2025年5月31日土曜日

マスク氏、トランプ大統領の選挙活動支援中に大量の薬物摂取-NYT (Bloomberg) / マスク氏、薬物大量使用か - 米紙報道、記者会見で回答せず(共同) / マスク氏、トランプ氏の「友人であり続けたい」目の周りにあざの奇妙な別れ(AFPBB) / BBCニュース - 「息子に殴れと言って殴られた」、マスク氏の顔にあざ 米政権での「最終日」に会見            

 


〈Google翻訳〉 

「彼はケタミンを過剰摂取し、膀胱に影響が出ていると周囲に話していました。エクスタシーや幻覚剤のキノコも摂取していました。また、毎日服用する薬箱には20錠ほどの錠剤が入っており、その中には覚醒剤のアデロールの刻印があるものも含まれていました…」






 

トランプ米大統領、自身の弁護士を高裁判事に指名(ロイター)

大杉栄とその時代年表(511) 1904(明治37)年5月16日~26日 「日露の交戦は日本帝国の安全と東洋永遠の平和とを図り、世界の文明、正義、人道のために起れるものにして毫(ごう)も宗教の別、人種の異同・に関する所なし。……ここに相会し各自公正の信念を訴え、相ともに奮ってこの交戦の真相を宇内に表明し、以て速かに光栄ある平和の克復を見んことを望む。」(大日本宗教家大会)

 

上野彦馬の撮った後藤象二郎(横浜美術館)

大杉栄とその時代年表(510) 1904(明治37)年5月15日 ロシアの画家ヴェレシチャーギン(2終) 「広瀬中佐の戦死、マカロフ提督の溺死、各々其国の主戦論者をして賛美せしめよ、吾人平和主義者は茲に満腔の悲痛を以て平和画家ヴェレスチャギンの死を弔せずんばあらず」「戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり」(中里介山「嗚呼ヴェレスチャギン」) より続く

1904(明治37)年

5月16日

大日本宗教家大会。仏・キリスト・神・儒各派代表戦勝祈願。国策支持を決議

(仏教派)石川素童、大内青巒、南条文雄、村上専精、前田慧雲、島地黙雷、関太渓、菅了法、境野哲、その他

(キリスト教派)井深梶之助、本多庸一、小崎弘道、江原素六、海老名弾正、その他

(神道派)千家尊弘、平田盛胤、その他

(儒教派)井上哲次郎、柿崎正治、その他

大会宣言

「日露の交戦は日本帝国の安全と東洋永遠の平和とを図り、世界の文明、正義、人道のために起れるものにして毫(ごう)も宗教の別、人種の異同・に関する所なし。……ここに相会し各自公正の信念を訴え、相ともに奮ってこの交戦の真相を宇内に表明し、以て速かに光栄ある平和の克復を見んことを望む。」

この頃の宗教家の状況

一世の師表を以て任ずる松村介石の雑誌『警世』は「五十万の陸兵、三十万トンの船艦、吾人が平生膏血を絞りて工面しおくは何のためぞ」と叫ぶ。

山路愛山の雑誌『独立評論』は「ベテルプルグに筒向けて」とうたい、「恨みを報ゆるときは今」と意気ごむ『進軍曲』を掲げる血眼ぶり。

5月16日

(漱石)

「五月十六日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講議する。

五月十七日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

五月十九日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。」(荒正人、前掲書)

5月17日

砲艦「赤城」、砲艦「大島」に衝突。「大島」沈没。旅順港外では、駆逐艦「暁」触雷沈没。12日以降、戦艦2・巡洋艦1を含む艦艇7隻を喪失。東郷司令長官は「艦隊行動ヲ当分延期ス」と示達。

5月17日

仏、ジャン・ギャバン、誕生。

5月18日

韓国、露韓条約と豆満江・鴨緑江岸におけるロシアの森林伐採権特許を破棄。

5月18日

モロッコでペルディカリス事件。英米艦隊がタンジールに。

5月19日

独立第10師団、大孤山に上陸

5月20日

永井龍夫、東京に誕生。

5月20日

中国人労働規定がプレトリア(南アフリカ)で発令。

5月21日

カンボジアでシソワット王即位。

5月22日

清国、蘇報事件、結審。章炳麟は監禁3年、鄒容は2年に。

5月22日

職業写真師上野彦馬(66)、没。坂本龍馬・後藤象二郎・伊藤博文などを撮影。

5月23日

第2軍の配備

第4師団(小川又次中将)は金州北方の十三里台子駅の西側

第1師団(伏見宮貞愛中将)は同駅の東側

第3師団(大島義昌中将)は第1師団の南東から大寚口北西岸に至る地域

5月23日

第2回国庫債券発行規定公布。1億円を予定。利率5分。

5月23日

(漱石)

「五月二十三日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

五月二十四日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

五月二十六日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。」(荒正人、前掲書)

5月24日

清国、赤十字会開設。

5月25日

午前0時頃、第2軍3師団(第4、1、3師団)、南山攻撃の運動開始。

午前3時30分、南山砲台射程外地帯に達する。

午後8時30分、第4師団第19旅団(安東少将)、金州城夜襲、失敗。第8連隊第1大隊長藤岡銑次郎少佐、暗夜の同士討ちで没。

5月25日

第3軍司令官乃木希典中将ら司令部員37名、参内。

27日、乃木中将、広島に向う。

29日、東京で待機の第3軍参謀津野田是重大尉に「第3軍戦闘序列」など公布。津野田は広島に向う。

30日、乃木長男戦死の報、広島の乃木に届く。

5月26日

未明、第2軍第1師団第1旅団(松村少将)、金州城攻略、陥落。乃木希典中将長男乃木勝典少尉戦死。金州城のロシア軍は、第4師団の夜襲失敗につづいての第1師団の夜襲により、未明のうちに南山に退却。


つづく

2025年5月30日金曜日

昭恵さんとプーチン氏面会、林官房長官「コメントする立場にない」「渡航はやめていただくよう国民に求めている」(読売) / プーチン氏、昭恵氏と面会 安倍氏を「忘れぬ」 対日関係改善模索か(朝日) / 安倍昭恵氏は戦争犯罪人の宣伝に加担している。          

大杉栄とその時代年表(510) 1904(明治37)年5月15日 ロシアの画家ヴェレシチャーギン(2終) 「広瀬中佐の戦死、マカロフ提督の溺死、各々其国の主戦論者をして賛美せしめよ、吾人平和主義者は茲に満腔の悲痛を以て平和画家ヴェレスチャギンの死を弔せずんばあらず」「戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり」(中里介山「嗚呼ヴェレスチャギン」)

 大杉栄とその時代年表(509) 1904(明治37)年5月15日 ロシアの画家ヴェレシチャーギン(1) 1877~78年、露土戦争に従軍。司令官副官の地位と軍内で自由に行動する権利を与えられ、シプカ峠の戦いを目撃。プレヴェン攻略戦では自身の兄弟が戦死、また自身も重傷を負う。この悲惨な戦いは彼の世界観を変えるものだった。 より続く

1904(明治37)年

5月15日 

ロシアの画家ヴェレシチャーギン(2)

以後、彼は平和主義者として、戦争の悲惨さを現地でのスケッチを基にした写実的な絵画で表現してゆく。戦争を描いた彼の絵には死者、負傷者、略奪、野戦病院、雪に埋まった兵士の遺体などがよく登場し、普段絵画や美術に関心のない人々をも惹き付けた。

また彼の民主主義的思想は、移動派に近いものだった。それまでの英雄礼賛だった戦争絵画に、哲学的な意味を持たせるようになった。

連作が多く、トルキスタン遠征(1871年‐1874年)、露土戦争(1877‐1878年、1880年以後)、ナポレオン・ボナパルトの侵攻を迎え撃った祖国戦争をテーマに描いたものがある。特に後者からはボロジノの戦いを描いた代表作『ボロジノのナポレオン』が生まれている。

『ボロジノのナポレオン』(1897年)

