帝国大学時代の漱石(1892年12月)
大杉栄とその時代年表(505) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その2) 「英文科の某君は”こんな拙いものを書かれては我等英文科の名誉を汚がす”と酷評した。純然たる時代思想に便乗した平凡な客観詩である。夏目先生に不むきな題材だと思った。」(金子健二『人間漱石』) より続く
1904(明治37)年
5月10日
漱石「従軍行」について(その3)
次に、漱石の社会や国家、戦争やそれらに関連する事柄に対する考え方が窺える文章などを見てゆく。
▼1888(明治21)年5月(第一高等中学校予科一級)
英作文「討論 ー 軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」
「諸君、軍事教練は私にとっては辛すぎる訓練であります。それは、私と反対の立場に立つ弁士が格別ご指摘のように、私が虚弱だからという理由によるものではなく、それが強制的、つまり、私の意志に反して私に訓練を課するという理由によるものであります。(中略)
私は軍事教練という名前を聞いただけで、虫酸が走ります。軍事教練において、われわれは、形こそ人間でも、鈍感な動物か、機械的な道目おごとく遇されるのであります。われわれは、奴隷か犬のように扱われるのであります。しかしながら、いったい誰が、犬のように卑屈に尻尾を振り、手を舐めるでありましょうか。(中略)
結論として、次のように申し上げたい。われわれにとって最善の訓練とは、競艇、跳躍、ランニングや、スポーツ競技、野外でのゲームなど、何であれ最高の喜びと、楽しみと、快適さを与えてくれるもののことである、と。」(山内久明「訳注」、前掲書)
大学予備門・第一高等中学校時代の漱石は、いろいろなスポーツを楽しみました。友人たちの回想によって、水泳、競艇、野球、庭球、登山、乗馬などを試みたことがわかります。器械体操が上手であったことについては、多くの証言があります。また、松本亦太郎の思い出によれば、意外なことに、「兵式体操の鉄砲扱いがうまかった」そうです。
漱石は、表面的には兵式体操を「うま」くこなしながら、心の中では、このような嫌悪の念を育んでいたのです。この英作文には、人間を「動物」や「道具」や「奴隷」や「犬」のように扱い、教官に対する絶対服従を強いるだけで自主独立の精神を育てない軍隊的行動様式の訓練に対する、淑石の強い批判的な思想や心情が表れています。
▼1889(明治22)年5月
第一高等中学校教頭木下広次が校長に昇任すると、学校当局は国粋主義派を支持する態度を明らかにしはじめる。木下はのちに法学博士、京城帝国大学総長。
この頃、第一高等中学校生徒のあいだに国粋主義を標榜する結社が生れた。漱石は勧誘されてこの結社に加入したが、積極的な行動はとらなかった。子規もまた漱石と同じであった。
「近頃我高等中学校に道徳会ともいふべきものを起す人あり。余にもすすめられたれど、余は之に応ぜざりき。漱石も亦異説を唱へたり。其言に曰く、「余は今、道徳の標準なる者を有せず、故に事物に就(つい)て善悪を定むること能はず。然るに今道徳会を立て道徳を矯正せんといふは、果して何を標準として是非を知るや。余が今日の挙動は其瞬間の感情によりて定むる者なり。されば昨日の標準は今日の標準にあらず」と。余の説も略々(ほぼ)これに同じ。今日善とする者果して善なるか。今日非とする者果して非なるかを疑ふ者なり。」(正岡子規『道徳の標準』-明治二十二年の断片-)
「国家は大切かも知れないが、さう朝から晩迄国家々々と云つて恰も国家に取り付かれたやうな真似は到底我々に出来る話でない。常住座臥国家の事以外を孝へてならないといふ人はあるかも知れないが、さう間断なく一つ事を考へてゐる人は事実あり得ない。豆腐屋が豆腐を売つてあるくのは、決して国家の為に売つて歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得る為である。然し当人はどうあらうとも其結果は社会に必要なものを供するといふ点に於て、間接に国家の利益になつてゐるかも知れない。是と同じ事で、今日の午(ひる)に私は飯を三杯たべた、晩には夫を四杯に殖やしたといふのも必ずしも国家の為に増減したのではない。正直に云へば胃の具合で極めたのである。然し是等も間接の叉間接に云へば天下に影響しないとは限らない、否観方によっては世界の大勢に幾分か関係してゐないとも限らない。然しながら肝心の当人はそんな事を考へて、国家の為に飯を食はせられたり、国家の為に顔を洗はせられたり叉国家の為に便所に行かせられたりしては大変である。国家主義を奨励するのはいくらしても差支ないが、事実出来ない事を恰も国家の為にする如くに装ふのは偽りである」(『私の個人主義』)
「党派心がなくつて理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作つて、権力や金力のため盲動しないといふことなのです。夫だから其裏面には人に知られない淋しさも潜んでゐるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、さうして是と同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです。」(『私の個人主義』)
▼1890(明治23)年6月
英語教師ジェイムズ・マードックに提出のレポート”Japan and England in the Sixteenth Century""teenthCentury3(「16世紀における日本とイギリス」)には、国民の「自由」の権利を大幅に制限した明治憲法に対する彼の疑問や批判が、間接的ながら表れていると考えています。
