2025年7月31日木曜日

参政党の梅村みずほ、データを示して共産党の山添拓こそデマと指摘するも、データをよく見れば梅村こそがデマだとコミュニティのーとに指摘され、墓穴を掘る。他の件でも毎日喚き散らして悪あがきしてる。 / 参政党の梅村みずほ、他党議員から優しく諭すように説明されてるのに、政策で議論できないので、選挙で勝ったのはウチだとか、差別じゃなく区別だとかと反論。さすが、あの維新からも追い出されただけあるわな。 ; 「レベル低すぎる」参政党・梅村みずほ氏 政策議論の「朝生」で繰り返したマウンティングの「2文字」に疑問続出(女性自身) / 維新時代 「ウィシュマさんが詐病だった、それを否定できる事実はありますか?」  ⇒  参政党移籍 「私自身がウィシュマさんが詐病だったって言った事は一度もないんです」     

 

 

▼他の件、、、↓

 

 

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アメリカの黒人史を学ぶことが「人種の分断」を生む…子どもから絵本奪う「禁書推進派」たちのおかしな持論 黒人史を扱った児童書が学校から締め出される(プレジデントオンライン) / トランプ政権下「古き良きアメリカ」を目指す保守派の「禁書運動」が子どもたちの絵本にまで及ぶ深刻実態 「親の権利」というフレーズの恐ろしさ(プレジデントオンライン)   

 

大杉栄とその時代年表(572) 1905(明治38)年3月7日~10日 奉天占領。ロシア軍退却。大山総司令官が戦闘の終結を宣言。 日本死傷70,028。ロシア側死傷60,093、捕虜21,792、失踪7,638。開戦以来の日本軍動員数2,084,178(明治38年男性人口23,421,000で、兵役人口は8,000,000と想定)

 

ロシア軍の後退

大杉栄とその時代年表(571) 1905(明治38)年3月2日~6日 「万朝報」、「毎日新聞」と共に塩専売・米籾輸入税・織物消費税・市内通行税の4悪法廃止を主張し、国庫による百三十銀行救済、特に北海道上川兵営建築費不当支出を取上げ、政府の無責任を追及。 「政府の横暴放恣斯くの如くにして已まずんば、一旦、外難去りて常時に復するの瞬間、我が国民は彼等を以て露軍に次ぐの仇敵なりと為し、多年の鬱憤積怨忽ち彼等の頭上に爆発」するであろう。 より続く

1905(明治38)年

3月7日

奉天会戦

第2軍第3師団大島義昌中将、干洪屯攻略決意。

午前5時、第5旅団(南部辰丙少将)第6・33連隊、前進。

天明の頃、第6連隊は三軒屋を、第33連隊(吉岡友愛中佐)は干洪屯を攻略。ロシア軍の猛反撃。

午前9時20分過ぎ、来援のロシア軍が干洪屯に移った第6連隊を包囲、侵入。第6連隊の死傷者増える。

午前10時、第33連隊第3大隊長早川新太郎少佐負傷。

午前11時、第6連隊第1大隊長国弘栄一少佐が来援したとき、第2大隊長大越謙吉少佐・第3大隊長北川為吉少佐は負傷、国弘少佐が全体指揮をとる。三軒屋の第33連隊将校は殆ど死傷。援軍も銃弾をうけ到着は僅か、李官堡への伝令も帰還せず。

午後1時30分、三軒屋へロシア軍の攻撃。第33連隊長吉岡中佐が迎撃指揮。

午後2時20分、吉岡中佐が戦死し、三軒屋守備隊は一部が李官堡へ、大部が干洪屯へ退却。

午後3時、干洪屯の生存者400に減少、第6連隊長竹内少佐負傷。

午後8時頃、第18連隊第9中隊が来援。暗夜を迎えてロシア軍の攻撃減少。

午後9時、第33連隊の残兵266と第6連隊第8中隊60が干洪屯に増派。第3師団長大島中将は干洪屯放棄を決意(もし夜襲を受ければ、第3師団の半数が消失する可能性あり)。

