2023年1月12日木曜日

〈藤原定家の時代238〉文治2(1186)年4月4日 頼朝、長谷部信連を御家人として召し使うことになった旨、西海の土肥実平に通達 〈長谷部信連のこと〉   


〈藤原定家の時代237〉文治2(1186)年3月1日~3月29日 周防国を東大寺造営費用負担国に宛てる 長谷部信連(40)、頼朝の御家人となる 静と母の磯禅尼、鎌倉に到着 定家、殿上人に復帰 頼朝の推挙により兼実(38)摂政・氏長者となる 定家は兼実の家司となる 「予、初めて故入道殿文治二年に参ずるの時、進めず、先考相具し参じ給ふ」(『明月記』) より続く

 文治2(1186)年

4月4日

・頼朝、長谷部信連(のぶつら)を御家人として召し使うことになった旨、西海の土肥実平に通達。

「右兵衛尉長谷部信連は、三条宮の侍なり。宮、平家の讒(ざん)によって配流の官符を蒙りたまふの時、廷尉(ていふ)等御所に乱入するのところ、此の信連、防戦の大功あるの間、宮は三井寺に遁(のが)れしめたまひをはんぬ。しかるに今奉公を抽(ぬき)んでんがために参向す。よって先日の武功に感じ、わざと御家人として召し仕ふの由、土肥二郎実平<時に西海にあり>が許に仰せ遣はさると云々。信連、国司より安藝国検非違所ならびに庄公をこれに給はりをはんぬ。見放つべからざるの由と云々」(「吾妻鏡」(文治2年4月4日条))。

〈長谷部信連のこと〉

信連は、初め後白河に仕える北面の武士であったが、ある時、大番衆がもてあました強盗たちを一人で追跡し、4人を切り伏せ、その賞として左兵衛尉に抜擢され、その後、以仁王の侍長に補された。

治承4年(1180)5月15日夜、源三位頼政から通報を受け、間もなく検非違使が高倉宮(三條大路北・高倉小路西)に逮捕に来る事を知った以仁王は、信連の機智によって女装して高倉宮から危く脱出し、園城寺に逃げこんだ。信連が留守を預っていると、検非違使左衛門大夫源兼綱と同じく右衛門尉源光長が流罪の宣旨を携え、兵を率いて押し寄せて来た。

検非違使たちが高倉宮に到着してみると、門は閉ざされ内には答える人がいなかった。そこで彼等は、高倉小路に面した小門を踏み破って侵入しようとしたところ、信連は単身彼等に立ち向かい、『山槐記』によると、矢つぎ早に射って2、3人を、『吾妻鏡』によれば、大刀を取って奮戦し、光長の郎党5、6人を庇つけた。しかし信連自身も衆寡敵せず、手疵を負うて搦め取られた。

信連は、六波羅第に拉致され、厳しい尋問を受けたが、その態度は堂々としており、以仁王の行方については頑として黙秘を続けた。宗盛らは、信連の武烈を賞して斬刑を免じた。そして長門本『平家物語』(巻8)や『源平盛衰記』(巻13)によると、彼を左獄に禁固した。

平家西遷の後、信連は釈放され、伯耆国に下り、日野郡金持(かもち、鳥取県日野郡日野町金持)あたりを徘徊していた。『長家家譜』・『長氏系図』によると、信連は、伯耆国の金持左衛門尉に属し、同国黒田に住み、賊を討って功があったと伝えている(黒田は、日野郷黒坂の誤りか)。金持左衛門尉は、実在の人物で、後に鎌倉の御家人となった武士である。"

当時伊豆にあって都における情勢を眺めていた頼朝は、信連の奮戦の模様を知り、心に留めていた。

文治元年後半、頼朝は西海方面にあった土肥二郎実平に命じて信連を捜し出させ、信連をとりあえず安芸国の検非違使に補し、「荘公」を与えた。「荘公」は、荘園と、国司が管轄する公田(こうでん)とをあわせたものだが、公田そのものを与えたのではなく、検非違使の封禄として一定の公田の収益を充てたという意味である。これに感激した信連は、頼朝に忠勤を励みたいと、梶原景時を通じて願い出た。頼朝はこの願いを嘉納したので、信連は鎌倉に参向した。頼朝は、文治2年(1186)4月4日、信連を御家人として召使うこととなった旨を西海にいる土肥実平に通達した。

『源平盛衰記』(巻13)によると、頼朝は、「剛の者のたね(胤)継がせんとて」信連に「由利小藤太が後家に合はせ」、自筆で仮名(かりな)の下文(くだしぶみ)をしたため、「能登国大屋の荘をば鈴の荘と号す、彼の所を賜は」った。人々、「治承の昔は平家に命を助けられ、文治の今は源氏に恩を蒙れり。武勇の名望有り難し。」と語り合ったという。

文治2年、信連は40歳であった。『長氏系図』などによると、由利小藤太と呼ばれたのは、由利小太郎・藤原重範のことで、彼はその後家を娶って、朝連、景信、行連以下の子女を儲けたという。

大屋荘は能登国鳳至(ふげし)郡の南志見(なじみ)村から大屋村、河原田村にまたがる広大な荘園であった。

信連は文治2年7月18日、大屋荘に入部した。

頼朝が能登国大屋荘の地頭職に信連を補した理由は、珠洲郡に配流されている前権大納言・平時忠を監視する任務を与えたのではないかと推測できる。

文治5年(1189)3月、平時忠は没したので、信連は監視の任務を解かれたと想定される。『長家家譜』によると、建久年間に信連は、頼朝の命によって加賀国の叛徒を追討し、その武功をもって加賀国江沼郡の塚谷保(ほ)を与えられ、加賀国の検非違使に補された。

あるとき、信連が領内を巡視した時、偶然に彼は白鷺が降り来たって葦原の小流に病脚を浸すのを見、これがもとで霊泉を発見した。これが山中温泉(白鷺温泉)の発端といわれる。

信連は、建久末年(1198頃)、大屋荘南志見(ばじみ)村において、「鎌倉殿御祈祷所」として西光寺を建立した。

『吾妻鏡』建保6年(1218)10月27日条には、

「今日、左兵衛尉長谷部信連法師、能登国大屋庄河原田に於いて卒す。是れもと故三條宮(以仁王)の侍、近くは関東の御家人なり。兵馬新大夫為連の男なり。」

との記事が見られる。『長家家譜』などによると、享年は72歳。後を継いで大屋荘の地頭に補されたのは、息子の朝連で、朝連は、『長左衛門尉』の名で『吾妻鏡』に頻出する人物である。

信連の子孫、長家は、連綿として続き、能登の有力大名として南北朝や戦国の乱世を切り抜け、第24代の尚連の代に金沢藩の家老となって3万3千石を領し、明治33年に男爵を授けられた。


つづく


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