらる。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月1日

・静と母の磯禅尼、鎌倉に到着、政所執事二階堂行政の沙汰で安達新三郎宅に入る。

『徒然草』によれば、藤原信西が、多くの舞のなかから趣向ある舞を選んで磯禅師(静の母)に教えた。それは白水干に鞘巻を指し、烏帽子を被るという男装による舞で、男舞といった。その後、磯禅師の娘静がその芸を継承し、それが白拍子(しらびょうし)の「根元」となった。それは仏神の本縁を謡うものであったという。白拍子とは、本来は文字通りの拍子で、それが舞の名となり、ついに舞う女性をいうようになったらしいが、白拍子舞の創始は磯禅師というわけである。こうした母親の芸を継承した静は当代一流の白拍子であったらしい。京に滞在したことのある鎌倉武士や頼朝夫妻もその芸を見たいという思いがあり、これを鎌倉に送らせたともいう。

「今日、豫州の妾静、召しに依って京都より鎌倉に参着す。北條殿送り進せらるる所なり。母磯の禅師これに伴う。則ち主計の允の沙汰として、安達の新三郎が宅に就いてこれを招き入ると。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月1日

「光長来たり云く、今日、九郎・行家追討の宣旨内大臣亭に持ち向かいこれを下知すと。」(「玉葉」同日条)。

3月2日

「今南・石負庄の兵粮米停止すべきの由、昨日師中納言使者を以て、院宣を北條殿に伝えらるるの間、今日下文を成し進せらるる所なり。・・・今日、故前の宰相光能卿の後室比丘尼阿光、去る月使者を関東に進し、相伝の家領丹波の国栗村庄、武士の為妨げを成さるるの由これを訴え申す。仍って早く濫吹を停止すべきの趣仰せらると。・・・また南都の大仏師成朝、勝長寿院の御仏を造立し奉らんが為召し下さるるの処、傍輩仏師、この下向の隙を以て、当職を競い望むの由歎き申すの間、彼の状を取り挙し申せしめ給う。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。

3月4日

「主水司供御所丹波の国神吉、地頭職を補せらるるに依って、事の煩い有るの由これを訴え申すに依って、免除せらるべきの旨、御消息を北條殿に遣わさる。因幡の前司これを沙汰す。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月6日

・頼朝の側近藤原俊兼任・平盛時、静を召喚し義経の行方を尋問。

義経が吉野山に逗留したという静の証言が信用できないという問い詰めに静は、義経が逗留したのは吉野山の僧坊であり、そこから僧坊の僧に送られ、山伏姿で大峰に入山しようとした。静も従ったが女性は入山できないので、京都に向かった。しかし、供の雑色男が財宝を奪い逃亡してしまったので、蔵王堂に迷い出たことなどを証言した。また、静は大峰に義経を送った僧の名は忘れたと回答した。この静の回答は、京都で尋問した時とは内容が異なっていたので、虚偽であることが疑われ、再度の尋問が命じられた。しかし、3月22日の再度の尋問でも、静は義経の行方は知らないと言い切った。ところが、義経の子を妊娠していることが判り、出産後に京都に戻されることになった。

「静女を召す。俊兼・盛時等を以て、豫州の事を尋ね問わる。先日吉野山に逗留するの由これを申す。太だ以て信用せられず。・・・重ねて坊主僧の名を尋ねらる。忘却の由を申す。凡そ京都に於いて申す旨、今の白状と頗る違うに依って、乃ち法に任せ召し問うべきの旨仰せ出さると。また或いは大峯に入ると。或いは多武峯に至る後逐電するの由風聞す。彼是の間定めて虚事有るかと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月6日

・藤原俊成、殿上狼藉により処分された定家の除籍解除を和歌により後白河院に訴える。院からは早くも3日後、殿上に還昇が許される。

俊成が左少弁定長に手紙を書き、「年少ノ輩オノオノ戯遊ノ如キ事ニ候、強(アナガ)チニ年月ニ及ブベカラズ候カ」として、

あしたづの雲路まよひし年くれてかすみをさへやへだてはつべき

の一首を添えたことにより、間もなく後白河院の許しが出て、定長を通じて

あしたづの雲井をさしてかへるなりけふ大空のはるるけしきに

の返歌があり落着。

院の命で目下『千載和歌集』を編纂中だった俊成の願いであれば、院としても無下に断わるわけにもいかなかったろう(『明月記の世界』)

