元暦2/文治元(1185)年
11月13日
・この日、関東武士が多く入洛(『玉葉』11月13日条)。
この武士達は、8日に黄瀬川を発った使節としては、日数的に早すぎるため、それとは別の武士達のようであるが、その武士達の気色は非常に恐ろしいもので、天下を大いに乱すような雰囲気があり、後白河の身辺にも不吉な予感があったという。実際、梶原景時の代官が、後白河の知行国である播磨国に下向して、小目代(こもくだい)を追い出し、倉々に封をするという狼籍を働いたという(11月14日条)。こうして後白河に対して恐怖を煽っている。
〈播磨国地頭梶原景時〉
壇ノ浦後、九州で戦後処理にあたっていた梶原景時は、鎌倉に帰って勝長寿院の落慶供養に参加したが、義経・行家の反乱が勃発すると、ただちに代官を播磨国に派遣した。北条時政が国地頭設置を申請する10日以上前に、梶原景時の代官が播磨国に下向し、国守の代官である小目代を追い出し、国衙の倉々を差し押さえていた。景時は、頼朝のもとで国地頭の設置方針が決められた直後に、播磨国地頭に任じられ、現地に代官を下向させた。この時、播磨国は院分国として後白河の重要な経済的基盤であり、播磨守には院近臣・藤原実明(さねあき)が補任されていた。文治勅許以前の景時代官の播磨国下向は、同国が院分国であったからであり、頼朝追討宣旨を発給した後白河に対する露骨な政治的圧力であった。
梶原景時が、生田の森・一の谷合戦後に播磨国惣追捕便に任じられていたように、文治元年末に諸国に設置された国地頭は、基本的に惣追捕使であった御家人が任命され、平氏滅亡後にいったん廃止された惣追捕使の再設置という側面をもっている。しかし、単に名称が「惣追捕便」から「国地頭」に変わっただけではなく、義経・行家の挙兵を後白河院が容認したという政治状況もあって、文治元年末から翌年にかけて各地で国地頭によるきわめて厳しい軍政が展開した。
播磨国は、国地頭梶原景時の代官たちの活動が最も激しく長期間に展開した地域。文治元年12月6日に朝廷が豊前国字佐宮に派遣した宇佐和気使(わけづかい)は、途中の播磨国明石において景時代官らの狼籍にあい、神馬(しんめ)・神宝(しんぽう)を路頭に捨てて13日に都に逃げ帰り、また翌文治2年には、各郡に居住する景時代官たちによる播磨国内の荘園・国衙領の「押領」が大きな問題となっている。
景時代官による「押領」は、印南(いんなみ)・賀古(かこ)・明石郡に広がる五箇荘をはじめ、揖西(いつさい)郡揖保(いぼ)荘・桑原荘・上蝙荘、美嚢郡東這田荘、多可郡安田荘、加東郡福田荘・大部郷、加西郡西下郷など、広範な地域で引き起こされた。五箇荘が印南野の大功田(だいこうでん)を起源にもつ清盛領であり、播磨国が平氏権力の基盤の一つであった。従って、景時代官の播磨国内の荘園・国衙領「押領」も、不当な押領だけではなく、平氏一門領や平氏方所領に対する没官活動を含んでいたととらえられる。
「関東の武士、多く以て入洛すと。参河の守範頼大将軍として上洛すべしと。或いは云く、奥の疑いの為坂東に留め置くと。実説未だ聞かず。」(「玉葉」同日条)。
「今旦、範季来たり語る、入洛の武士等の気色大いに恐れ有りと。大略天下大いに乱るべし。法皇御辺の事、極めて以て不吉と。梶原代官播磨の国に下向す。少目代の男を追い出し、倉々ニ封を付けをはんぬと。件の国、院の分国なり。」(「玉葉」同14日条)。
11月14日
・後白河、女房冷泉殿を摂政藤原基通のもとに遣わし、摂政職を兼実に譲ることを勧める。基通は拒否したが、これは、頼朝がかねてから兼実を摂政にするように後白河に進言しており、今回、頼朝の怒りを静めるために、その意向に添うように基通に働きかけたもの(『玉葉』11月14日条)