彼の絵は戦争をテーマとしている故にプロパガンダに利用されることもあった。代表作『戦争の結末』は頭蓋骨の山を描いたものであるが、1980年に出版されたアルメニア人虐殺について書かれた本の表紙に「1916年、西アルメニアにおけるトルコによる残虐行為」というキャプションをつけて掲載され、後にヴェレシチャーギンの作品であることが判明している。

1878年、「シプカの戦場」「敗北。パニヒダ」制作

シプカの戦場

敗北。パニヒダ

1878~79年、「戦争捕虜の道」「敗戦のレクイエム」制作


1880~88年、ペテルブルク, パリ, ロンドン, ベルリン, その他ヨーロッパ諸都市で個展を開催。

1881~82年、オーストリア・ハンガリー帝国首都ウィーンや、ドイツ首都ベルリンなどに長期旅行。湯治で滞在中のドイツ西部のバート・エムスでは、聖アレクサンドラ教会の祭壇にキリストの復活を描いた。

1882~83年、2度目のインド旅行

1883~1884年、シリアやパレスチナにも足を延ばす。

パレスチナの聖地を訪れた彼は、キリストの生涯を描いた一連の作品で、それまでの西欧におけるヨーロッパ化されたキリスト像ではなく、現地で実際に見聞した風俗や風景を描きこんだ自然主義的な手法を用い、キリストを中東の人間として描いて物議を醸した(但し正教会のイコンは西欧の絵画とは違い、元々、中東の人間としてキリストを描いている)。

1887~88年、ロシアの古い諸都市への旅。

1888年、アメリカ合衆国での最初の個展。

1891年、モスクワへ戻る。

1894年、北ロシア周遊旅行。

1897年、「ボロディノの丘のナポレオン」制作(ナポレオン・シリーズ)

1899~1900年、「ボロディノの戦いの終わり」制作(ナポレオン・シリーズ)

1901~02年、フィリピン, アメリカ合衆国, キューバへ旅行。

1903年、日本への旅。2ヵ月ほどの滞在の間に、東京、京都、日光などを訪ね、101点近い絵画を制作。

日本女性
1904年、日露戦争が勃発すると、彼はロシアの租借地で、軍港と要塞があった旅順に移る。ここで、旅順艦隊司令長官ステパン・マカロフに招待され、その旗艦である戦艦「ペトロパヴロフスク」に乗り込み、戦争の風景を描いていた。

4月13日「ペトロパヴロフスク」は日本軍の敷設した機雷に接触。触雷からわずか数分で火薬庫が爆発したため、マカロフやヴェレシチャーギンはじめ乗組員のほとんどが戦死した。ヴェレシチャーギン最後の作品となったマカロフの幕僚会議の様子を描いたスケッチが、波間に漂っているところを無事拾われたという。

『平民新聞』第27(5月15日)号

「露国高名の画家にして常に戦争の惨禍を描き人類平和の理想を実現せしむるに尽力せしヴェレスチャギン氏が、旅順に於てマカロフ氏と倶に溺死せしは吾人の哀悼に堪える所」「満州を視察して一たび欧州に帰り大に戦争の非を論じ、戦争起るに及んで再び旅順に来り遂に戦争の犠牲となれるなれき」


中里介山「嗚呼ヴェレスチャギン」

「広瀬中佐の戦死、マカロフ提督の溺死、各々其国の主戦論者をして賛美せしめよ、吾人平和主義者は茲に満腔の悲痛を以て平和画家ヴェレスチャギンの死を弔せずんばあらず」「戦争の悲惨、愚劣を教えんとして、而して戦争の犠牲となる。芸術家としての彼は其天職に殉じたる絶高の人格なり」とその死を惜しんだ。


『平民新聞』第32(6月19日)号

「露国非戦主義画家、故ベレシチャーギン氏」の肖像画を載せている。描いたのは、アララギ派の短歌運動に参加して斎藤茂吉の歌集「赤光」にさし絵を寄せた日本画家の平福百穂。


秋水

「実にトルストイが文章を以てせし説教を、丹青の技を以てなしたりき、彼はトルストイと共に露国の人なるも或意味に於て世界の人なりき、露国暴なりと雖も猶ほ如此き人を生して其軍艦中に伴へりき、吾人は此点に於て露国の大を認めざる能わず」と、ベレシチャーギンの人道主義と、その軍内での活動を許容したロシアという国の度量の大きさをたたえている。

1906年、日露戦争直後、徳富蘆花はパレスチナからロシアへ旅をして、帰国後『順礼紀行』を書く。ロシアでの主目的はトルストイを訪問することだった。

蘆花は、ヴェレシチャーギンについては、サンクト・ペテルブルクで主に『ナポレオン・シリーズ』を、モスクワで『トルキスタン・シリーズ』を見たとある。蘆花が最も深い印象を受けたのは、『ナポレオン・シリーズ』のなかの『モスクワを前に ~ロシア貴族代表団を待ちつつ~』であった。

対ロシア戦の緒戦に勝利したフランス軍は、いよいよモスクワを占領する。モスクワの西南にある丘(「雀が丘」と呼ばれる)の上に立ち、ナポレオンは町を眺める。モスクワ川と、その先に広がるロシアの古都の輝き。クレムリンの黄金の塔……。

ナポレオンは、征服者に慈悲を乞い願うロシア貴族の代表団を待つ。だが、使者は来ない。ロシア側はモスクワを捨て退却、町はもぬけの殻だった。交渉すべきロシア貴族すらもいなかった。

「唯ただ余が記憶に残れるは、奈翁ナポレオンが雀が丘に立って莫斯科モスクワを下し見る絵なり。兵士は小さく帽をささげて歓呼するに、奈翁ナポレオンは大きく手を背うしろにして黙然と丘に立ち、莫斯科モスクワ夢の如く下に隠見いんけんす。蓬々はらはらたるもの奈翁ナポレオンの腰を掠かすむ。砲煙か、焚火たきびの煙か、雨煙か分明ならず。余は此の一幅に「勝かちの哀かなしみ」を示されぬ」――。

蘆花はロシアで実見した絵画のうち、例えばレーピンほどにはヴェレシチャーギンを評価していない。代表作の『戦争の結末』についても、「一将功成いっしょうこうなりて万骨ばんこつ枯るる髑髏しゃれこうべの山は、浅露せんろに過ぎ……(中略)あまりセンセーショナルなるの難あるべし」と、なかなかに手厳しい。ショッキングなメッセージ性について、蘆花は表現として直接的に過ぎ、芸術としての深みが不足するように感じたものらしい。

その蘆花をして感心せしめたのが、『ナポレオン・シリーズ』の『モスクワを前に ~ロシア貴族代表団を待ちつつ~』だった。

絵を鑑賞したのみならず、実際に雀が丘を訪ねてもいる。蘆花はかつてその場所に立ったナポレオンを思い、そしてその姿を描いたヴェレシチャーギンの絵に思いを馳せる。

「莫斯科モスクワは夢の如く隠見す。奈翁ナポレオンが此処ここに立ちしより百年過ぎぬ。雄図一決ゆうといっけつ何の残る所ぞ。此世このよの国を追う者は皆如斯かくのごとし、唯ただ空くうを攫つかむ。ヱレシチャギン(註 オリジナル本では「ヱ」に濁点を付す)を思い出でて、悵然ちょうぜんと佇たたずむ折から、ほとり近き茶亭にマンダリンの女が弾くツィガン(ジプシー)の曲物哀しく、腸はらわたを断たむとす」――。


つづく


遺族年金でも重要な変更点 妻の“生涯受け取り”見直し 2000万円支給減も(テレ朝) / 「2336万円もらえるはずが365万円に」政府の年金制度改革法案で「遺族年金」の給付水準が大幅カット 「保険料を減らす」「支給期間を有期にする」など民間保険会社ならありえない変更(マネーポストWEB) ; 夫に先立たれた時に60歳未満の妻は遺族年金を5年間しかもらえなくなる      

教諭の残業、香川県に賠償命令 「初判断」専門家評価(共同通信) ; 「驚きの判決です。 …給特法の規定により残業時間の認定は困難ですが、休憩時間の場合には給特法は関係なく、労基法が適用されます。」(内田良)

