2023年1月5日木曜日

〈藤原定家の時代231〉元暦2/文治元(1185)年11月17日~11月24日 義経の愛妾静、吉野で発見される 義経、吉野から多武峰に至る(ここで足取りは途切れる) 時政入京 義経探索 苛烈な平家残党狩り   

 


〈藤原定家の時代230〉元暦2/文治元(1185)年11月13日~11月16日 関東武士が多く入洛(『玉葉』) 梶原景時の代官は播磨国の小目代を追い出し、倉々に封をする 後白河の頼朝追討宣旨の釈明に対し、頼朝、「日本国第一の大天狗は、更に他者に非ざり候か。」(「吾妻鏡」)と怒る より続く

元暦2/文治元(1185)年

11月17日

・義経が吉野山にいるとの風聞により吉野の執行が衆徒に山林を捜索させる。午後10時頃、京都に戻すために義経と別れた愛妾静、藤尾坂から降りて蔵王堂に来る。義経が金銀を与え静を京へ送るよう雑色に命じるが、途中、この金銀を奪い静を置いて逃亡、迷い出てここに来たと語る。吉野山の執行は静を憐れみ、そこで慰労された後(『吾妻鏡』11月18日条)、12月8日、京都の北条時政第に送られる。そこで、時政は御家人を吉野山に派遣して、義経を捜索させた。また、鎌倉に飛脚を送り、静が語ったこれまでの義経の動向を伝えるとともに、今後の対応について指示を仰ぎ、静は鎌倉に送られることになった(『吾妻鏡』11月18日、12月8日、15日、16日各条)

吉野:奥州には修験者が吉野から来ており、奥州時代の義経と何らかの交流があると思われる。その縁を頼りに吉野に来るが、執行や大衆が頼朝を恐れたため、ここを出て行かざるを得なくなる。

「豫州大和の国吉野山に籠もるの由風聞するの間、執行悪僧等を相催し、日来山林を索むと雖も、その実無きの処、今夜亥の刻、豫州の妾静、当山藤尾坂より降り蔵王堂に到る。その躰尤も奇怪。衆徒等これを見咎め、相具し執行坊に向かう。具に子細を問うに、静云く、吾はこれ九郎大夫判官(今伊豫の守)の妾なり。大物浜より豫州この山に来たり。五箇日逗留するの処、衆徒蜂起の由風聞するに依って、伊豫の守は山臥の姿を仮て逐電しをはんぬ。時に数多の金銀類を我に與え、雑色男等を付け京に送らんと欲す。而るに彼の男共財宝を取り、深き峯雪の中に棄て置くの間、此の如く迷い来たると。」(「吾妻鏡」同日条)。

「静の説に就いて、豫州を捜し求めんが為、吉野の大衆等また山谷を蹈む。静は、執行頗る憐愍せしめ、相労るの後、鎌倉に進すべきの由を称すと。」(「吾妻鏡」同18日条)。

11月19日

「土肥の次郎實平一族等を相具し、関東より上洛す。今度支配の国々を被る精兵の中、尤も専一たりと。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月20日

・義経に同行した平時実捕縛。八島冠者時清が義経生存の報を京に伝える。

「伊豫の守義経・前の備前の守行家等京都を出て、去る六日、大物浜に於いて乗船纜を解くの時、悪風に遭い漂没するの由風聞に及ぶの処、八島の冠者時清同八日帰京しをはんぬ。両人未だ死せざるの旨言上すと。次いで讃岐中将時實朝臣、流人の身たりながら、潛かに在洛して、今度義経に相具し西海に赴く。縡成らず、伴党離散するの刻、帰京するの間、村上右馬の助経業の舎弟禅師経伊これを生虜ると。両條叡聴に達しをはんぬの由その聞こえ有りと。」(「吾妻鏡」同日条)。

11月22日

・義経、吉野山の深雪をしのぎ多武峰(とうのみね、南院の藤堂)へ向かう(「吾妻鏡」同日条)。多武峰の僧十字坊が義経を快く迎えるが、隠れるには不都合のため遠津河辺(とつかわへん、十津川)を勧められそこに向う(『吾妻鏡』11月29日条)。多武峰は鞍馬山と同じく延暦寺の末寺で、知合いもいたと思われる。義経の足取りはここまで。

11月24日

・義経追討軍北条時政1千、大軍を率い入京。(『玉葉』では24日、『吾妻鏡』では25日)

25日、行家・義経叛逆の件で頼朝が怒っていると院に伝えると、同日、義経追討を命じる宣旨が頼朝に出される。さきに同内容の院宣が出されていたが、それがさらに強化された。先の院宣は諸国司に宛てたものであったが、これは頼朝に与えられたものであり、これにより、私刑であった頼朝による義経等への追求が朝廷の公認するところとなった。

また、翌文治2年3月末まで、平家残党狩りを行う。

時政は義経探索(早く見つかるようにと名を「義顕」と改め)とあわせて、平家一門の生き残りの捜査を広範囲かつ執拗に行った。

時政の平安京滞留は、文治2年(1186)3月末まで約4四箇月に亘り、その後は頼朝の実妹の夫の右兵衛督・藤原能保が職務を引き継いだ。

捜索、処分が苛烈であったのは、文治元年12月であった。時政は辻々に高札を建て、平家一門の子弟について密告した者には過分の恩賞を与える旨を告示して摸索に努めた。恩賞目あての密告者の数は多かった。中でも悲惨なのは、平家と関係のない色白で眉目の秀でた少年や幼児が、「これは誰それの中将の若君」、「あれは何少将殿の公達」と言って密告されたこと。父母は欺き悲しみ、その無実を訴えたが、密告者たちは、「いや付添いの女房がそう申しました」、「乳母がそう言いました」などと言い張った。

こうして審査を十分に尽さないままに、幼児は柴漬(ふしづけ)にされ、成人した者は斬られるなど、その数は70人にも及んだと言う。

中には、平家の本当の血縁者も混っていた。

重盛の子丹後侍従忠房、土佐守宗実、宗盛の息童2人、通盛の子1人、知盛の子伊賀大夫知忠、維盛の子六代、等々が見つけ出され、宗実と六代のほかは斬首された。忠房は、小松殿の子は助命してつかわす、という甘言に乗って名のり出たばかりに瀬田で殺され、助けられた宗実も鎌倉へ下る途中断食し、関本というところで死亡、16歳であった知忠は、隠れ住んでいた備後国太田の城を攻められて自害。乳人の紀伊次郎兵衛入道は知忠の遺骸えお膝の上に抱きかかえ、十念を唱えつつ切腹、子の兵衛太郎・兵衛次郎兄弟は討死した。

こうして平氏の子孫は一掃され、ただ1人、大覚寺の北、菖蒲谷に住んでいた六代だけが、母や乳母の嘆きをみかねた文覚の奔走によって、生き残った。が、10数年の後に殺されてしまう。


つづく



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