1895(明治28)年
6月
泉鏡花『外科室』
6月
ヴェルレーヌ、「懺悔録」出版。
6月初旬
子規の喀血が次第に収束し快方に向かう。
「五月二十九日は牛乳を飲み、粥少々と卵を食べた。十日余におよんだほとんど絶食は終った。三十日にはイチゴが欲しいというので、虚子が山手のイチゴ園に行って買ってくると大喜びで口にした。その日、さらに見舞いの夏ミカンを食べた。子規は果物好きだった。
以後、喀血は一進一退しながらも次第に収束し、快方に向かった。食欲は増進した。イチゴのほか、パイナップル、バナナ、桃、枇杷等を好んで食べた。平生の大食ぶりを連想させたが、上腕部の周囲を測ってみると二十二センチしかなく、ベースボールに遊んだ時代の体重には程遠かった。」(関川夏央、前掲書)
6月1日
一葉日記より
この日の萩の舎稽古の際、一昨日の天皇還幸の奉迎が話題になり、見に行っていないのは、中島歌子、田中みの子、一葉の3人だけであった。凱旋門(東京商人有志奉迎会によって日比谷に設けられた杉の葉で作ったアーチ)は今日取り崩されるというので、4時に人々が帰ってから3人が車で見物に行く。和田倉門を入って坂下門の辺りに来ると、あちこちに検査官が立ち並んで車から下りよと止められる。いま青山御所から天皇が帰ってくるので、それを拝するならば並べとのこと。思いがけないことで、そこに留まる。辺りを見回すと、田舎の老爺で嫁を連れた者や、若い書生で老母を連れたもの、また車4,5両を並べて良い着物を着た者もいるが、誰しも天皇を拝見しようと降りていて、置いてある車のようすなどなんとなく風情がある。
『源氏物語』では、賀茂の祭りの御禊式が通る際にあちらこちらに車が幾台も重なって、車の中の姫君の袖口などが珍しく趣深いのがいにしえであったようだが、現代の黒漆金紋の車に幌骨が朱色だったり葡萄色だったりするのも風情があり、白茶の天鵞絨に黒い毛で縁取りをした膝覆い、車夫は休んでいる町人と話すさまなど、絵巻にして残したいと思われる。しばらくして騎馬の兵士がまず見え、おでましだと人々が静まると、御車はただ二台で前後の人もそれほど多くない。ただ静かに坂下御門から入るが、かなり隔たっていたので、あまりよく見えず。
警護が解けると人々は急いで車を呼び寄越した。やがて凱旋門近くに来れば、もう崩しにかかったと思われ、降ろした杉の葉などがあちらこちらに山のように積まれていた。車から降りて中に入り、杉の枝や花を摘んでいると、歌子もみの子も同じように手折る。日暮に今度は霞が関から上がって、外務省の裏から帰る。九段上へ出るまではただ御堀の水の緑や松の枝ぶりや芝生の色を眺めていると、ほどなくして牛ヶ淵近くに至る。ここで別れて、3人それぞれの家路につく。
6月2日
樺山台湾総督と清国全権委員李経方、台湾・澎湖列島の授受完了。
翌29年3月迄、約2師団半を投入した戦闘続く。
それ以後の台湾での戦闘は、国際法上は、自国領内の反乱に対する鎮圧であり、内戦である。しかし、台湾島民は、これよりさき5月23日に台湾民主国を設立し、独立国を宜言。この台湾民主国は帝国主義国家群には承認されないが、ひとたびは台湾の主要地域を支配し、その国旗の下に、侵入した日本軍に対する島民の抵抗を組織。日本軍は武力で台湾民主国を崩壊させ、無差別的な殲滅で台湾島民の抵抗意志を打ち砕き領土化。台湾鎮定作戦も、台湾民主国に対する「戦争ならざる戦争」であり、その戦争は、樺山資紀台湾絵督が最後の抵抗拠点台南を占領し台湾全島平定を報告する11月18日まで続く。
6月2日
夜、新発田大火(与茂七火事)。大杉栄(10)宅も焼け、軍人仲間の家、小学校の先生の家を転々として、6月下旬ころ一軒家に移る。新発田では八番目の家となる。
6月2日
一葉日記より
早朝、石黒虎子が稽古に来る。午後、西村釧之助来訪。