ロシア側死傷5,484。日本側3,899(第6連隊1918・77%、第33連隊・83%)。

第3軍、進撃(北から、第1、第9、第7師団の順)。

午前9時前、第9師団(大島中将)第18旅団(平佐良蔵少将)第19連隊(山田良水中佐)は造化屯西北の蒲河畔に到着。この時、造化屯よりロシア軍の猛攻。これにより、第9師団左翼隊は前進を停止、これが右翼隊や第7師団の行動も制止させる。

午後1時30分、第1師団は奉天~法庫門街道の三台子北方の董家台に到着するが、第9師団の停止を知り停止。造化屯の第19連隊へ第36連隊第3大隊が派遣、第19連隊と並んだときには、兵力は1/3が失われている状況。

午後4時過ぎ、第9師団右翼隊・第6旅団長一戸兵衛少将は、ロシア軍の反応に変化を読み取り、午後4時30分、ロシア兵の退路を絶つため、第7連隊(野溝甚四郎中佐)に転湾橋と造化屯に向わせる。野溝中佐は途中負傷。砲撃で造化屯に火災が発生、これを機に第19連隊が突進。第9師団に右接する第7師団(大迫尚敏中将)も進撃。左翼隊・第13旅団第25・26連隊は第9師団第7連隊と直結して転湾橋に進む。

日没直前、転湾橋に火災、ロシア兵が退却し、第25・26連隊が転湾橋を占領。

午後7時頃、第19連隊と第7連隊第2大隊が造化屯に突撃するも、敵前50mで挫折。

第1師団の東清鉄道破壊活動。2グループが線路など破壊。文官屯南方の鉄道爆破は、直ちに修復されたものの、文官屯では日本軍来襲の情報がロシア軍を恐慌状態にさせる。撤退のための放火の炎が奉天からも望見でき、不安が増加する。

第4軍第10師団の正面のロシア軍、朝から退却準備が観測される。第4軍の東側の第1軍でも第12師団正面でも退却する兵が望見される。近衛師団右翼には、赤十字旗を掲げた兵士が現れ、死傷者収容を要請、休戦を提議。夜、第1・4軍には、敵陣の静寂化・火災発生の情報が相次ぐ。

3月8日

午前11時、ロシア軍退却に関する第1軍(黒木大将)の情報に基づき、全軍に攻撃下命。この日の戦闘は第3軍戦線(第9・7師団主流)のみ。

第7師団(大迫尚敏中将)右翼隊・後備第15旅団(松居吉統大佐)は夜明け前に程三家子を出発するが、後丁香屯手前でロシア軍警戒線にかかる。

午前9時頃、後丁香屯北側墓地の戦い。後備第15旅団戦死522・戦傷524・捕虜10の大敗、退却。左翼隊・第13旅団(吉田清一少将)は八家子が攻略されたものと信じて小韓村に進撃。途中、八家子のロシア軍から攻撃される。第26連隊第3大隊(山内正生少佐)が応戦するが死傷者続出。

午前10時過ぎ、第9師団(大島久直中将)第6旅団(一戸兵衛少将)第35・7連隊が八家子に進出。八家子手前でロシア軍に攻撃され、第1線の第35連隊に死傷者続出。後続の第7連隊の一部が増派され、

午後0時40分、第9師団第6旅団第35連隊第2大隊と第7師団第26連隊第3大隊が突撃。ロシア軍砲撃により攻撃停滞。この時、八家子守備隊長ザボリスキー大佐が戦死、ロシア兵は大韓屯へ退却開始。第9師団第18旅団(平佐少将)第36連隊は大韓屯を攻撃。隣接の第7師団第13旅団は小韓屯をめざす。

午前8時、第3軍第1師団(飯田俊助中将)第1旅団第15連隊(戸枝中佐)は四台子を発ち三台子へ、同第2旅団第2連隊は田義屯から文官屯をめざす。第15連隊は三台子の北のはずれを確保するが、ロシア兵の反撃激しく三台子には至らず。飯田中将は第15連隊の現状維持、第2連隊の攻撃中止を命じる。