米政権、ハーバード大留学生受け入れ資格剥奪を一時撤回 30日の猶予(ロイター) / トランプ氏「留学生の名前を教えろ」 ハーバード大への圧力強める(毎日) / ハーバード大学、トランプ政権を提訴...…留学生受け入れ資格の取り消しに「憲法違反」と非難(ニューズウィーク日本版) /  <ハーバード大は訴状で、留学生受け入れ資格剥奪は合衆国憲法および連邦法の「明白な違反」かつ同大に対する「報復措置」と主張> / 米連邦地裁はハーバード大の留学生受け入れ資格剥奪を一時差し止める決定を下した(時事) / 米ハーバード大の留学生受け入れ禁止を決定 トランプ政権圧力強める(毎日);「大学の収入源を断つことで支配力を強めようとしている」 / トランプ政権、ハーバード大への留学阻止 在校生は転出要求(日経); Think!欄「リベラルな学術界と保守的な政権、留学生・移民を重視するグローバル主義と、排外的ナショナリズム派との深まる価値観の分断の象徴と化している。」 / “ハーバード大への留学不可に” 米国土安全保障省が発表(NHK) / 米政権、ハーバード大の留学生受け入れ資格停止 在学生には転学要求(CNN)





 

図書館が多く、充実している街ほど要介護者が少ない 高齢者7万人調査で明らかに 図書館が多く、蔵書が多い街ほど、介護が必要になる人が少ないことが、高齢者7万人を7年間追跡した調査でわかりました。お金がない人でも通えるため、高齢者の健康格差を縮小する効果も期待されます。 (岩永直子)

 

2025年5月29日木曜日

大杉栄とその時代年表(509) 1904(明治37)年5月15日 ロシアの画家ヴェレシチャーギン(1) 1877~78年、露土戦争に従軍。司令官副官の地位と軍内で自由に行動する権利を与えられ、シプカ峠の戦いを目撃。プレヴェン攻略戦では自身の兄弟が戦死、また自身も重傷を負う。この悲惨な戦いは彼の世界観を変えるものだった。 

 大杉栄とその時代年表(508) 1904(明治37)年5月10日~15日 5月15日 午前1時40分、南三山島沖。第3戦隊「春日」、「吉野」に衝突。「吉野」沈没。吉野艦長佐伯大佐以下死者318人。 午前11時38分、第1戦隊「初瀬」、旅順港外で触雷、曳航中更に触雷。副長森中佐以下死者496人。 「初瀬」救援作業中の「八島」も触雷。曳航中沈没。死者なし。政府は5日間これを公表せず。 より続く

1904(明治37)年

5月15日

ロシアの画家ヴェレシチャーギン(1)


ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン(1842年10月26日~1904年4月13日)


ロシア帝国ノヴゴロド州チェレポヴェツに、豪農の息子として生まれる。

1850年(8歳)、陸軍幼年学校に入学。

1853年、サンクトペテルブルクの海軍幼年学校に入学。

1858~59年、フリゲート「カムチャッカ」号で海外訓練航海に出る。西ヨーロッパやエジプトを訪問。

1860年、海軍幼年学校卒業するが任官拒否。

1860~63年、ペテルブルク藝術アカデミーで学ぶ。優秀な成績だったが、授業方法を退屈に思い3年で退学。

1863~65年、カフカス(コーカサス)に二度旅行。ティフリス(トビリシ、ジョージアの首都)に長期間滞在する。

1864~66年、パリで1年間修行。エコール・デ・ボザールに学び、ジャン=レオン・ジェロームに師事する。画家としてはフランス派に属し、精密な描写・鋭い造形、そして柔らかで明るいカラフルな色調の組み合わせを特徴とした。

1867年、コンスタンティン・フォン・カウフマン将軍によるトルキスタン(中央アジア)遠征に従軍し、サマルカンド攻撃などを目撃。

1868年、カウフマン将軍の後援でトルキスタンをテーマとした個展を開催した。

1868年、「アフガニスタン人」「お祝い」制作

アフガニスタン人

お祝い

1869年、「ゴルゴダの丘の夕べ」制作

ゴルゴダの丘の夕べ

1869~70年、「アラタウ山にて」制作

1870年、ドイツ帝国ミュンヘンに滞在し、従軍中に描き溜めたスケッチや研究を絵画として完成させる。彼の関心は戦闘場面よりもむしろ中央アジアのエキゾチックな建築や風俗に向けられた。

1871年、「戦争の結末」「鷹を手にするキルギスの狩人」制作(トルキスタン・シリーズ)

戦争の結末

鷹を手にするキルギスの狩人

1873年、「致命傷」制作(トルキスタン・シリーズ)

1874~76年、インドに長期旅行、イギリスに植民地支配されるインドの実態を見聞する。「ボンベイのバニヤ(貿易商)」制作

1874年、サンクト・ペテルブルクでのヴェレシチャーギンの展覧会で「忘れられし者」を見たムソルグスキーは衝撃を受け、同名の歌曲を作曲

1874年、芸術アカデミー教授に招請されるが拒絶。

1875年、「夕景のヒマラヤ」制作

1877~78年、露土戦争に従軍。司令官副官の地位と軍内で自由に行動する権利を与えられ、シプカ峠の戦いを目撃。プレヴェン攻略戦では自身の兄弟が戦死、また自身も重傷を負う。この悲惨な戦いは彼の世界観を変えるものだった。


つづく

2025年5月28日水曜日

鎌倉アジサイ散歩 北鎌倉古民家ミュージアム 「あじさいの小径とあじさい展」 2025-05-28

 5月28日(水)晴れ

北鎌倉古民家ミュージアムの「あじさいの小径とあじさい展」(5/22~7/6)に行ってきた。

100品種位のアジサイがあるそうだが、まだ時期的には早いこともあってか、開花してないものや十分に発色してないものも多いが、ワタクシ的には十分楽しめた。

以下、説明抜きの写真のみで。




















ホワイトハウスのリーヴィット報道官:アメリカに必要なのは電気工事士や配管工であって、ハーバード大でLGBTQを専攻した大学院生はいらない。これがトランプ政権の立場です。

トランプの誤算 一方的な関税に日本が「壮大で見事な」抵抗(Forbes JAPAN);「トランプのチームに対する石破の「壮大で見事」な抵抗は、世界でもっと評価されていい。それは韓国やシンガポール、インドネシアといったほかのアジア諸国にとって、「ディール」を必要としているのはアジア側以上にトランプだということを思い出させるものだ。アジア諸国が交渉を長引かせるほど、トランプは英国型の名ばかりの貿易協定に走る可能性が高まる。」

アメリカ陸軍のマーク・ミリー元大将・元統合参謀本部議長は、トランプを批判した報復で要人警護の対象から外され、機密情報へのアクセス資格も取り消された。彼の士官学校卒業生への挨拶「我々軍人が奉仕する相手は暴君や独裁者ではない。我々は憲法に誓いを立て、それを守るために命を捨てるのだ」

大杉栄とその時代年表(508) 1904(明治37)年5月10日~15日 5月15日 午前1時40分、南三山島沖。第3戦隊「春日」、「吉野」に衝突。「吉野」沈没。吉野艦長佐伯大佐以下死者318人。 午前11時38分、第1戦隊「初瀬」、旅順港外で触雷、曳航中更に触雷。副長森中佐以下死者496人。 「初瀬」救援作業中の「八島」も触雷。曳航中沈没。死者なし。政府は5日間これを公表せず。

 

軍艦吉野戦死者之碑

大杉栄とその時代年表(507) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その4終) 「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」(漱石の日記(1901(明治34)3月15日)) より続く

1904(明治37)年

5月10日

英探検家スタンレー(63)、没。

5月11

第2回国債募集について、政府・資本家懇談会開催。

5月11

江見水蔭『武装乃巻』(博文館)。明治36年12月20日から4月22日までの間に「二六新報」に発表した戦争短編52作を纏めて刊行。

水蔭による自序。


注意!!!

