1904(明治37)年
2月
平出修(26)が東京地方裁判所弁護士に登録される。前月(1月)、司法官試補を辞任。
2月
北海道婦人同志会、「二十世紀の婦人」(今井歌子、川村春子編集)創刊。
2月
ポターペンコ、二葉亭四迷訳「四人共産団」(「文芸界」)2
2月
児玉花外「花外詩集」(自家版)
2月
東京日比谷公園に洋風喫茶店松本楼開店。
2月
女子学習院など、出征軍人家族慰問婦人会結成。出征兵士へ慰問袋を贈る。
2月
日露開戦に際し、長野県下の各村学校で男女同窓会開催。この頃、軍人や出征遺家族の援護のため村落で青年・婦人の組織化がさかん。
2月
トランスヴァール地方に、中国人契約労働者を導入。南アフリカの中国人労働者、ラントに移入。
2月
パルヴス、連続論文「戦争と革命」(『イスクラ』)。トロツキーに大きな感銘を与える。
2月1日
参謀総長大山元帥、開戦決定建白書を天皇、内閣に提出。
2月1日
フィリピン、タフト、陸軍長官就任のため総督を辞任。後任にライト。
2月2日
青山学院の神学部、高等科、青山女学院英文専門科が旧制専門学校として認可を受ける。
2月2日
イタリアのラブリオーラ、没(1843年7月2日~)。
2月3日
午前5時、旅順口港のロシア軍艦・駆逐艦、訓練のため出港。
2月3日
午前9時25分、栗野駐ロシア公使の公電。前日、外相ラムスドルフと会見、対日回答の皇帝裁可までに2~3日を要すとの回答。
午前10時、伊藤・山県・大山・松方・井上の5元老、山本海相・小村外相・寺内陸相、首相官邸に集合。翌日の御前会議で開戦決定に合意。
午後4時25分、桂・小村、参内。小村は栗野公使にロシアへの回答督促は不要と連絡。
2月3日
山本海相、参謀山下大佐にロシア艦隊攻撃指示「大海令第一号」を持たせ佐世保派遣。開封は別名電による。
2月3日
桂太郎首相、元老5人(伊藤、山縣、松方、井上、大山参謀総長)および山本権兵衛海相、小村寿太郎外相、寺内正毅陸相と首相官邸に会し、開戦を決意すべきことを決定。
2月3日
石川啄木(19)・堀合節子、婚約。母カツ、堀合家に結納を持参。
2月3日
「日進」、石炭を積み込みシンガポール発。
続いて「春日」への積み込み開始。4日午後8時、出港。
2月3日
在米社会主義者岩佐作太郎・赤羽一ら、片山の渡米を迎え「社会党桑港支部」結成。
2月4日
対露開戦決定
午前中、閣議
午後2時25分~4時30分、御前会議。
出席者:枢密院議長伊藤博文、枢密顧問官山縣有朋元帥、参謀総長大山巌元帥、枢密顧問官松方正義、枢密顧問官井上馨(以上、元老)、首相桂太郎大将、海相山本権兵衛中将、蔵相曾禰荒助、外相小村寿太郎、陸相寺内正毅中将。
対露交渉中止・国交断絶を決定。
午後8時、山本海相、竹敷・佐世保・呉軍港に対しロシア艦隊が敵意を示すときは「直二之ヲ撃破スベシ」と下命。
午後9時30分、参謀本部、第12師団長井上光中将に韓国派遣部隊の派遣下命。
夜、枢相伊藤博文、子爵金子堅太郎に米の日本支援工作のため渡米要請。
金子は一晩の猶予をもらって考えるが、米国説得の自信は持てない。伊藤は金子に、「今度の戦争は、陸海軍ともに成功の見込みはない。日本は国を賭して戦うわけで、勝敗は眼中にはない。露軍が大挙して九州海岸に来襲することとなれば、自分も卒伍に列し、武器をとって奮闘するつもりだ」と説いてアメリカ行きを納得させる。
2月4日
肺結核予防令公布。
2月5日
