2025年5月7日水曜日

大杉栄とその時代年表(487) 1904(明治37)年2月13日~14日 「鳴呼従軍の兵士、諸君の田畝は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚(よ)り、諸君の妻児は空しく飢に泣く。而して諸君の生還はもとより期すべからざるなり。しかも諸君は行かざるべからず、行け、行(ゆい)て……一個の自動機械となって動け。然れども露国の兵士もまた人の子なり、人の夫なり……諸君の同胞なる人類なり、これを思うて慎しんで彼等に対して残暴の行いあることなかれ。」(「兵士を送る」平民新聞2月14日)

 

日露戦争実記

大杉栄とその時代年表(486) 1904(明治37)年2月10日~12日 日露戦争は満州と朝鮮をめぐって勃発したが、それは今や東アジアにおけるヘゲモニーをめぐる争いになった。そしてこの戦争は、専制ロシアの世界的地位をめぐる問題にまで拡大し、最後には、全世界の政治的均衡を変えるにいたるだろう。  その最初の結果は、ロシア専制の倒壊であろう。」(パルヴス「資本主義と戦争」) より続く

1904(明治37)年

2月13日

第2回旅順口攻撃

日本連合艦隊、悪天候で引返す。ロシア巡洋艦「ボヤーリン」、浮遊機雷接触沈没。

12月13日

日本公使林権助・李址鎔外相(更迭されたが、後任の朴斉純駐清公使の着任まで代理)、日韓交渉再開。

2月13日

第2回社会主義婦人講演会。社会主義協会。堺利彦「家庭における階級制度」、西川光二郎「婦人問題の中心点」、幸徳秋水「婦人と戦争」、村井知至(ともよし)「日本婦人に対する二大迷想」。

この年1月に第1回開催(毎月1回)。従来は隔月の大演説会と月2~3回の小演説会。これに加えて婦人講演会開催。

常連は

①福田英子、②菅谷いわ子、木下尚江妹で金鶏ミルク辺見山陽堂夫人、③今井歌子・川村春子(北海道で婦人参政権運動で雑誌「二十世紀の婦人」発行、秋水は「女説客」と評す)、④寺本(後、小口)みち子、美容術の元祖、⑤松岡ふみ子(松岡荒村未亡人、後、西川光二郎夫人)・延岡ため子(後、堺夫人)、⑥神川松子・吉崎吉子、⑦菅野須賀子。

婦人の政治上の自由は明治23年(1890)の「集会及政社法」で婦人の政治上の自由は禁止され、明治33年(1900)の治安警察法に引き継がれ、婦人は政治演説会に出席することもできなかった。そこで、社会主義協会は政治演説会とは別に婦人講演会を開くことにした。

第1回はこの年(明治37年)1月に開かれ、この日は第2回目の開催。

この時は男子の入場を随意としたため、会場は早くから男子で一ばいになり、婦人は片隅におしこめられるしまつとなった。

そこで次回からは、男子は必ず婦人に同伴されることとしたので、婦人と男子とはほぼ同数、18位ずつとなった。

第4回以後は平民社の2階で、毎月第2日曜日の午後、会費5銭で、茶菓を食べながら、なごやかに開かれるようになった。


村井知至:

「村井は社会主義協会の前身、社会主義研究会の会長で当時は外国語学校の教授、著書には『社会主義』がある。その演説は用語が平易でユーモアに富み、当夜も社会主義と婦人との関係について「社会主義は実に婦人の心である。婦人が社会主義を聞いたならば、己れの心を盗んだものじゃないかと思うくらいである、婦人は実に社会主義に惚れ込むべき理由がある」と説くなど、聴く者を文字通り魅了する力をもっていた。

「村井君の演説は聴く人に、どうしても社会主義でなければならないような気を起させる。そのくせ、自分は学校なんかの関係で直接の運動はやれないが、皆さんはぜひやってくれというようなことを言うんだ」と、堺は別に非難の意味を含まない口吻で著者に語っていた。」(荒畑寒村『平民社時代』)