その後、眉山が再度来訪。「自伝をものし給ふべし」と勧める。一葉と肩山は、この日かなりうちとけて、人生上の問題をめぐる突っこんだ話をしている。一葉も彼にかなり詳しく実人生を語ったようである。あたかも3年前からの知人のように互いに打ち解け、日暮近くに帰る。
夜、妹邦子と本郷へ買い物に行く。帰宅すると、留守中に2,3人の来客があったとのこと。おおかた、孤蝶、禿木、秋骨であろうと推察。
「我が身の素性など物がたるに、さらば君は誠にをとなしくやさしき人におはしけり。思ひがけぬまですなほなる人成けり。さる柔和なるこころを持て、かかるうきよをかくまでにしのびて渡り給ふこと、下のこころのいづこにかつよき処のあればなるべし。男ごころのまけじ気性にてすら、うきよの波にもまれては、終におぼれぬ人少なきを、さるやさしき女性の身として、かくよに立て過し給ふ事、よに有がたき人かな。自伝をものし給ふべし。今わが聞参らせたる所許にても、たしかに人を感動さすねうちはたしか也。君が為には気のどくなれども、君が境界は誠に詩人の境界なるかな。おもしろき境界なるかな。すでに経来たり給ひし所は残りなく詩にして、すでにすでに人世の大学問ならずや。ふるひたち給ふべし。君にして女流文学に志し給はんか、後来日本文学に一導の光を伝へて、別に気魂の天地に伝へるものあるべし。切に筆をもて世にたち給へ、などいふ。そそのかし給ふな。さらでも女子は高ぶり安きを、とて笑ふに、君は誠に物つつみし給ふ人也。よししからばこれより我れは書肆(しよし)に計りて、君のもとへ催促を打ちしさらすべし。人すすめずは書かぬ人なめり、とて笑ふ。やがて日も暮るに近ければ、又こそ訪はめとて立帰る。三年の知人に似たり。」
6月3日
陸奥宗光外相、日本の朝鮮政策を再検討すべきと伊藤首相に提言。
6月3日
一葉日記より
田中みの子の歌会があるが欠席。午後から三崎町の桃水の家を訪ねると、飯田町の本宅にいるとのこと。みの子の家とは通りを一筋隔てたところ。福岡の戸田医学士に嫁いでいた妹の幸子が、戸田の急逝に遭って戻っていた。5年ぶりに幸子に会う。鶴田たみ子の娘千代に会うが、一葉はあくまでも桃水の子と思い込んでいる。鮨を取り寄せ果物などを振舞われる。
4年ぶりに桃水の笑顔を見たようで嬉しく、曇った心が晴れたように想われる。あの昔の美しさはどこに行ったか。雪の様であった肌は黒くなり、高い鼻だけがひどく目立つ。肩幅が広かったのも膝の肉の厚かったのもだんだんと狭まり痩せて見えるところ、40歳といっても嘘でなく見える。本当の兄や伯父のように思われる。この人ゆえに人生の苦しみを尽くして、涙を飲んだ身ではあるが、今は欲を捨て、友として交際してゆくことを願う。日暮近くに暇乞いをして帰ろうとすると、桃水の父湛四郎が出てきて挨拶する。
この日久し振りに桃水に会って、深い感慨に沈んでいる。今までの恋心や憎悪の気持などを全て葬り去り、「たゞなつかしくむつまじき友として過さんこそ願はしけれ」と記す。
帰宅後すぐに入浴、夜大雨。
「五年ぶりにておかう君に会ふ。取集めての弔詞などいふに、心うくただ涙ぐまれぬ。鶴田ぬしがはらにまうけし千代と呼べるが、ことしは五つに成しが、いとよく我れに馴れて、はなれ難き風情、まことの母とや思ひ違へたる、哀れ深し。ちよ様は我れをわすれ給ひしかといふに、房々とせし冠切りのつむりをふりて、否やわすれずといふ。二階のはしごの昇りにくきを、我が手にすがりて伴ひゆくも可愛く、茶菓などはこぶをあぶなしといヘども、誰も手なふれそ、お客様には我れがもてゆくのなりとて、こまごまとはたらく。かかるほどに戸田ぬしが子も目さむれば、おかう殿いだき来て見す。まだ生れて十月許のほどならん。いとよくこえて、ただ人形をみるやうに、くりくりとせしさま愛らし。目もはなもいと少さくて、泣く事まれなる子といふがうれしければ、抱き取りてふりつづみ見せ、犬はり子まはしなどするに、いつとなくなれて、我が膝にのみはひよる。こはあやしき事かな。