漱石は、その第一節「政治・社会状況」において、イギリスは十五世紀の終りに「封建主義の果てしない廃墟のあとに絶対王制が樹立されるという事態に見舞われ」、「テユーダー王朝の王侯たちの専制支配に対して一時は屈辱的に萎縮した」が、その後、「自由の精神を追求してその究極に偉大な三つのことをなし遂げた。すなわち、国王は議会の同意なしにいかなる法律も定め得ず、国王は法に従って治世を行わねばならず、万一それに惇(もと)れば閣僚が責任を負わねばならぬのである。これらの特権こそは、イギリス国民の誇りとするところである」と述べました。
「偉大な三つのこと」というのは、国王と議会との長年の対立を議会の勝利で終らせ、一六八九年にウィリアム三世に承認させ制定された「権利章典」の内容を、マコーリーの『英国史』第一巻(一八四九年刊)によっておおまかに記したものです。漱石は、英作文の中で、この名誉革命をなし遂げたイギリス国民を、「不屈な意志をもち、強く自由を愛する国民」として称賛しています。
一方、「封建制度が最盛期の日本の場合」については、こう述べています。
孔子の教えに従って、忠誠こそ人類が身につけうるもっとも高貴にして純粋な美徳であると、人々は叩き込まれていた。日本の臣民が保有した富、田地田畑をはじめすべて、それどころか生命までもが、主君の意のままになった。主君みずからが個人的自由を意に介さないのであれば、ましてや臣下が自由を重視することはなかった。(中略)日本人の心のなかで、何にもまして優先する義務感ゆえに、主君のためならば武士は妻やいとしい女をも犠牲に供したのであった。(山内久明「訳注」『漱石全集』第二十六巻一九九六年 岩波書店)
この英作文の記述には、当時の漱石の歴史認識の浅さからくる不十分さもありますが、「自由」を愛するイギリス人と「自由」を尊重する念に乏しい日本人とが対比的に示され、彼の前者に対する敬意と後者に対する批判的な心情が表れています。
▼1892(明治25)年4月5日
漱石、徴兵猶予の限切れを目前にして、北海道後志国岩内郡吹上町一七番地 (のち岩内町大字鷹台町五四番地)に移籍して、徴兵検査を免れる(徴兵忌避)。
半藤一利氏は、帝国大学文科大学を卒業した十五人のうち、三人の本籍が北海道で、その一人が夏目金之助であった、漱石の場合は、兄の直矩の配慮で、三井物産の御用商人、浅岡仁三郎に依頼したものであることを指摘しています(『漱石先生ぞな、もし』)。
さて、漱石の徴兵忌避は、「確固たる思想的立場に立っての行為ではなかった」(覇石先生ぞな、もし』)としても、単に安逸をむさぼるためにした行為ではなかった。
彼はそれまでの生活や学習の中で「自由を愛する自分の天性」(「文展と芸術」)を育ててきました。また、前述の兵式体操の体験などによって、日本の軍隊が個人の尊厳を無視した組織であることを感じとっていました。
彼は、自分自身が「個性の発展」(「私の個人主義」)によって社会に貢献するためには、国家が強制する兵役の義務(明治憲法第二十条)を忌避してもかまわないと考えたのです。漸石はすでにこの頃から、基本的には国家の意思よりも個人の意思を尊重する「個人主義」(「私の個人主義」)の立場に立っていたといえるでしょう。
▼1892(明治25)年10月
漱石、『文壇に於ける平等主義の代表者「ウォルト、ホイツトマン」 Walt Whitman の詩について』を「哲学雑誌」に発表。
「『ホイットマン』で彼が力説するのはその「平等主義」である。時間的には過去も未来もなく平等であり、空間的には社会に格差を認めない。「人間を視ること平等に山河禽獣を遇すること平等なり」「表面上の尺度」を廃して、「他人の奪ふべからざる身体なり精神」に従って立つ人こそ「親愛する」に足ると言うのである。「銭なきを恨むな衣食足らざるを嘆くな大敵と見て恐るゝな味方寡(すく)なしとて危ぶむな。智を磨くは学校なり之を試みんとならば大道に出でよ吾れ無形の智者を証する能はざるも智自ら之を証せん」の条(くだ)りは、「「ホイットマン」の処世の方法」と記しながら、漱石がその代弁者として自分の生き方を予見している感がある。
もう一つ注目すべきは、彼がホイットマンの「霊魂説」に同調していることである。彼は晩年には、死の際までその存在を信じようとしていた。彼にとって「死」は肉体の消滅であり、「精神」はその後も語り続けるのである。」(岩波新書『夏目漱石』)
▼1892(明治25)年12月
単位取得のための課題論文「中学改良策」
「固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。既に(国家の為めに)といふ目的ある以上は、金を得る為めにと云ふも名誉を買ふ為めにといふも或は慾を遂げ情を慈まにする為に教育すといふも、高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至っては竜も異なる所なし、理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し其天賦の徳性を洒養するに過ぎず。つまり人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず」
漱石の教育観は、政府・文部省が推進していた国家目的達成の手段としての教育という考えとは全く異なったものでした。
しかし、一方で、漱石は次のようにも述べています。
「列国の中に立って彼我対等の地位を保つ以上は国家は何処迄も万代不朽なるを葉はざるべからず(中略)世界の有様が今のまゝで続かん限りは国家主義の教育は断然廃すべからず」
漱石は、教育の本来的な目的を各個人の人間的諸能力の発達に求めましたが、「列国」が対立抗争し不平等条約の改定が課題となっているわが国の現状では、同時に「国家主義の教育」の必要を認めざるを得なかったのです。しかし、その理由は、あくまで日本が他国と「彼我対等の地位を保つ」ためであって、他国を植民地や従属国として支配するためではありませんでした。
つづく