2月13日

新聞社は競って「美談」を報道

「三州豊橋なる歩兵第十八聯隊の兵卒となり、咋明治廿七八年の戦役に平壌にて玄武門を破り、勇名を轟かしたる原田重吉は、除隊後郷里にあり、既に後備役の期間も了(おわ)りたるが、今回の開戦に今一度従軍し戦闘に参与したしとて、同聯隊へ出願したるが多分採用せらるるならん」(「都新聞」2月13日)

原田重吉は、2月の時点では徴兵されないが、戦争が続くうちに兵員が不足し、9月には徴兵令が改正、後備役の年数が従来の5年から10年に延長され、数カ月後には本当に出征することになる。

2月13日

博文館、それまで町村公務員を対象に発行していた月刊雑誌「自治機関 公民之友」を「日露戦争実記」と改題、戦争報道専門雑誌とした。月三回発行の旬刊誌。さらにグラフ雑誌「日露戦争写真画報」も発行する。

「日露戦争実記」創刊号。巻頭には「宣戦の詔勅」とその解説、口絵写真では明治天皇とロシアのニコライ皇帝の肖像が、同等に掲げられている。記事は「仁川の海戦」「旅順の海戦」などの戦記報道、「開戦前の外交始末」「国交の断絶通知」「露国の戦線」「露領帝国民最後の引揚」といった時事解説が並ぶ。これに加えて、鳥谷部春汀(とやべしゆんてい)・国府犀東(こくぶさいとう)「日露危機十年史(両国開戦の由来)」や乾坤生(けんこんせい)「露帝ニコラス第二世」、田山花袋「アレキシース大将」、上田厳南「露西亜の陸軍」といった評論、随筆が続く。

2月13日

第1回国庫債券1億円発行規定公布。利率5分。

2月13日

シャム・仏協定締結。シャムと仏領インドシナの国境画定。ムループレイ、トンレ・ルプーなどが仏領に。

2月13日

オスマン帝国軍、アルバニア人1万千人とジャコバで衝突。

18日、オスマン帝国軍は反逆者800人をマケドニアで殺害。

2月13日

パナマ、米の干渉権を含んだ憲法を採択。

2月14日

ロシア皇帝、極東総督アレクセーエフ大将の要請により太平洋艦隊司令官スタルク中将を更迭、クロンシュタット鎮守府司令官マカロフ中将を新司令官に任命。

2月14日

第1軍(黒木為禎大将)主力(第2師団)、鎮南浦(大同江河口)上陸。

2月14日

函館に戒厳令。ロシアのウラジオストク艦隊が小樽・函館を攻撃との情報で、住民パニック。13日夕方には陸軍部隊が到着。

酒田、新潟など日本海沿岸の諸港では、ロシア軍艦をおそれて出港を中止する船舶が急増し、北海道は食糧、物資の不足の不安におそわれ、小樽市では一部銀行にたいする取付けも発生し、市中の商取引きはほぼ停止した。

2月14日

この日、旅順沖海戦の戦没者が発表されると、各社はその公式発表に加えて、戦没者の人柄や業績を伝える記事を掲載。

「大阪朝日新聞」では、最初の戦没者4人のうち、海軍中尉三浦容夫の妻綾子(17歳)の実家を訪ねて、父親に取材し、長文の訪問記を載せた。これが評判となったため、以降各社とも、競うようにして遺族の取材を行い、その訪問記を大きく掲載するようになる。

こうした訪問記は、遺族にとってもせめてもの慰めとなったようだ。新聞で大きく扱われるのが、戦没者ならびにその遺族の名誉であり、ひいては地元の名誉でもあるかのような雰囲気も形成されていった。

2月14日

『平民新聞』第14号発行。

一面トップの幸徳秋水の論説は、「戦争来」「兵士を送る」「戦争の結果」の三つに分けて書かれた。

最初の「戦争来」では「戦争既に来るの今日以後と雖も、吾人の口有り、吾人の筆有り紙有る限りは、戦争反対を絶叫すべし」といい切る。

第2社説「兵士を送る」では、兵士たちに「諸君今や人を穀さんが為めに行く」と呼びかけ、「然れども兵士としての諸君は、単に一個の自働機械也」と憐れむ。

第3社説「戦争の結果」では、戦争がもたらすのは増税であり、軍国主義の跋扈であり、物価の騰貴であり、風俗の堕落だ、と鋭く指摘し、「戦争の終るの日、汝の狂喜が必ずや変じて悔恨となるは、吾人今日においてこれを予言するに躊躇せず」と述べる。