韓国臨時派遣隊(第23旅団長木越安綱少将指揮「コロク隊」2,252人、佐世保東方東浦で輸送船に乗込み。
午前11時、山本海相・伊東軍令部長・伊集院次長ら参内、「大海令第一号」裁可。
(既に軍令部参謀山下源太郎大佐に持参させ、第三艦隊参謀長中村静嘉大佐と東郷聯合艦隊司令長官に、封密命令として手交済み)
「露国ノ行動ハ我ニ敵意ヲ表スルモノト認メ、帝国艦隊ヲシテ左ノ行動ヲ収(と)ラシメラル。
一、聯合艦隊司令長官並ニ第三艦隊司令長官ハ、東洋ニ在ル露国艦隊ノ全滅ヲ計ルベシ。
二、聯合艦隊司令長官ハ速ニ発進シ、先ヅ黄海方面ニ在ル露国艦隊ヲ撃破スベシ……。
三、第三艦隊司令長官ハ、速ニ鎮海湾ヲ占領シ、先ヅ朝鮮海峡ヲ警戒スベシ」
午後1時30分、山本海相、東郷司令長官(58)・第3艦隊司令長官片岡七郎中将に、午後5時に密封命令の開封指示。
更に、海相は、各鎮守府司令長官・要港部司令官に作戦命令発出を伝え、佐世保と韓国南西岸の八口浦、対馬と韓国・鎮海湾を結ぶ海底電線敷設を指示。
軍令部長伊東大将、東郷・片岡両司令長官に対し、「其ノ行動及目的等ハ内外ニ対シ極メテ秘密ニ保ツ」よう注意を与え、京城の海軍武官吉田増次郎少佐に「義州府電信線」「元山津以北電信線」の切断を命じた。
午後2時、外相小村寿太郎は栗野慎一郎駐露公使に対して「日露交渉の断絶および帝国の独立行動に関し露国政府に通告するの公文訓令」(最後通告、国交断絶通告)を発し、ロシアからの引き上げを指示。
6日、公使はこれを直ちにロシア政府に伝えた。
2月5日
この日、「朝日新聞」は従軍のために佐世保軍港に待機させていた2記者(上野、吉村)に対する乗船不許可通告を海軍省から受ける。海軍は、どの新聞社にも従軍記者の乗船を許可しない方針で、陸軍は、報道各社に対して、一軍につき記者1名の従軍を許すのみ(陸軍は四軍編成で戦争に臨んだ)。
しかし、現実には従軍費用もかかるので、思うように記者を派遣できない新聞社も多い。
「読売新聞」は「記者多数特派」を紙面で予告したものの、現実には全軍合わせて1名しか記者を派遣できなかった。
「時事新報」は江森泰三、「中央新聞」は岡田雄一郎、「東京日日新聞」は岡本綺堂を従軍記者として派遣した。「中外商業新報」(「日本経済新聞」の前身)は特派員を出せず、海外新聞の記事から客観的情報を収集し、経済問題と絡めた紙面を構成した。
大資本の「朝日」は、記者を派遣できない地方新聞の枠を借りて一軍当たり複数の記者や写真技師を送り込み、当局もこれを黙認した。
「朝日」は、正式に許可を受けた第一陣特派員として、「大阪朝日」から鳥居素川と小林竜洲が第一軍に従軍。素川は5月半ば、「東京朝日」の小西海南と交代して帰国。
第二軍へは「東京朝日」より上野靺鞨、弓削田秋江が、第三軍へは「東京朝日」から半井桃水、「大阪朝日」から大村琴花が、第四軍へは「大阪朝日」の吉村胆南と「東京朝日」の熊谷飛熊夢が従軍した。さらに「朝日」は、その後の戦局の進展により、順次、各軍に従軍記者を増派した。彼らの活動によって「朝日」は部数を大いに伸ばすことになる。
また、画家の久保田金僊(きんせん)のように自費で従軍する者もいた(彼もまもなく「朝日」と契約し、戦地から戦場画を送るようになる)。
写実主義を唱える田山花袋も、まもなく博文館から従軍記者として派遣される。
2月5日
美濃部亮吉、東京に誕生。
つづく

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