3月8日

鉱業法公布。鉱業条例廃止。

3月8日

「三月八日(水)、西田幾多郎は山本学宛の手紙に次のように述べる。「宗教の心理學としては、 James 氏の The Varietiesof Religious Experience 及び Starbuck 氏の A Psychology of Religion といふ者あり、前者は深く面白し併し後者は事實的にして宗教的教育には多少参考とならんか」「日露戦争益大くなり何時終局を見るべきか知らず 實に國家の大事痛心の至なり 幸にして終局の勝利を得ば我國民の勃興は期して待つべきも徒らに物質的の国民は取るにたらず 吾等は微力ながらも精神的發達を計らざるべからず」

「西田幾多郎の『善の研究』は、グリーンやウィリアム・ジェームスの影響も受けている。」(荒正人、前掲書)


(漱石)

「三月九日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


3月9日

東部の第1軍と中部の第4軍はロシア軍を追撃、西部の第2・3軍はロシア軍を攻撃。

第3軍第1師団は三台子攻略支援に後備第1旅団(隠岐重節少将)後備第1連隊・第16連隊をその左側に連結して進撃させる。

午前8時30分、第2旅団(中村正雄少将)第2連隊は観音屯へ進撃、第1線第3・2大隊は半数近くの死傷者を出し攻撃停止。後備第1旅団は砂塵の中で文官屯を攻撃。同後備第1連隊長余語征清中佐は負傷。

午後1時、同後備第16連隊(新名幸太中佐)は砂塵の中から現れたムイロフ攻撃隊(5個連隊)に奇襲される。後備第16・1連隊は田義屯に壊走。同時に、右側に隣接する第1師団第2旅団(中村正雄少将)にも波及し、これも退却・壊走。後備第1・第15・16連隊の残兵は夫々262、160、286人のみ。

午後5時、ロシア軍が再度第1師団左翼を攻撃。

第1師団損害2,358(内戦死747)・後備第1旅団死傷1,939(内戦死761)、第3軍全体死傷5,470(内戦死1,753)の80%。

奉天全域に砂嵐、各所混乱。

午後1時30分、第12師団左翼第14連隊(竹下平作中佐)は砂塵をおして渾河をこえ、北方の護山堡にむけて追撃。また、近衛師団(浅田信興中将)・第4軍第10師団(安東貞美中将)も砂塵の中を渾河を渡河し追撃。近衛・第12・10師団はロシア第1軍に楔をうつ形になる。

午後5時30分、クロパトキン大将は参謀長サハロフ中将に総退却命令。夜、クロパトキン、奉天駅より脱出、北方虎石山に向う。

3月10日

奉天占領。ロシア軍退却。大山総司令官が戦闘の終結を宣言。

日本死傷70,028。ロシア側死傷60,093、捕虜21,792、失踪7,638。開戦以来の日本軍動員数2,084,178(明治38年男性人口23,421,000で、兵役人口は8,000,000と想定)

3月10日

(漱石)

「三月十日(金)、夜(推定)、高浜虚子来る。高浜虚子、『吾輩は猫である』(三)を読み、互いに笑い合う。野村伝四の『月給日』、高浜虚子に見せると面白いと云う。『満一日』を読む暇なかったが、虚子、二篇とも持ち帰る。」(荒正人、前掲書)

3月10日

ロシア政府、北海事件賠償金6万5千ポンド支払、落着。


つづく


2025年7月30日水曜日

石破首相に戦後80年談話を出させないために石破退陣を画策する安倍晋三信奉者たち。全て「産経」報道 → 石破首相による戦後80年談話は「不要」「無用な混乱を招く」 自民・西村康稔氏(産経) / 「それは野心。国益に反する」自民・青山繁晴氏 石破首相が戦後80年「談話」発出なら(産経) / 「石破首相が『80年談話』出せば自民党終わる」安倍元首相のブレーン、本田悦朗氏断じる(産経) / 詰んでいる石破首相の居座りで「人災」拡大、戦後80年談話は禍根を残す 岩田明子(産経)←元NHK記者、安倍様信奉者 / まるで8月15日の玉音放送を止めたい軍部みたいな流れになってきたな。(清水潔)   