一 文士も亦(また)武装せざる可らず、と叫びて起ちたるは、こたびを初の見参にあらず。今を去る十年の一(ひ)ト音、彼の日清戦役の際には『水雷艇』と『速射砲』との二巻を著はし、過ぎつる北清事件の折には『突貫』一冊を編出して、聊か報国の誠を述べ、戦争の美を世に伝へつ。

二 此時の文士は多く筆を収め、一人の戦争を記する者無し。武装せざる批評家の面々、我を包囲して、汝、際物師よ。と、攻撃の激烈さ、忘れんとしても忘られず。こたびも亦同じ非難の声の繰返へさるべきは、覚悟の上なり。

三 一たびは忍ぶべし、二たびは辛くも忍ぶべし、三たび我面に唾するあらば、我、断じて忍び能はず。我は其批評家に向ひて、戦を挑むに躊躇せざるべし。そは筆の先にて、ならず。土俵へ来い!!!

四 材料には、事実あり、想像あり、事実に想像を加へたるあり、想像の事実に合(がつ)したるあり、合せざるあり、事実の後に知れて、前の想像の甚しく違(たが)へるを発見すれども、其儘にして改めざるあり。我は其改めざるに重きを措く者なり。

五月

怒涛庵記


売れ行きは芳しくなく、水蔭は自分が未だに「二六派」(=露探疑惑)と見なされているという圧迫感を感じた。

5月12

大連湾付近掃海中、第3艦隊所属水雷艇「第48号艇」触雷沈没。死者7人。開戦以来初の沈没船艇。

5月13

清・英間で南非州保工章程(移民協定)成立。南アフリカ向け中国人労働者「苦力」斡旋を認可する労働協定。

20日、中国人労働規定がプレトリア(南ア)で発令。

5月13

清国の慶親王、内田康哉公使の追求で露清密約(1896年6月3日)の存在を認める。6月24日内示。

5月13

参謀総長大山元帥、児玉案を上奏。

5月14

第3艦隊所属通報艦「宮古」、大連湾で触雷沈没。死者1人・傷者21人。

5月14

アルバート・アインシュタイン長男ハンス・アルバート、誕生。1973年カリフォルニア・バークレーで没。

5月15

第2軍、金州城・南山方面へ前進を開始

5月15

午前1時40分、南三山島沖。第3戦隊「春日」、「吉野」に衝突。「吉野」沈没。吉野艦長佐伯大佐以下死者318人

5月15

午前11時38分、第1戦隊「初瀬」、旅順港外で触雷、曳航中更に触雷。副長森中佐以下死者496人

午前10時15分、「初瀬」救援作業中の「八島」も触雷。曳航中沈没。死者なし。政府は5日間これを公表せず。

5月15

チベット、英に宣戦。

5月15

『平民新聞』第27号発行

「露国社会民主党の檄文」(「世界之新聞」欄)

この年2月16日、ロシア社会民主労働党のウラジミル・イリッチ・レーニンは、檄文「ロシア・プロレタリアートに訴える」を執筆し、ロシア社会民主労働党中央委員会の名によって発表。クルブスカヤによると「それは、当地(ジュネーブ)では配布せずに、再刷のためにトムスク、モスクワ、オデッサ、ペテルブルグ、サマラ、サラドフ、ニジニー、エカテリノスラフに送りました。」とある(1904年2月29日付のゼムリヤチカとガリべリン宛の手紙)

当時、メンシェヴィキが占拠していた党機関紙『イスクラ』3月18日付、第61号にもこの檄文は転載され、5月15日の『平民新聞』第27号の「世界之新聞」欄に、「露国社会民主党の檄文」と題して紹介された。

「露国における吾人の同志『露国社会民主党』の中央委員は近日露国労働者に向って長篇の檄文を頒布せり、檄文は先づ戦争の開始せる事、日本の連勝せる事、露国は内に大兵を徴し、外に公債を募りて、国力を竭尽(けつじん)せんとする事、而も今回の危機は七十七年度の露土戦争の比に非ざることを警告し且つ曰く

然れども思へ、露国労働者及び農夫は抑も何の為めに戦ひつつある乎、露国政府が摑収し、若くは摑取せんとせる満州及び朝鮮の為め乎・・・、政府は是等地方に砲台を置けり築港を為せり鉄道を敷設せり数万の軍隊を集中せり、而も露国平民は爾く多くの鮮血と苦痛とを値いして併呑せる是等地方より何の得る所ある乎、露国労働者及び農夫に取りては、戦争は唯だ新たなる害悪を齎(もたら)すのみ多数生命の損傷、無数家族の零落新たなる負担新たなる課税を齎すのみ、露国軍人及びツアール政府の眼中に戦争は軍国的光栄を期待せん、露国商人及び富豪製造家には戦争は其商品の新市場を得、商業の発達に資すべき不凍港を得るが為めに必要ならん、然れども餓たる露国の労働者及び農夫は、売るべき品物を有する乎、外国市場の必要ある乎、思へ露国資本家の富は露国労働者を困窮、零落せしめて得たる所にあらずや、而して今や更に彼等資本家をして亦た清朝鮮の労働者を圧制掠奪して其富を増加せしめんが為めに露国労働者は鮮血を濺(そそ)がざる可らず?

資本家の利己=其国を売り其国を零落せしめて得たる所にあらずや、而して今や更に彼等資本家をして亦た清朝鮮の労働者を圧制掠奪して其富を増加せしめんが為めに露国労働者は鮮血を濺がざる可らず?

資本家の利己=其国を売り其国を零落せしめて私利を摑まんとする資本家の利己の為めに、此罪悪なる戦争は煽起せられて、莫大の害毒は労働者の頭上に下らんとす、凡ての人権を蔑(ないがしろ)にし、国民を奴隷の域に置かんとする政府の専制政策は、露国人民の生命財産を以て此危険なる賭博の賭品に供せり、而して斯く狂乱せる軍国的叫喚に対し、財嚢及び武力の奴隷なる『愛国心』の表現に対して、吾人自覚せる社会民主党は、十倍の気力と、『独裁政治を顚覆せよ』てふ喊声を以て進まざる可らず、而して立憲的国民議会を召集せしめよ

檄文は其結論に於て曰く

ツアールの政府が軍国的冒険の無謀なる政策は、今や余りに深入りせり、若し戦争勝利を得るも国力は全く涸渇すべし而して戦勝の効果は列国の干渉に依て消滅せしめらるゝこと猶ほ日清戦役後に於ける日本の如くならん、之に反して戦争敗北に帰せんか、第一に今日の人権を無視せる政府 - 圧制暴力を基礎とせる政府組織は其根底より破壊さるゝに至らん 風を蒔ける者は、台風を収穫す

而して其末尾の一句は実に左の如し

世界に於ける資本家制度の桎梏を脱却せんが為めに奮闘せる万国労働者の兄弟的結合万歳! 戦争に反対して抗議せる日本社会民主党万歳! 殺人者及び恥辱なる独裁政治を顚覆せよ

吾人は読で茲に至って一掬同情の涙を禁ぜず、亦遙かに此語を以て寄す ”Long live The Russian Social  Democracy, which protested  against The war !(戦争に抗議せるロシア社会民主党万歳)」

中里介山「嗚呼ヴァレスチャギン」、4月13日の旅順口の海戦でマカロフ中将と共に戦死したロシアの画家ヴァレスチャギンを追悼。

雑誌「日本人」でも煙山専太郎がその死を悼む。

ヴェレスチャギンは平和主義を抱懐し、戦争の惨害を描くに畢生の心血をそそいでいた。

雑誌『日本人』に煙山専太郎がその死を傷んだ一文によれば、彼は極東における日露関係切迫するや戦争の非を公言し、政府に勧むるに満洲を撤兵しウラジオストークと旅順とを連結させる一帯の土地を割く代りに、東清鉄道を北京政府に与えるべき提案を以てした。そして廟堂の反動派がロシアは売らんがために鉄道を布いたのではないというと、彼はアレクサンドル2世がアラスカ半島の紛争の根源たるを見るや、遂にこれを米国に売却した先例があるではないかと反駁した。彼は平和の理想家たるのみでなくして、実際問題としてもまた大いに非戦論を唱えた人だった。"