常にをとなしき子なれども、見馴れぬ人にはむづかりて、手をもふれさせず、此ほど野々宮様、大久保様などあやし給ひしに、いたく泣入りて困(こう)じにけるを、今日はかく馴れ参らせてよころび居る事と、おかうどのいぶかる。半井ぬしほほゑみて、縁のあるなめりといひ消つ。すし取寄せ、くだもの出しなど馳走をつとむ。四年ぶりにて半井ぬしが誠の笑がほを見るやうなるが嬉しく、打くもりたる心のはれる様也。そのむかしのうつくしさはいづこにかげかくしたるか、雪のやう成し色は、ただくろみにくろみて、高かりしはなのみいちじるく成りぬ。肩巾の広かりしも、膝の肉の厚かりしもやうやうにせばまりやせて、打みる所は四十男といふとも偽ならず見ゆ。なつかしげに物いひて打笑むさま、さはいへど大方の若ざかりよりは見にくからず、ただ誠の兄君伯父君などのやうにおぼゆ。君はいくつにかならせ給ふ。廿四とや。五年の前に逢そめ参らせたる、その折に露違はずもおはしますかな、といひいひて、こころおく方もなく語る。此人ゆゑに人世のくるしみを尽して、いくその涙をのみつる身とも思ひしらねば、ただ大方の友とや思ふらん。今の我身に諸欲脱し尽して、仮にも此人と共に人なみのおもしろき世を経んなど、かけても思はず。はた又過ぎにしかたのくやしさを呼おこして、此人眼の前に死すとも涙もそそがじの決心など、大方うせたれば、ただなつかしくむつまじき友として過さんこそ願はしけれ。かく思ひ来たりて此人をみれば、菩薩と悪魔をうらおもてにして、ここに誠のみはとけを拝めるやうの心地、いひしらずうれし。」
桃水は、「厭ふ恋」の相手から「誠のみほとけ」に昇華した。「ただなつかしく睦まじき友として」これからの年月を過して生きる覚悟がついたので、「うれしく、心夢のやうに」帰宅。5年ごしの恋が結着。
6月4日
閣議、朝鮮政略変更。他動主義(なるべく干渉をやめ自立させる方針をとると決定)。放棄論と確保論の中間。決めたことは、積極的干渉政策はとらない、鉄道・電信条約を「強いて実行せざること」のみ。その他は情勢変化に任せることとなる。井上公使の内政「改革」政策は崩壊し、朝鮮問題はふり出しに戻る。
陸奥外相提出の、朝鮮に対し「自働、他働ニ拘ハラズ、此際断然干渉政策ヲ息メ、通常条約国ノ有様ニ止戻ル」との決議案を討議。伊藤首相は大本営会議での武官側発言を考慮し、「将来ノ対韓方針ハ成ルべク干渉ヲ息メ、朝鮮ヲシテ自立セシムルノ方針ヲ執ルべシ。故ニ他動ノ方針ヲ執ルベキコトニ決ス。右決議ノ結果トシテ同国鉄道、電信ノ件ニ付、強テ実行セゲルコトヲ期ス」と修正、従来の朝鮮保護政策を否定。
しかし、日本から進んで内政干渉を行う事は否定するが、他動的に(即ち、状況変化に応じて)は干渉政策をとる余地を残し、大本営が設置されている限り、閣議に撤兵決定権限がない為、政策変更に拘らず駐兵は継続。
自己の主張を貫徹できなかった陸奥外相は、閣議終了後病気療養を理由に西園寺公望文相に外相の職務を託し大磯に去る。この日以後、朝鮮政策は内政干渉によるロシアとの対決から、日露両国による朝鮮の南北分割案までの間を漂うことになる。
陸奥が閣議に提案した動議は、三国干渉によって不可能となった日本の朝鮮単独支配を、イギリスを軸とする列強を朝鮮に引き入れる事によって共同支配にかえ、ロシアの独占を防ぐ事に真意がある。しかし、統帥部が、陸奥動議の前提である日本軍の朝鮮からの撤兵を拒絶し、動議は修正され、他動の方針をとる事になる。この方針は、やがて王城事変をうみ、朝鮮喪失を決定付ける。
6月4日
河東碧梧桐に伴われて子規の母八重が病院に着く。
6月4日
一葉日記より
晴天。新聞によると台湾で戦争が始まったらしい。芦沢芳太郎はこれが初陣と思われる。
(台湾島民が「台湾民主国独立宣言」を出したのを反乱と見做し、5月29日上陸、6月2日に台湾授受の法的手続きを完了し、7日に台北を陥落させた)
つづく
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