 

フランス、イスラエル人入植者による暴力を「テロ」と非難(AFPBB);「フランスは、今回の殺人およびヨルダン川西岸全域で増加しているパレスチナ人に対する過激派入植者によるあらゆる意図的な暴力行為を、最も強い言葉で非難する」 「これらの暴力行為はテロ行為だ」と

トランプ大統領が無償でカタールから譲り受けた航空機、改修費用が約1400億円に上る可能性(Forbes JAPAN)  ; 「米国防総省は、米国がカタールから無償で譲り受けた航空機の改修費用を機密扱いにしている」※しかもトランプ退任後はトランプ財団に贈与規定。

米マサチューセッツ州のケルティック・パンク・バンド Dropkick Murphys (ドロップキック・マーフィーズ )、First Class Loser (特上級のダメ人間) という曲の演奏中、ステージ背後のスクリーンにトランプとエプスタインの映像を流しまくる。

「ビル・クリントンの攻撃用銃器禁止令により、銃乱射事件による死亡者数が43%減少/しかしジョージ・W・ブッシュと共和党がその禁止令を失効させた後、銃乱射事件による死亡者数は239%急増。なぜ一体誰がAR-15を必要とするのか」

ホワイトハウス公式 「黄金時代へようこそ トランプ大統領のおかげで、アメリカは過去6か月間で1500億ドル以上の関税収入を生み出しました!」 、、、、でも、 その関税を払ってるのはアメリカの輸入業者。関税は輸入品の値上げとなり、結果的に払うのはアメリカ国民。タコが自分の手足食べてるのに何が黄金時代か

大杉栄とその時代年表(571) 1905(明治38)年3月2日~6日 「万朝報」、「毎日新聞」と共に塩専売・米籾輸入税・織物消費税・市内通行税の4悪法廃止を主張し、国庫による百三十銀行救済、特に北海道上川兵営建築費不当支出を取上げ、政府の無責任を追及。 「政府の横暴放恣斯くの如くにして已まずんば、一旦、外難去りて常時に復するの瞬間、我が国民は彼等を以て露軍に次ぐの仇敵なりと為し、多年の鬱憤積怨忽ち彼等の頭上に爆発」するであろう。

 

奉天に集結した満洲軍首脳

大杉栄とその時代年表(570) 1905(明治38)年3月 大阪朝日新聞社主村山龍平、東京出張員の二葉亭四迷の動きが悪いとして、首を切ると言い出す。上野理一社長は東京朝日主筆池辺三山に相談。二葉亭の記事はたびたび没になり、明治37年は合計3本しか紙面に出ず。 池辺三山は「東京朝日」からも彼に仕事をさせる条件で解雇撤回させる。三山の狙いは彼に小説を書かせること。「露国革命党」(8月)以降、四迷の記事は「東京朝日」だけに発表されるようになる。 より続く

1905(明治38)年

3月2日

午前8時、第3軍(乃木希典大将)、北進(奉天包囲の「西壁」形成が目標)。順調に進撃。

午後1時30分、第1師団右縦隊先頭が沙嶺堡に入り、第7師団前衛が四台子に到着。

午後2時30分、ロシア軍が沙嶺堡を攻撃。

第9師団は、午後5時30分、第36連隊第1中隊が彰駅站を占領。

午後6時前、ロシア軍が彰駅站を攻撃。第36連隊第2大隊と第19連隊第3大隊が救援に向うが、午後6時30分、彰駅站の第36連隊第1中隊(代理吉村中尉)は全滅。

第2軍第4師団はロシア第8軍団を砲撃、第5師団も北台子に砲撃を集中。ロシア軍は退却し、第4師団は北台子西方堡塁を占領。第5師団も前進し、これによりロシア軍が退却し、第8師団第16旅団は北台子西方の西にある長灘を占領。