中里介山の投稿「鳴呼ヴェレスチャギン」

「……彼が筆になる奈翁モスクワを望むの図と髑髏の三角塔との写真版を得て常に感歎おかざる所のもの。前者は一世の梟雄が小丘の上に立ちて雲煙模糊の間、モスクワの都府を瞰下し、我れ来り、我れ見、我れ勝てりの愉快を胸に湛へて得意満面悠然として立てる者。安んぞ知らん、清野の一計は脆くもコルシカの健児をして十万の餓死と凍死を擁して退陣のやむ能はざるに至らしむることを。戦争の愚劣と悲惨、この一幅に表現せられて遺憾なし。…、・・後者はただ見る累々たる幾千の髑髏、山を成して転た酸鼻を極むる処、乱鴉低く飛んで残肉を猟らんとす、『一将功成万骨枯』の状、写し得て凄絶……。日露事起るや、彼はこの高尚なる使命のためマカロフが客となりて適々その旗艦にあり、図らずも今回の災に遭ふ。……」


註)「ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン」に関しては次回にもう少し詳しく触れることにする。


つづく

さよならトランプ、米研究者が海外脱出 揺らぐ「知の大国」 - 日本経済新聞(有料記事)

 

伝説のチェリスト、ヨーヨー・マがトランプ大統領が管理するケネディ・センターを避け、他の会場で演奏すると発表したことを受けて、MAGA界は彼に対して激怒している。 我が国の最高のアーティストたちは、このファシスト大統領とは一切関わりを持ちたくないようだ、、、、、

 

 

〈ツイート全文と自動翻訳〉

BREAKING: MAGA world erupts in rage at legendary cellist Yo-Yo Ma after it's announced that he will be avoiding the Trump-controlled Kennedy Center in favor of other venues.

It turns out that our nation's best artists want nothing to do with this fascist president...

According to The Washingtonian, the Washington Performing Arts booking organization are avoiding placing talent at the John F. Kennedy Memorial Center for the Performing Arts for the foreseeable future.

The Kennedy Center has seen an exodus of top talent in recent months as Donald Trump has fired roughly two dozen board members and stocked it with MAGA loyalists, including Richard Grenell as president.

A spokesperson for the Washington Performing Arts stated that they "will not utilize The Kennedy Center" because they are aiming to "thoughtfully match artists and their work with venues that best serve the art, the audience, and the moment."

They added that they "assessed the variety of artists and performances we have in this upcoming season and decided it was best to explore new spaces that offer fresh possibilities."

With the departure of the Washington Performing Arts, the Kennedy Center will lose out on other exciting performances as well. The organization announced "Sigourney Weaver and the Pacifica Quartet at Sixth and I for WPA’s annual Ruth Bader Ginsburg Memorial Concert, the Chicago Symphony Orchestra at Strathmore, Yo-Yo Ma at Strathmore, and Midori at Sixth and I."

This news comes as just the latest blow to the Kennedy Center, which has been hemorrhaging money and sinking in popularity since Trump first got his grubby hands on it.

Katy Waldman of the The New Yorker recently stated that "no matter how well or badly the center was doing before Trump, the Trump anti-Midas touch is in operation here, and now everything is worse.”

“Not only are ticket sales down, but donations have been paused, artists are pulling out. All of the spigots for money have slowed or have been turned off,” she added.

Please retweet and ❤️ if you stand with Yo-Yo Ma!


Googleによる英語からの翻訳

速報:伝説のチェリスト、ヨーヨー・マがトランプ大統領が管理するケネディ・センターを避け、他の会場で演奏すると発表したことを受けて、MAGA界は彼に対して激怒している。

我が国の最高のアーティストたちは、このファシスト大統領とは一切関わりを持ちたくないようだ...

ワシントン紙によると、ワシントン舞台芸術のブッキング組織は、近い将来、ジョン・F・ケネディ記念舞台芸術センターへのタレントの派遣を避けている。

ケネディ・センターでは、ドナルド・トランプ大統領が理事約24人を解雇し、リチャード・グレネルを理事長に据えるなどMAGA支持者を補充したことで、ここ数カ月で優秀な人材が流出している。

ワシントン・パフォーミング・アーツの広報担当者は、「アーティストとその作品を、芸術、観客、そしてその瞬間に最も適した会場と慎重に組み合わせる」ことを目指しているため、「ケネディ・センターは利用しない」と述べた。

彼らはさらに、「今シーズンのアーティストやパフォーマンスの多様性を評価し、新たな可能性を提供する新しいスペースを模索することが最善であると判断した」と付け加えた。

ワシントン・パフォーミング・アーツの撤退により、ケネディ・センターは他のエキサイティングな公演も失うことになります。同センターは「WPAの毎年恒例のルース・ベイダー・ギンズバーグ追悼コンサートでシガニー・ウィーバーとパシフィカ・カルテットがシックスス・アンド・アイで、シカゴ交響楽団がストラスモアで、ヨーヨー・マがストラスモアで、ミドリがシックスス・アンド・アイで」と発表しました。

このニュースは、トランプ大統領が最初に不正に関与して以来、資金が流出し人気が下降しているケネディ・センターにとって、最新の打撃となる。

ニューヨーカー誌のケイティ・ウォルドマンは最近、「トランプ政権以前に中道がどれだけ好調であったか、あるいは悪かったかに関係なく、トランプの反ミダス的な影響がここに作用しており、今ではすべてが悪化している」と述べた。

「チケットの売り上げが落ちているだけでなく、寄付も停止され、アーティストも公演を中止しています。資金の流入経路はすべて縮小、あるいは閉鎖されているのです」と彼女は付け加えた。

ヨーヨー・マを支持するならリツイートして❤️ください!



独首相、ガザ攻撃「もはや理解不能」 異例のイスラエル批判(時事); ドイツのメルツ首相は独公共放送とのインタビューで、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザへの攻撃について「何が目的なのか、もはや理解できない」と異例の批判を展開しました。 / 独首相、イスラエルに異例の厳しい警告 「もはや理解できない」(AFPBB) / イスラエル批判に慎重だったドイツ政府すらガザ攻撃を非難...「一線を越えた」(ニューズウィーク日本版)  

 

首相メルツは昨日の批判に続き、今日も「もはや、イスラエルの生存権を守り、ハマスのテロと戦うために絶対に必要なこととは思えない」とイスラエルを批判。
 
これに続いてドイツ出身のEU委員長フォンデアライエンも「正当化されない」と発言。 

さらに、ヴァーデフール外相は、「反ユダヤ主義に対する戦いとイスラエルの存在権や安全保障への完全なる支持が、現在ガザ地区で繰り広げられている紛争や戦争の道具にされてはならない」と痛烈批判。

 



 

2025年5月27日火曜日

大杉栄とその時代年表(507) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その4終) 「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ」(漱石の日記(1901(明治34)3月15日))

 

漱石の日記(1901(明治34)3月15日)

大杉栄とその時代年表(506) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その3) 「固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。既に(国家の為めに)といふ目的ある以上は、金を得る為めにと云ふも名誉を買ふ為めにといふも或は慾を遂げ情を慈まにする為に教育すといふも、高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至っては竜も異なる所なし、理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し其天賦の徳性を洒養するに過ぎず。つまり人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず」(「中学改良策」) より続く

1904(明治37)年

5月10日 

漱石「従軍行」について(その4終)

▼1895(明治28)11月13日付け子規宛て手紙

「近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」ど書く。

反日親露派の専横な王妃が暗殺され、親日政権ができたことを、日本にとって「ありがたき」「出来事」と感じていた。当時の新聞の虚偽報道や彼自身の朝鮮認識の浅さが見て取れる、

▼1901(明治34)3月15日 ロンドンの漱石


「三月十五日(金)、日本人は中国人といわれると嫌がる。中国人は日本人よりも遥かに名誉ある国民である。現在は不振である。日本人と呼ばれるよりも、中国人と呼ばれるほうが名誉だと思ったほうがよいと記す。(「日記」)」(荒正人、前掲書)