3月8日

「源蔵人大夫頼兼愁い申す丹波の国五箇庄の事、二品京都に執り申せしめ給うべきの由御沙汰に及ぶ。これ入道源三位卿頼政が家領なり。治承四年有事の後、屋島前の内府これを知行す。今度没官領の内、頼兼に付けらる。而るに仙洞御領たるべきの由仰せ有るか。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月9日

・武田信義(59)、没(一説には自刃)。

「元暦元年、子息忠頼の反逆に依って御気色を蒙る。未だその事を散ぜざるの処、此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月12日

・前年、頼朝が後白河院に上申、推挙により、九条兼実(38)、摂政・氏長者となり、清原頼業を家司に補す。頼朝と提携して意欲的に政治改革を進める(記録所を置き、裁判・訴訟を振興)。大蔵卿藤原宗頼や藤原経房の養子や藤原行隆の子の行長(「平家物語」作者)が二字を進め見参の礼をとる(実名を記したもの(名簿)を提出し主従関係に入る)。

藤原宗頼:

宗頼は後に兼実の「左右ナキ御ウシロミ(後見)」と云われる程兼実に親近する。宗頼は頼朝推挙により大蔵卿となり、八条院の推薦で兼実に仕えるようになる。宗頼の妻(八条院の四条局)が九条良輔(兼実と八条院の女房三位局の子)の乳母となり、後、宗頼は行長の弟宗行を養子とする。宗頼の存在は、八条院と兼実の関係を物語る(兼実は、八条院と頼朝の後援により摂関として出発)。

しかし、法皇は兼実を無視して更迭されていた公家たちを翌年までに復権させ、頼朝の議奏公卿制度などの朝廷改革を失敗させ、近臣擁護の姿勢を通し、法皇権力を強化。久我通親は法皇派として地位を固め、禁中雑事奉行として禁中の雑務を統轄、禁中内廷女房とも結びつきを深める。

この前日、摂政就任を知らせる院宣がもたらされると、兼実もさすがに感無量であったらしく、『玉葉』には「紅涙眼に満つる」と記されている。

3月13日

「関東御分の国々の乃具、日者朝敵征伐の事に依って頗る懈緩す。然れば以前の分を免ぜられ、今年より以後合期の沙汰を致すべきの由、京都に申さるる所なり。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月14日

・この日、2月30日に出された義経・行家を捜索すべき宣旨が鎌倉に到着。その捜索範囲は、熊野・金峰山のほかに大和・河内・伊賀・伊勢・紀伊・阿波であった。

「行家・義経を捜し求むべき事、宣旨関東に到来す。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月15日

・義経(28)、伊勢大神宮に参り、黄金造(こがねづくり)太刀を奉納(「吾妻鏡」同日条)。この祈祷には神宮の禰宜長重が関り、閏7月、長重は鎌倉に召される。頼朝は、義経の逆心を破るためと称し、駿河方上御厨(焼津市)を神宮に寄進。

3月16日

・九条兼実、摂政拝賀。藤原定家、参列、前駆けを勤める(「玉葉」)。父俊成が兼実の和歌の師匠であるため実現。この供奉をもって、定家は兼実の家司となり、以降、九条家と定家の関係は生涯にわたって続く

九条家では兼実の子の良通・良経、兼実の弟慈円との交流があり、さらに後鳥羽の国母となった殷冨門院に仕える女房大輔、あるいは旧くから父の関係していた徳大寺家に連なる人々、殊に歌人西行との交流などによって、和歌の研額に励んだ。

兼実は嫡子の良通が不慮のうちに亡くなったことで、一旦は出家を考えたこともあったというが、やがて気を取り戻して娘任子の入内を目指すと、次男の良経が中心になって活発な和歌の交流が始まり、俊成や定家・慈円・寂蓮・藤原家隆などが集まって九条家の歌壇が形成されていった。文治5年(1189)には任子の入内も決まって、九条家は絶頂の時期を迎えるが、そうした中で昇進の遅れていた定家も、文治5年11月に左少将に任じられている。

「予、初めて故入道殿(兼実)文治二年に参ずるの時、(「名簿」を)進めず、先考(俊成)相具し参じ給ふ。御静に召すの後、奉公已に三、四代、雑役匹夫の如し。」((『明月記』寛喜2年(1230)7月16日)。