午前9時30分、第2軍司令官奥大将は各師団に進撃命令。

午後、第8師団は小叭拉堡子を、第4師団は金山屯を占領。

第4軍は苦戦。左翼の第6師団は沙河堡をめざすが、午前10時、ロシア軍の猛射により第11旅団第13連隊長長吉弘鑑大佐が負傷し、攻撃頓挫。

右翼の第10師団は、第8旅団第10連隊が柳匠屯、第20旅団第20連隊が万宝山を目指すが、第10連隊長西村貞之助中佐が負傷し頓挫。第20連隊は万宝山に迫るが、敵前2~300mで旅団長今橋知勝少将が負傷、攻撃中止。

この日の第4軍死傷4,121(第6師団972、第10師団1,062、後備第3旅団673、同第11旅団1,300)。

第1軍は第2師団の攻撃のみ。第2師団第3旅団第29連隊(島田繁大佐)が高嶺台東南第20号角堡塁を目指すが、第2大隊第5・7中隊の将校全員が死傷する損害を受け、午前10時、攻撃中止。第3旅団第4連隊は第2大隊長神戸次郎少佐が連隊長代理となって、第18・19号角堡塁を目指し進撃。

午後、第29連隊が再度第20号角堡塁を攻撃。第3大隊(長屋竹緑少佐)第5中隊がほぼ全滅、第7・11・12中隊は兵力半減の損害。次に前進した第4・9中隊の2個小隊も2/3が死傷。遂に、第29連隊長島田大佐も第1線にでて戦死。連隊副官代理石川正雄中尉と第4連隊長代理長屋少佐が連携して、更に攻撃し、ロシア軍守兵を壊走させるが、第29連隊は追撃の余力なし。

鴨緑江軍第11師団は、午後、ようやく救兵台西方高地を占領。更に、北東の龍王廟嶺を攻撃。後備第1師団も攻撃再開。


3月2日

啄木父・一禎一家、宝徳寺を追われ渋民の知人宅に仮住まい。

4月25日、盛岡に移住、帷子小路8番戸の借家に入る。

3月3

第1軍、午前0時30分~1時30分、近衛師団近衛第2旅団(渡辺章少将)第3・4連隊が唐家台北方高地を目指し前進。

午前3時20分、ロシア軍第3線散兵壕まで奪取。

午前4時30分、本陣地に迫るが死傷者続出。

午前5時、退却(死傷者:第3連隊454・第4連隊674)。

第2師団第29連隊は引き続き高台嶺東方高地を攻撃。午前3時50分、連隊長代理・第2大隊長田中館佳橘少佐が第6・8中隊を率い突進、田中館少佐が戦死しほぼ全滅状態。第3大隊(長屋竹緑少佐)・第1大隊(喜入徳之助少佐)が攻撃続行するが、損害大(高台嶺攻撃での第29連隊の死傷717)。第1軍は3月1~3日で死傷4、750となる。

3月3

ロシア皇帝ニコライ2世、より自由主義的な政府をつくることを明らかに。

3月4

鴨緑江軍、進展なし。

第1軍、動かず。

第4軍、前進できず。

第2軍、快進撃。午前中に、第5師団は人二堡・蘇湖堡に、第8師団は二台子・徳勝営子に進む。

午後、第8師団は張土屯南方で第3軍第9師団に並び、第5師団も大楡樹堡に到着。

第3軍、進撃。第9師団は寧官屯・張土屯に、第7師団は李官堡・姚家屯に到達。第1師団は大石橋北方の大転湾橋に、秋山支隊は郝三家子に進出。

西部戦線は、大石橋北方から渾河北岸に到る旧鉄道堤内側に第2・3軍主力が勢揃い。


3月4

イタリア、ジョリッティ政府総辞職。

3月4

ブダペシュト、女流ピアニスト、リリー・クラウス、誕生。

3月4

米教育家、日本の女子教育に尽力したマレー(74)、没。

3月5

幸徳秋水「兄弟姉妹よ」(「直言」)。2月28日、下獄。同志に後事を託す。

3月5

ムハメド・ブン・アブド・アラー、伊領ソマリア内に領地を認可される。

3月6

午前8時過ぎ、ロシア南下部隊(「レーシ隊」)、大転湾橋を攻撃。第3軍第1師団第27連隊(竹迫弥彦中佐)が守備する柳家寯棚は混乱。第2大隊(宇宿格輔少佐)が援軍に向うが、途中で攻撃されて目標地点に到着出来ず。