11月14日
・義経一行、吉野(現・奈良県吉野町)入り。女人禁制のため、弁慶らの諫言を入れて、静を京都に戻す。
11月15日
・大蔵卿高階泰経の使者、鎌倉入り。頼朝の妹婿一条能保亭に赴き、書状を頼朝に渡すように依頼。
行家・義経謀叛のことは、ひとえに「天魔の所為」であ。、宣旨を出さなければ宮中で自殺するといって脅したので、その場の難を避けるために勅許を与えたが、決して後白河の本心から出たものではないという釈明。しかし、これまでの過程で、義経と頼朝とを離間させ、頼朝が一方的に強大化しないように策した後白河の意図が歴然としている以上、このような釈明が受け入れられるはずはない。
頼朝は、天魔は仏法のために妨げをなし人倫に煩(わざわ)いを致すものだが、頼朝は数多の朝敵を降伏させ、政務を後白河に返したという忠があるのに、どうして本心でもなしに反逆者に対するような院宣などを発するのか、と反論、行家・義経の捜索・逮捕の費(つい)えによって諸国が衰弊し、人民滅亡に至るのであれば、日本第一の天狗はほかならぬ後白河の側であると怒りを露わにする。
そして直後に、頼朝は北条時政に千騎の兵を付けて京へと派遣し、義経・行家を捜し求めるため必要だという理由で、諸国に総追捕便・地頭を設置するよう、朝廷に強硬に要求して認めさせた。
さらに、年末には、行家・義経に同意の侍臣たちの処分を後白河に申請。内容は兼実・徳大寺実定以下の議奏公卿を置き、兼実を摂関とし、一方で、高階泰経や追討の宣旨に関わった官人らを配流或いは解官するというもの。
このように、義経・行家への頼朝追討宣旨の発給という、後白河方の失点を巧みに利川して、頼朝は朝廷改革に乗り出した。
「大蔵卿泰経朝臣の使者参着す。刑を怖れるに依ってか。直に営中に参らず。先ず左典厩の御亭に到り、状を鎌倉殿に献らるの由を告ぐ。又一通典厩に献ず。義経等の事、全く微臣の結構に非ず。ただ武威を怖れ伝送するばかりなり。何様の遠聞に及ぶや。世上の浮説に就いて、左右無く鑽れざるの様、宥め申さるべしと。・・・行家・義経謀叛の事、偏に天魔の所為たるか。宣下無くば、宮中に参り自殺すべきの由言上するの間、当時の難を避けんが為、一旦勅許有るに似たりと雖も、曽て叡慮の與する所に非ずと。これ偏に天気を伝うか。二品返報を投ぜられて云く、行家・義経謀叛の事、天魔の所為たるの由仰せ下さる。甚だ謂われ無き事に候。天魔は仏法の為妨げを成し、人倫に於いて煩いを致すものなり。頼朝数多の朝敵を降伏し、世務を任せ奉る。君の忠に於いて、何ぞ忽ち反逆に変ぜん。指せる叡慮に非ざるの院宣を下さるるや。行家と云い義経と云い、召し取らざるの間、諸国衰弊し、人民滅亡せんか。仍って日本国第一の大天狗は、更に他者に非ざり候か。」(「吾妻鏡」同日条)。
11月16日
・兼実が頼朝追討宣旨の発給に反対したときの事情が関東に伝わると、関東は兼実に「帰服」(畏敬の念を抱く)したとされる(11月16日条)。これによって、兼実執政への流れはほぼ固まった。
「頼朝追討の宣旨を下さるの間の事、余の申し状、関東に達し帰依有るの由世間謳歌す。この事還って以て恐れ有り。伝聞、近日、白川の辺顛倒の堂舎等、往還の輩偏に薪に用ゆ。この事猶以て罪業たるの処、今に於いては、仏像を破り取ると。金色と云い、彩色と云い、散々に仏体を打ち破り薪に為すと。武士の郎従、並びに京中誰人等の所為と。或る人云く、頼朝決定上洛すべしと。」(「玉葉」同日条)。
つづく
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