3月15日 この日付け漱石の『日記』。


「日本人ヲ観テ支那人卜云ハレルト厭ガルハ如何。支那人ハ日本人ヨリモ遙カニ名誉アル国民ナリ。只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈淪セルナリ。心アル人ハ日本人卜呼パルゝヨリモ支那人卜云ハルゝヲ名誉トスベキナリ。仮令(タトヘ)然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ。少シハ考へテ見ルガヨカラウ。西洋人ハヤゝトモスルト御世辞ニ、支那人ハ嫌ダガ日本人ハ好ダト云フ。之ヲ聞キ嬉シガルハ世話ニナツタ隣ノ悪口ヲ面白イト思ツテ自分方ガ景気ガヨイト云フ、御世辞ヲ有難ガル軽薄ナ根性ナリ

▼1901(明治34)3月27日 ロンドンの漱石


「三月二十七日(水)、 Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊している常陸丸の立花銑三郎より手紙あり、病気帰国の途中なので直ちに見舞う。容態悪い。立花銑三郎と同船の医学士望月淳一と渡辺雷を British Museum (大英博物館)と National Gallery (ナショナル・ギャラリー)に案内する。夜、渡辺雷来る。(立花銑三郎のことをさらに話したものと思われる)領事館の諸井六郎(推定)が examiner (試験委員)の件で来訪する。」(荒正人、前掲書)


3月27日 漱石、ドイツへ留学していた旧友立花銑三郎をアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に見舞う。日記には「気の毒限ナシ」とある。


「・・・・・立花銑三郎は肺を病み、帰国中の常陸丸からその旨を知らせてきた。漱石はすぐにアルバート・ドッグに入港中の常陸丸に彼を見舞った。どう見ても重病で、立花はその後、香港を出てすぐに船中で死亡した。ドイツで立花と親しかった藤代素人(禎輔)の回想「夏目君の片鱗」に、立花の句として真偽不明の話が残っている。おそらく漱石が立花を見舞ったときの発言らしいが、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」と、立花はドイツ留学仲間の芳賀に一句を残したというのである。芳賀からそれを聞いた藤代は、ロンドン近辺にうろつく「片々たる日本の軽薄才子の言動に嘔吐を催ほして居た」漱石の言と解している。(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))


「立花銑三郎は、常陸丸で Albert Dock (アルバート埠頭)に停泊中に芳賀矢一に手紙を出す。そのなかに、「戦争で日本負けよと夏目云ひ」という句を書き添えている。日本とロシヤの戦争が近いことを知り、ロンドンに来ている日本人の生活を皮肉ったものと思われる。(藤代禎輔(素人)「夏目君の片鱗」『漱石全集』月報第五号 昭和三年七月 岩波書店)

"

"▼1901年04月09日付け子規宛て手紙(「倫敦消息其一」(「ホトトギス」5月号))


日本の紳士が徳育、体育、美育の点において非常に欠乏しているという事が気にかかる。その紳士がいかに平気な顔をして得意であるか、彼らがいかに浮華であるか、彼らがいかに空虚であるか、彼らがいかに現在の日本に満足して己らが一般の国民を堕落の淵ふちに誘いつつあるかを知らざるほど近視眼であるかなどというようないろいろな不平が持ち上ってくる。」


「西洋の新聞は実にでがある。始からしまいまで残らず読めば五六時間はかかるだろう。吾輩はまず第一に支那事件のところを読むのだ。今日のには魯国新聞の日本に対する評論がある。もし戦争をせねばならん時には日本へ攻め寄せるは得策でないから朝鮮で雌雄(しゆう)を決するがよかろうという主意である。朝鮮こそ善い迷惑だと思った。


▼1902年3月15日付け岳父中根重一宛て手紙

ロンドンでは、日英同盟締結に尽力した林董公使の労を謝するために在留日本人たちが記念品を贈呈することになり、寄付金が徴収された。漱石も5円の寄付金を納める。漱石は、本国やロンドン在留の日本人が、日本もこれで西欧列強の仲間入りを果たしたと考えて喜んで浮かれている事大主義や成上り根性に、嫌悪を覚えていた。。


「三月十五日(土)、中根重一宛手紙に、計画している著書の具体案洩らす。「先づ小生の考にては『世界を如何に観るべきやと云ふ諭より始め夫より人生を如何に解釋すべきやの問題に移り夫より人生の意義目的及び其活力の變化を論じ次に開化の如何なる者なるやを論じ開化を構造する諸原素を解剖し其聯合して發展する方向よりして文藝の開化に及す影響及其何物なるかを諭ず』る積りに候」。日英同盟・西洋文明・キリスト教・フランス革命などにもふれ、「カールマークスの所論の如きは單に純粋の理窟としても缼點有之べくとは存候へども今日の世界に此説の出づるは當然の事と存候」。なお前年に続いて、「日夜讀書とノートをとると自己の考を少し宛かく」とも書く。」

「漱石は、 Marx の『資本論』を日露戦争以前に読んだ極めて少数の一人である。但し、全巻ではなく、第一巻だけであったと推定される。池田菊苗から数えられたものではないがと推定される。池田菊苗は、 Leipzig (ライブチッヒ)に留学していた頃、人類について根本的な勉強をしたいと思っていた。長男の池田醇一は、父親(菊苗)が社会主義者であったこと、三男の池田兼六は帝国大学の学生時代に、『資本論』第一巻を読んだが、論旨が自分の思想と余り違うので、最後まで読まなかったことを伝えている。また、長谷川如是閑は、明治三十三年から三十四年にかけて帝国図書館で、英訳『資本論』及びエンゲルス『空想的及び科学的社会主義』を発見し読んでみたが、極めて難解であったという。」(荒正人、前掲書)

この日付け漱石の岳父中根重一宛て手紙

前半部分で、在留邦人たちの浄財を集める計画のもと、無理やりに5円を寄付させられたことを怒っている。非国民ともいわれかねない意見。そして世界一の大国イギリスとアジアの小国日本の同盟に狂喜している日本人の軽率な姿を「貧人と富家の縁組」と嘆いている。

自身の計画する著書の具体案を「世界を如何に観るべきやといふ論より始め」ると記す。


「(前略)日英同盟以後、欧州諸新聞のこれに対する評論一時は引きもきらざる有様に候ひしが昨今は漸く下火と相成り候ところ、当地在留の日本人ども申合せ林公使斡旋の労を謝するため物品贈与の計画これあり、小生も五円程寄附いたし候。きりつめたる留学費中ままかくのごとき臨時費の支出を命ぜられ甚だ困却いたし候。新聞電報欄にて承知致候が、此同盟事件の後本国にては非常に騒ぎ居候よし、斯の如き事に騒ぎ候は、恰も貧人が富家と縁組を取結びたる喜しさの余り、鐘太鼓を叩きて村中かけ廻る様なものにも候はん。

固より今日国際上の事は、道義よりも利益を主に致し居候へば、前者の発達せる個人の例を以て日英間の事を喩へんは、妥当ならざるやの観も有之べくと存候へども、此位の萌に満足致し候様にては、甚だ心元なく被存(ぞんじられ)候が如何の覚召にや。

「国運の進歩の財源にあるは申迄も無之候へは、御申越の如く財政整理と外国貿易とは目下の急務と存候。同時に国運の進歩は、此財源を如何に使用するかに帰着致候。只己のみを考ふる数多の人間に万金を与へ候とも、只財産の不平均より国歩の艱難を生ずる虞(おそれ)あるのみと存候。欧洲今日文明の失敗は、明かに貧富の懸隔甚しきに基因致候。此不平均は幾多有為の人材を年々餓死せしめ、凍死せしめ、若くは無教育に終らしめ、却つて平凡なる金持をして愚なる主張を実行せしめる傾なくやと有候。幸ひにして平凡なるものも今日の教育を受くれば一応の分別生じ、且耶蘇教の随(ママ)性と仏国革命の殷鑑遠からざるより、是等庸凡なる金持共も利己一遍に流れず、他の為め人の為に尽力致候形跡有之候は、今日失敗の社会の寿命を幾分か長くする事と存候。日本にて之と同様の境遇に向ひ候はゞ(現に向ひつゝあると存候)、かの土方人足の智識文字の発達する未来に於ては由々しき大事と存候。カールマークスの所論の如きは、単に純粋の理窟としても欠点有之ぺくとは存候へども、今日の世界に此説の出づるは当然の事と存候。小生は固より政治経済の事に暗く候へども、一寸気焔が吐き度なり候間、斯様な事を申上候。「夏目が知りもせぬに」抔と御笑被下間敷候。・・・・・」