正午頃、第9師団は大石橋に到着。

午後1時、柳家寯棚に第2大隊第8中隊の3個小隊がようやく到着。ついで、第7師団第28連隊第2大隊第5・8中隊が来援。

午後4時30分、第28連隊第7中隊、第25連隊第1大隊も来援。

午後5時、「レーシ隊」は退却。

損害:「レーシ隊」1,700、第27連隊541(うち戦死202)。


全線で攻撃を開始した日本軍は、各方面でロシア軍の頑強な抵抗にあう。

戦況は膠着状態となる。

3月6

「万朝報」、「毎日新聞」と共に塩専売・米籾輸入税・織物消費税・市内通行税の4悪法廃止を主張し、国庫による百三十銀行救済、特に北海道上川兵営建築費不当支出を取上げ、政府の無責任を追及。

「政府の横暴放恣斯くの如くにして已まずんば、一旦、外難去りて常時に復するの瞬間、我が国民は彼等を以て露軍に次ぐの仇敵なりと為し、多年の鬱憤積怨忽ち彼等の頭上に爆発」するであろうとを予告。

3月6

(漱石)

「三月六日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。」

「""Hamlet"" は常識で読むもので、哲学で読むべき性質のものではないと説く。(金子健二)」(荒正人、前掲書)

「三月七日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時あら三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


つづく

2025年7月29日火曜日

イスラエル人権団体、自国の行為を「ジェノサイド」と初めて断定 ガザの惨状に戦慄(CNN) / BBCも報じる / ガザ地区 戦闘が始まってからの死者 6万人超える 保健当局発表(NHK)

 

大杉栄とその時代年表(570) 1905(明治38)年3月 大阪朝日新聞社主村山龍平、東京出張員の二葉亭四迷の動きが悪いとして、首を切ると言い出す。上野理一社長は東京朝日主筆池辺三山に相談。二葉亭の記事はたびたび没になり、明治37年は合計3本しか紙面に出ず。 池辺三山は「東京朝日」からも彼に仕事をさせる条件で解雇撤回させる。三山の狙いは彼に小説を書かせること。「露国革命党」(8月)以降、四迷の記事は「東京朝日」だけに発表されるようになる。

 

二葉亭四迷

大杉栄とその時代年表(569) 1905(明治38)年2月24日~28日 「一体、政府は社会主義者をどうする積りなのか。社会主義者に主義を捨てさせようと欲するのか、よもやそんなことは出来まい。社会主義者のロを閉じ舌を抜かんと欲するのか、そんな事も出来まい。苟(いやし)くもこの主義を持する者を法律で処罰することは出来ても、これを排除することは不可能であってそれを敢て企つるのは昔の暴君の為す所である。わが憲法第二十八条には信教の自由が保証されている。其々はこれこれの主義を持するから新聞雑誌の発行を許さないというのは、明治七、八年頃のことであって二十世紀の政治家の態度とはいわれない。」(立川雲平) より続く

1905(明治38)年

3月

韓国、日本と対決を進言・上疎する老儒者崔益鉉、忠清南道定山に押込められる。

3月

横浜正金銀行、芝罘に出張所設置。

3月

呉海軍工廠で、軍艦生駒起工。1907年12月竣工。13,750トン、馬力25,000。

3月

夏目漱石、この月より明治大学講師も勤める(月給30円)。明治36年始めロンドンより戻り、春より第1高等学校講師(年俸700円)。他に、帝大文科大学にも出講(年俸800円)。

この年は、他に「猫」の原稿料が「ホトトギス」よりあり、年間収入は1800円余り。但し、留学時代の借金返済、養家や破産した妻の実家などの要求により、生活費は十分ではない。

(漱石)

「三月以後、自筆の水彩絵葉書を送ることは殆ど絶えてしまったと推定される。(小宮豊隆)」(荒正人、前掲書)