「名簿(みょうぶ)」を進めるのは臣従の証であり、家司となるには、「事の体、進むるを以て本式となした」が、定家の場合「名簿」を提出せず、俊成が同伴しての「見参(けざん)」で成立したという。見参は現参、すなわち本人が直接出向いて面謁することであり、これも主従関係を結ぶ上で大事な行為であったが、ここでは略式の手続きとされている。なお、「奉公……雑役匹夫の如し」は、これからも定家が家司として九条家に奉公する際、しばしば口にするようになるせりふ。

3月16日

「山城の介久兼使節として上洛す。伊勢の国神領顛倒の奉行等の事を仰せらる。また諸国兵粮米催しの事、漸く止めらるべきの由北條殿に仰せらる。これ狼藉に及ぶの旨、預所訴え有るが故なり。これに依ってこの趣を奏達せらるべきの旨、師中納言の許に申せらると。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月18日

「加賀の守俊隆と云う者有り。前駆已下の事、当時その仁幾ばくならざるに依って、去年秋の比より参候す。而るに豫州反逆の後、これを糺行せんが為、御家人等を発遣せらるるの処、俊隆領一所尾張の国中島郡に於いて、不慮の狼藉等有りと。仍って愁い申すに就いて、在国の輩に准うべからざるの由沙汰有り。安堵せしむべきの旨、厳密に仰せ下さると。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月18日

「院より光長朝臣を以て仰せられて云く、泰経・頼経等配流を免さるべきの由、関東に仰せ遣わさる。然るべきの由を申す(消息二通を相副えらる)。」(「玉葉」同日条)。

3月21日

・諸国荘園の兵粮米徴収を停止。

「諸国兵粮米催しの事、今に於いては停止すべきの由宣下せらると。これ神社・仏寺・権門・勢家凡そ人庶の愁歎に依って、所々訴えに及ぶの間、度々御沙汰を経られ、停止せしむべきの旨、京都に申されすでにをはんぬと。また法皇御灌頂用途の事、沙汰せらるべきの由、これを仰せ下さるか。仍って今日、俊兼の奉行として御領を宛てらるる所なり。現米千石(駿河・上総両国分)・白布千反・国絹百疋(散在の御領分)。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月22日

・静の妊娠、尋問中に発覚。

「静女の事、子細を尋ね問わるると雖も、豫州の在所を知らざるの由申し切りをはんぬ。当時彼の子息を懐妊する所なり。産生の後返し遣わさるべきの由沙汰有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月24日

「前の摂政殿の家領、当摂録の御方に付けらるべきかの由、二品内々御存案有り。前の摂政家この事を聞き、状を以て愁奏せらる。仍って今日、師中納言その子細を北條殿に仰せ聞かさる。早く関東に申し達すべきの由御返事を申さると。また播磨の国守護人等の事、在廰の注文二通並びに景時代官の注文等、同人の奉行としてこれを下さる。施行すべきの由と。北條殿、近日関東に帰参せらるべきに依って、公家殊に惜しみ思し食さるるの由、師中納言勅旨を伝えらる。これ則ち公平を思い私を忘れるが故なり。且つはその身下向せしむと雖も、穏便の代官を差し置き、地頭等の雑事を執り沙汰せしむべきの旨、度々仰せ下さるるの処、敢えてその仁無し。一旦の勅定を重んじ、非器の代官等を差し置き、もし不当を現すの事有らば、還ってその恐れ有るべきかの由、固辞再三に及ぶ。但し洛中警衛の事は、平六時定に示し付く。内々二品の仰せなりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

3月27日

・北条時政、甥の時定らに後事を託し鎌倉に戻る。兵糧米徴収・地頭問題で朝廷と交渉する中で、時政が独自行動をとり始めた事を封じるため。頼朝、一条能保を京都守護とする。

3月29日

「去年関東の訴えに依って罪科に処せらるる人々の事、刑を宥めらるべきの由、京都頻りに秘計の沙汰有り。就中、前の大蔵卿泰経殊に歎息す。専使を以て内々因幡の前司廣元の許に示し送る。仍って廣元芳情を廻らし、遠流を申し止めをはんぬ。且つは二品の厳命を取り返報を投ずと。」(「吾妻鏡」同日条)。


つづく



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