「漱石はマルクスの『資本論』を日露戦争前に読んだ極めて少数の一人、但し、第一巻だけであった」(荒正人『漱石研究年表』、岩上順一『漱石入門』など)との推定もあるが読んだ確証はない。漱石の蔵書中の英訳『資本論』には、漱石のよくやる書込みやアンダーラインなどは認められていないので、漱石のマルクス所論言及は、「関係文献からの間接的知識によると考えた方が自然」(藤尾健剛「漱石とクロージャーとマルクス」)ともいわれている。

漱石蔵書の『資本論』には、漱石がよく古本を購入したロンドンのチャリング・クロス通りの書店ミラー・アンド・ギルのラベルが貼付されており、池田菊苗と議論していたころ買い求めたとも考えられる。

▼1902年6月8日の漱石「ノート」

ボーア戦争(南アフリカへの帝国主義戦争)終結を祝うイギリスを見て

全国ノ寺院ニテ thanksgiving ヲ行フ自ラ戦端ヲ啓(ひら)キ自ラ幾多ノ生命ヲ殺シ、自ラ鉅万(きよまん)財ヲ糜(ついや)シ而シテ神二謝ス何ヲ謝セントスルヤ馬鹿々々シキコトナリ。

と不快な思いを吐き出す。

▼漱石は、前年(明治36年)9月から大学で『英文学概説』(のち『文学論』1907年刊)を講じていた。

その第1編第3章で次のように述べる。


「親の為めに川竹に身を沈め、君侯の馬前に命をすつるは左迄難きことにあらず、親は具体的動物にして、君侯は耳目を具有し活動する一個人なるを以てなり。されども身を以て国に殉ずと云ふに至りては其真意甚だ疑はし。国は其具体の度に於て個人に劣ること遠し。これに一身を献ずるは余りに漠然たり。抽象の性質に一命を賭するは容易のことにあらず。若しありとせば独相撲に打ち殺さるゝと一般なり。故に所謂かく称する人々は其実此抽象的情緒に死するにあらず、其裏面に必ず躍如たる具体的目的物を樹立しこれに向って進み居るものとす。」


人が「身を以て国に殉ず」というとき、「其真意甚だ疑はし」い。なぜなら、人工的な統治機構である「国」という「抽象の性質」のものに命を賭けるのは容易なことではないからで、彼はこのような表現によって、政府やマスメディアが個人に殉国を強いることを批判した。


つづく



2025年5月26日月曜日

トランプ一族、仮想通貨漬け 政権への危うい裏口ルート(日経) ワシントン支局長 河浪武史 有料記事)

不祥事(労働者いじめ、下請けいじめ)続きのシャトレーゼ → 甲府労基署 違法な時間外労働か シャトレーゼを書類送検() / シャトレーゼ下請け法違反認定 再発防止など求める勧告 公取委(NHK)

開示請求者によって文書の有無を使い分ける財務省 → 財務省が「欠落」としていた森友文書74点、一部見つかった 赤木雅子さんの開示請求への説明と食い違い(東京)

移民をエルサルバドルの刑務所に誤送還している国土安全保障省長官クリスティ・ノーム「人身保護令状」の意味を知らないことを大公開。 ノーム「人身保護令状は大統領が国民を国外退去させることができる憲法上の権利」 上院議員「間違ってます」「人身保護令状は、国民を拘留したり投獄したりする場合に、政府が公的な理由を示すことを要求する法的原則。その保護がなければ政府はアメリカ国民を含む人々を逮捕し、理由もなく無期限に拘留することができるだろう」

国防総省の報道官となった女性、過去にネオナチが振りまく反ユダヤ主義の宣伝に一役買ったと報じられている。(ガーディアン) / 国防総省の報道官となった26歳のキングスレー・ウィルソン。極右系コメンテーターで元トランプ顧問のスティーブ・コルテスの娘。もともと陰謀論系極右のポッドキャスターとして活動。人種差別と陰謀論の人物で、プーチン賛美。 ただし反ユダヤで、米国のイスラエル支援に反対

 

大杉栄とその時代年表(506) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その3) 「固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。既に(国家の為めに)といふ目的ある以上は、金を得る為めにと云ふも名誉を買ふ為めにといふも或は慾を遂げ情を慈まにする為に教育すといふも、高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至っては竜も異なる所なし、理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し其天賦の徳性を洒養するに過ぎず。つまり人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず」(「中学改良策」)

 

帝国大学時代の漱石(1892年12月)

大杉栄とその時代年表(505) 1904(明治37)年5月10日 漱石「従軍行」について(その2) 「英文科の某君は”こんな拙いものを書かれては我等英文科の名誉を汚がす”と酷評した。純然たる時代思想に便乗した平凡な客観詩である。夏目先生に不むきな題材だと思った。」(金子健二『人間漱石』) より続く

1904(明治37)年

5月10日 

漱石「従軍行」について(その3)

次に、漱石の社会や国家、戦争やそれらに関連する事柄に対する考え方が窺える文章などを見てゆく。

▼1888(明治21)年5月(第一高等中学校予科一級)

英作文「討論 ー 軍事教練は肉体錬成の目的に最善か?」


「諸君、軍事教練は私にとっては辛すぎる訓練であります。それは、私と反対の立場に立つ弁士が格別ご指摘のように、私が虚弱だからという理由によるものではなく、それが強制的、つまり、私の意志に反して私に訓練を課するという理由によるものであります。(中略)

私は軍事教練という名前を聞いただけで、虫酸が走ります。軍事教練において、われわれは、形こそ人間でも、鈍感な動物か、機械的な道目おごとく遇されるのであります。われわれは、奴隷か犬のように扱われるのであります。しかしながら、いったい誰が、犬のように卑屈に尻尾を振り、手を舐めるでありましょうか。(中略)

結論として、次のように申し上げたい。われわれにとって最善の訓練とは、競艇、跳躍、ランニングや、スポーツ競技、野外でのゲームなど、何であれ最高の喜びと、楽しみと、快適さを与えてくれるもののことである、と。」(山内久明「訳注」、前掲書)


大学予備門・第一高等中学校時代の漱石は、いろいろなスポーツを楽しみました。友人たちの回想によって、水泳、競艇、野球、庭球、登山、乗馬などを試みたことがわかります。器械体操が上手であったことについては、多くの証言があります。また、松本亦太郎の思い出によれば、意外なことに、「兵式体操の鉄砲扱いがうまかった」そうです。

漱石は、表面的には兵式体操を「うま」くこなしながら、心の中では、このような嫌悪の念を育んでいたのです。この英作文には、人間を「動物」や「道具」や「奴隷」や「犬」のように扱い、教官に対する絶対服従を強いるだけで自主独立の精神を育てない軍隊的行動様式の訓練に対する、淑石の強い批判的な思想や心情が表れています。


▼1889(明治22)年5月

第一高等中学校教頭木下広次が校長に昇任すると、学校当局は国粋主義派を支持する態度を明らかにしはじめる。木下はのちに法学博士、京城帝国大学総長。

この頃、第一高等中学校生徒のあいだに国粋主義を標榜する結社が生れた。漱石は勧誘されてこの結社に加入したが、積極的な行動はとらなかった。子規もまた漱石と同じであった。


「近頃我高等中学校に道徳会ともいふべきものを起す人あり。余にもすすめられたれど、余は之に応ぜざりき。漱石も亦異説を唱へたり。其言に曰く、「余は今、道徳の標準なる者を有せず、故に事物に就(つい)て善悪を定むること能はず。然るに今道徳会を立て道徳を矯正せんといふは、果して何を標準として是非を知るや。余が今日の挙動は其瞬間の感情によりて定むる者なり。されば昨日の標準は今日の標準にあらず」と。余の説も略々(ほぼ)これに同じ。今日善とする者果して善なるか。今日非とする者果して非なるかを疑ふ者なり。」(正岡子規『道徳の標準』-明治二十二年の断片-)

