2025年5月5日月曜日

大杉栄とその時代年表(485) 1904(明治37)年2月8日~9日 「彼の中に同居する異常性と正常性とはたえず綱引きを続けながら、それを文字化するときには異常を感じさせない表現を可能にするのである。菅や狩野ら親友は彼の病む心を感じることがあっても、彼がそれを露わに示すのは、鏡子や筆子ら妻子に対してだけだった。」(十川信介『夏目漱石』)

 

仁川沖海戦(巡洋艦「ワリヤーグ」、砲艦「コレーツ」)

大杉栄とその時代年表(484) 1904(明治37)年2月7日~8日 日本の憲法は、宣戦媾和の大事が天皇の大権によって決せられるべきことを規定す。然れども大権の未だ発動せざるの間、先づ之を決する者あるに似たり」、幸徳は、「誰か之を決する者ぞ」と問い、国民の與論か、立法部の議員か、行政部の官吏か、国務大臣かと問うて、「皆あらず」と答え、それは「銀行者と名づくる金貸業者」である。(社説「和戦を決する者」(『平民新聞第13号』)) より続く

1904(明治37)年

2月8日

「日露国交破る」(「読売新聞」)。最後通牒手交の報道。


「一昨日来時局問題の進行混沌として明ならず、人々皆形勢の必ず切迫すべきを信ずれども、然も、全然其の真相を解せず。世を挙げて五里霧中に在るの感あり。此の際に於て我社の探聞せる所大要左の如し。一昨日の小村ローゼン会見、風聞の如くローゼン男より会見を求めたるに非ず。小村外相より露国公使を招き『我政府は誠意を以て協商を遂げ、以て両国の国交を維持せんとせしも、貴国政府之を容れざるを以て、最早外交的関係を維持する能はざるは遺憾なり。此の結果として不測の事変に遭逢するも我政府は其責に任ずべきにあらず』云々の通告を為せしものなり。」

2月8日

石川啄木(19)、盛岡中学校時代の同級生で、アメリカのカリフォルニア州オークランドに住む川村哲郎に書簡を送り米国行の志望を伝える。

2月8日

(漱石)

「二月八日(月)、雪。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。寺田寅彦宛葉書に、「藤村操女子」と署名して、新体詩「水底の感」だけを記す。(英詩は、四月に一篇あるだけである。少し前から英語の散文書く)

二月九日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


「漱石が絵葉書に熱中したころ、彼の精神状態はまたまた悪化した。「藤村操女子」の名で「水底の感」が新体詩として作られたのは、そのころ(明治三十七年二月)とされている。


水の底、水の底。住まは水の底。深さ契り、深く沈めて、永く住まん、

君と我。

黒髪の、長さ乱れ。藻屑もつれて、ゆるく漾(ただよ)ふ。夢ならぬ夢の命か。

晴からぬ暗きあたり。

うれし水底。清き吾等に、譏(そし)り遠く憂透らず。有耶無耶の心ゆらぎて、

愛の影ほの見ゆ。


漱石は藤村の自殺の原因として、彼に恋人の存在があったことを知っていたらしいから、「藤村操女子」はその恋人の気持ちに仮託した名前である。漱石は前述のように下調べをしてこない藤村を叱責し、彼の死因に自分が関係したのではないかと心配したが、同級生(藤村がもう一過の遺書を残した藤原正か)に藤村の恋愛を聞いて、この詩を思い立ったのではないだろうか。ここには死の甘美な誘いに陶酔する彼の気持ちが込められているからである。恋人が水底から呼びかけるのはもちろん仮構である。『吾輩は猫である』の寒月は隅田川の底から「○○子」に呼びかけられ、水へ飛びこんだつもりだったが、逆に橋の上に落ちた。『夢十夜』第七校の西へ行く船中でも、彼は船から飛びこんで海中に没しかける夢を描くが、落下途中ではその行為を後悔している。明治四十一年の発表だから、彼の健康はほぼ回復している。彼の中に同居する異常性と正常性とはたえず綱引きを続けながら、それを文字化するときには異常を感じさせない表現を可能にするのである。菅や狩野ら親友は彼の病む心を感じることがあっても、彼がそれを露わに示すのは、鏡子や筆子ら妻子に対してだけだった。(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

2月8日

ペテルブルク、御前会議。午後、ニコライ2世はアレクセーエフ極東総督に訓電。ロシア側から積極的に開戦しないが、朝鮮半島西側海域で日本海軍が38度線を越えた場合は公海上でも攻撃せよという限定的開戦(攻撃)命令。

2月9日

仁川沖海戦

午前11時30分、ロシア軍艦2隻(巡洋艦「ワリヤーグ」、砲艦「コレーツ」)、仁川港外に出る。月尾島(ウオルビド)沖で日本第4戦隊(瓜生外吉中将)14隻が待ち構える。

午後0時20分、砲撃戦始まり、「ワリヤーグ」は被弾し左舷15度傾き、戦死30を出す。

午後1時頃、ロシア軍艦2隻は仁川港内に引返す。仏英伊艦から「ワリヤーグ」に医師派遣。

午後4時5分、「ワリヤーグ」艦長ルードネフ大佐は総員退去させ、2艦を自爆させ、

午後8時、湾内のロシア汽船「スンガリー」も自沈させる。3艦乗員725人は湾内にいた仏英伊艦船で本国送還。重傷者22人は日本(松山)赤十字病院で治療、後、本国送還。

(ルードネフ大佐は自爆を決意したが、他船に危事の及ぶのを避けて自沈を選び、乗員は在泊の外国諸艦に移乗させた。この彼の行為は英雄的と露国内外の賞賛を浴び、帰国後聖オルギー勲章四等が授与された。)

2月9日

仁川に上陸の韓国派遣隊2,200(旅団長木越守綱少将)、京仁鉄道で漢城に到着。市内を通り抜け南山の南に達する。

韓国の局外中立宣言はひとたまりもなく蹂躙される。

2月9日

極東総督アレクセーエフ大将、ウラジオストクの太平洋艦隊に日本艦船拿捕・日本朝鮮間の連絡路遮断を指示。巡洋艦「ロシア」以下4隻巡洋艦隊、日本沿岸へ示威行動に出港。

14日午後3時に戻る。

2月9日

熊本医学専門学校〔熊本医学校〕

2月9日

「万朝報」、「挙国一致の名の下に軽躁事を決し」、「外難の為めに内憂を培養」するなと呼掛け。

議会には、愛国心を利用して増税を断行する政府の監視を要請(2月26日)。

戦時財政計画の増税の過酷・行財政整理必要を指摘(3月19、20日)。

2月9日

小村寿太郎外相、各国駐剳の日本の公使に、清国の中立尊重の意向を通告することを訓令。

2月9日

ロシア、宣戦布告発表。

日本の「スネーク・アタック」(騙まし討ち)に対する「自衛」を強調。

つづく


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