「戦争来」

「戦争は遂に来れり、平和の擾乱は来れり、罪悪の横行は来れり、日本の政府は曰く、其責露国政府に在りと、是に由って之を観る、両国政府も亦戦争の忌むべく平和の重んずべきを知る者の如し・・・」

「…‥平和撹乱の責は両国の政府……つひにこれに任ぜざるペからず……吾人平民はこれに与からざるなり。然れども平和撹乱より生ずる災禍に至りては、吾人平民はその全部を負担せしめらるべし。……吾人平民は飽くまで戦争を否認せざるペからず、速かに平和の恢復を祈らざるべからず。……故に戦争すでに来るの今日といヘども、吾人の口あり吾人の筆あり紙ある限りは戦争反対を絶叫すべし。」

ロシアにおけるわれらの同胞平民もかならずまた同一の態度方法に出ることと信ずるものである。否、「英米独仏の平民殊に吾人の同志は益々競ふて吾人の事業を援助すべきを信ずる也。」

「兵士を送る」

「行け従軍の兵士、吾人今や諸君の行(こう)を止むるに由なし。

諸君今や人を殺さんがために行く、然らざれば即ち人に殺されんがために行く。吾人は知る、これ実に諸君の希う所にあらざることを。……諸君の行くは諸君の罪にあらざるなり、英霊なる人生を強いて自動機続となせる現時の社会制度の罪なり、吾人、諸君と不幸にしてこの悪制度の下に生まるるを如何せん。行け、吾人今や諸君の行を止むるに由なし。

鳴呼従軍の兵士、諸君の田畝は荒れん、諸君の業務は廃せられん、諸君の老親は独り門に倚(よ)り、諸君の妻児は空しく飢に泣く。而して諸君の生還はもとより期すべからざるなり。しかも諸君は行かざるべからず、行け、行(ゆい)て……一個の自動機械となって動け。然れども露国の兵士もまた人の子なり、人の夫なり……諸君の同胞なる人類なり、これを思うて慎しんで彼等に対して残暴の行いあることなかれ。

鳴呼吾人、今や諸君の行を止むるに由なし。吾人のなしうるところは、ただ諸君の子孫をして、ふたたびこの惨事に会するなからしめんがために、今の悪制度廃止に尽力せんのみ。諸君が朔北の地に奮進するがごとく、吾人もまた、悪制度廃止の戦場に向かって奮進せん。諸君もし死せば、諸君の子孫とともになさん。諸君生還せば、諸君とともになさん」


「戦争の結果」

「第一は幾千万、幾億万の公債に対する利息の負担……、第二に諸般会計の膨脹とこれに伴なう苛重の増税……、第三に軍国主義の跋扈(ばつこ)、軍備の拡張……、更に投機の勃興、物価の騰貴、風俗の堕落」をあげ、これらはみな日清戦役の後に経験すみの苦痛であって、それを日露戦役の後にふたたび繰返さんとするのであるかと論及する。

「鳴呼満洲もとるべし、朝鮮もとるべし、シベリアもとるべし、然れども吾人平民はこれらの地より何物をも得べからざるを如何せんや。・・・戦争終るの日、汝の狂喜が必ずや変じて悔恨となるは、吾人今日においてこれを予言するに躊躇せず。」


この頃、平民社へは「・・・『有楽町の露探殿』などと宛名して『早くニコライ(駿河台の聖公会寺院)の門番となれ』などと書いた葉書をよこすもあれば、『霹国を亡すに先だち予輩はまず汝らの首をはぬべし』などと恐ろしいことをいってよこした人もあった」(堺利彦)という。

2月14日

内村鑑三「日露戦争について」(英字新聞「神戸クロニクル」)。

2月14日

子爵金子堅太郎、渡米。対米工作、各地で講演会行う。


つづく

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