国家は大切かも知れないが、さう朝から晩迄国家々々と云つて恰も国家に取り付かれたやうな真似は到底我々に出来る話でない。常住座臥国家の事以外を孝へてならないといふ人はあるかも知れないが、さう間断なく一つ事を考へてゐる人は事実あり得ない。豆腐屋が豆腐を売つてあるくのは、決して国家の為に売つて歩くのではない。根本的の主意は自分の衣食の料を得る為である。然し当人はどうあらうとも其結果は社会に必要なものを供するといふ点に於て、間接に国家の利益になつてゐるかも知れない。是と同じ事で、今日の午(ひる)に私は飯を三杯たべた、晩には夫を四杯に殖やしたといふのも必ずしも国家の為に増減したのではない。正直に云へば胃の具合で極めたのである。然し是等も間接の叉間接に云へば天下に影響しないとは限らない、否観方によっては世界の大勢に幾分か関係してゐないとも限らない。然しながら肝心の当人はそんな事を考へて、国家の為に飯を食はせられたり、国家の為に顔を洗はせられたり叉国家の為に便所に行かせられたりしては大変である。国家主義を奨励するのはいくらしても差支ないが、事実出来ない事を恰も国家の為にする如くに装ふのは偽りである」(『私の個人主義』)

党派心がなくつて理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作つて、権力や金力のため盲動しないといふことなのです。夫だから其裏面には人に知られない淋しさも潜んでゐるのです。既に党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行く丈で、さうして是と同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。其所が淋しいのです。」(『私の個人主義』)

▼1890(明治23)年6月

英語教師ジェイムズ・マードックに提出のレポート”Japan and England in the Sixteenth Century""teenthCentury3(「16世紀における日本とイギリス」)には、国民の「自由」の権利を大幅に制限した明治憲法に対する彼の疑問や批判が、間接的ながら表れていると考えています。

漱石は、その第一節「政治・社会状況」において、イギリスは十五世紀の終りに「封建主義の果てしない廃墟のあとに絶対王制が樹立されるという事態に見舞われ」、「テユーダー王朝の王侯たちの専制支配に対して一時は屈辱的に萎縮した」が、その後、「自由の精神を追求してその究極に偉大な三つのことをなし遂げた。すなわち、国王は議会の同意なしにいかなる法律も定め得ず、国王は法に従って治世を行わねばならず、万一それに惇(もと)れば閣僚が責任を負わねばならぬのである。これらの特権こそは、イギリス国民の誇りとするところである」と述べました。

「偉大な三つのこと」というのは、国王と議会との長年の対立を議会の勝利で終らせ、一六八九年にウィリアム三世に承認させ制定された「権利章典」の内容を、マコーリーの『英国史』第一巻(一八四九年刊)によっておおまかに記したものです。漱石は、英作文の中で、この名誉革命をなし遂げたイギリス国民を、「不屈な意志をもち、強く自由を愛する国民」として称賛しています。

一方、「封建制度が最盛期の日本の場合」については、こう述べています。

孔子の教えに従って、忠誠こそ人類が身につけうるもっとも高貴にして純粋な美徳であると、人々は叩き込まれていた。日本の臣民が保有した富、田地田畑をはじめすべて、それどころか生命までもが、主君の意のままになった。主君みずからが個人的自由を意に介さないのであれば、ましてや臣下が自由を重視することはなかった。(中略)日本人の心のなかで、何にもまして優先する義務感ゆえに、主君のためならば武士は妻やいとしい女をも犠牲に供したのであった。(山内久明「訳注」『漱石全集』第二十六巻一九九六年 岩波書店)

この英作文の記述には、当時の漱石の歴史認識の浅さからくる不十分さもありますが、「自由」を愛するイギリス人と「自由」を尊重する念に乏しい日本人とが対比的に示され、彼の前者に対する敬意と後者に対する批判的な心情が表れています。

▼1892(明治25)年4月5日

漱石、徴兵猶予の限切れを目前にして、北海道後志国岩内郡吹上町一七番地 (のち岩内町大字鷹台町五四番地)に移籍して、徴兵検査を免れる(徴兵忌避)

半藤一利氏は、帝国大学文科大学を卒業した十五人のうち、三人の本籍が北海道で、その一人が夏目金之助であった、漱石の場合は、兄の直矩の配慮で、三井物産の御用商人、浅岡仁三郎に依頼したものであることを指摘しています(『漱石先生ぞな、もし』)。

さて、漱石の徴兵忌避は、「確固たる思想的立場に立っての行為ではなかった」(覇石先生ぞな、もし』)としても、単に安逸をむさぼるためにした行為ではなかった。

彼はそれまでの生活や学習の中で「自由を愛する自分の天性」(「文展と芸術」)を育ててきました。また、前述の兵式体操の体験などによって、日本の軍隊が個人の尊厳を無視した組織であることを感じとっていました。

彼は、自分自身が「個性の発展」(「私の個人主義」)によって社会に貢献するためには、国家が強制する兵役の義務(明治憲法第二十条)を忌避してもかまわないと考えたのです。漸石はすでにこの頃から、基本的には国家の意思よりも個人の意思を尊重する「個人主義」(「私の個人主義」)の立場に立っていたといえるでしょう。


▼1892(明治25)年10月

漱石、『文壇に於ける平等主義の代表者「ウォルト、ホイツトマン」 Walt Whitman の詩について』を「哲学雑誌」に発表。


「『ホイットマン』で彼が力説するのはその「平等主義」である。時間的には過去も未来もなく平等であり、空間的には社会に格差を認めない。「人間を視ること平等に山河禽獣を遇すること平等なり」「表面上の尺度」を廃して、「他人の奪ふべからざる身体なり精神」に従って立つ人こそ「親愛する」に足ると言うのである。「銭なきを恨むな衣食足らざるを嘆くな大敵と見て恐るゝな味方寡(すく)なしとて危ぶむな。智を磨くは学校なり之を試みんとならば大道に出でよ吾れ無形の智者を証する能はざるも智自ら之を証せん」の条(くだ)りは、「「ホイットマン」の処世の方法」と記しながら、漱石がその代弁者として自分の生き方を予見している感がある。

もう一つ注目すべきは、彼がホイットマンの「霊魂説」に同調していることである。彼は晩年には、死の際までその存在を信じようとしていた。彼にとって「死」は肉体の消滅であり、「精神」はその後も語り続けるのである。」(岩波新書『夏目漱石』)

▼1892(明治25)年12月

単位取得のための課題論文「中学改良策」

「固より国家の為めに人間を教育するといふ事は理屈上感心すべき議論にあらず。既に(国家の為めに)といふ目的ある以上は、金を得る為めにと云ふも名誉を買ふ為めにといふも或は慾を遂げ情を慈まにする為に教育すといふも、高下の差別こそあれ其の教育外に目的を有するに至っては竜も異なる所なし、理論上より言へば教育は只教育を受くる当人の為めにするのみにて其固有の才力を啓発し其天賦の徳性を洒養するに過ぎず。つまり人間として当人の資格を上等にしてやるに過ぎず

漱石の教育観は、政府・文部省が推進していた国家目的達成の手段としての教育という考えとは全く異なったものでした。

しかし、一方で、漱石は次のようにも述べています。

「列国の中に立って彼我対等の地位を保つ以上は国家は何処迄も万代不朽なるを葉はざるべからず(中略)世界の有様が今のまゝで続かん限りは国家主義の教育は断然廃すべからず」

漱石は、教育の本来的な目的を各個人の人間的諸能力の発達に求めましたが、「列国」が対立抗争し不平等条約の改定が課題となっているわが国の現状では、同時に「国家主義の教育」の必要を認めざるを得なかったのです。しかし、その理由は、あくまで日本が他国と「彼我対等の地位を保つ」ためであって、他国を植民地や従属国として支配するためではありませんでした。


つづく