「三月初旬(日不詳)、東京帝国大学文科大学英文学科を明治三十二年七月に卒業した大谷正信(繞石)から、乙亥生の署名で発表した「教師の一日」が掲載されている『明星』(明治三十八年三月号)を贈られ、好意を抱き交際始る。大谷正信は、本郷区駒込曙町十一番地に両親とともに住む。(礼状は三月十一日(土)に出す)」(荒正人、前掲書)


3月

大阪朝日新聞社主村山龍平、東京出張員の二葉亭四迷の動きが悪いとして、首を切ると言い出す。上野理一社長は東京朝日主筆池辺三山に相談。二葉亭の記事はたびたび没になり、明治37年は合計3本しか紙面に出ず。

池辺三山は「東京朝日」からも彼に仕事をさせる条件で解雇撤回させる。三山の狙いは彼に小説を書かせること。「露国革命党」(8月)以降、四迷の記事は「東京朝日」だけに発表されるようになる。

3月

栃木県白仁知事、谷中村買収告諭。応じた者には保証金と代替地貸与を約束。

3月

英、18歳未満の鉱山労働者の労働時間が、1日8時間までに制限される。

3月

ハンガリー、野党「連合」運営委員会禁止。抵抗なく降伏。

3月

仏、兵役を短縮する二年兵役法成立。

3月

永井荷風(26、カラマズー・カレッジの聴講生)、シカゴに旅行

3月

~4月、トロツキー、ペテルブルクに滞在。

夏、フィンランドに逃れる。

「ペテルブルクにおいて私は、公には地主のヴィケンティエフのパスポートで暮らしていた。革命家の間ではピョートル・ペトロヴィチとして通っていた。組織の上では私はどの派にも属していなかった。また、私が協力関係を保っていたクラーシンは当時、調停派ボリシェヴィキであった。このことは、当時の私の立場からして、いっそう2人の間を接近させた。同時に私は、非常に革命的な路線をとっていた地方のメンシェヴィキ・グループとも連絡を取り合っていた。私の影響のもと、このグループは、ツァーリの諮問機関にすぎない最初の国会をボイコットする立場に立ち、メンシェヴィキの在外指導部と衝突するにいたった。しかし、このメンシェヴィキ・グループはまもなく壊滅した。組織を当局に売ったのは、『金縁眼鏡のニコライ』と呼ばれていたドブロスコークという男で、このグループの活動的メンバーでありながら職業的挑発者であった。彼は、私がペテルブルクに潜伏していることを知っていたし、私の顔も知っていた。そこへ、私の妻が、森の中で行なわれたメーデー集会で逮捕されるという事件が起こった。私は一時的に身を隠さなければならなくなった。夏になってから私はフィンランドに逃れた。その地で私は息つぎの合間を得て、激しい執筆活動に打ち込むとともに、短い散歩を楽しんだ。新聞をむさぼるように読み、各党の形成経過を追い、新聞の切り抜きをし、諸事実を整理した。この時期に私は、ロシア社会の内的諸力およびロシア革命の展望について自分の最終的な見解をつくり上げた。私は当時次のように書いた。

『ロシアはブルジョア民主主義革命に直面している。この革命の基礎をなしているのは農業問題である。権力をとるのは、ツァーリズムと地主に対抗して農民を自らに従える階級、党だろう。だが、自由主義者も、民主主義的インテリゲンツィヤも、それを遂行する能力を持たない。彼らの歴史的時期は過ぎ去ったのである。革命の表舞台はすでにプロレタリアートによって占められている。社会民主党だけが労働者を通じて農民を自らに従えることができる。このことは、ロシアの社会民主党の前に、西欧諸国でよりも早く権力を獲得する展望を開く。社会民主党の当面する課題は民主主義革命を完遂することである。だが、権力を獲得したプロレタリアートの党は、自らを民主主義綱領に限定することはできない。党は、社会主義的諸措置の道へと移行することを余儀なくされるだろう。党がこの道をどこまで先に進めるかは、国内の力関係のみならず、国際情勢の全体に依存している。したがって、基本的な戦略路線は、社会民主党が、農民に対する影響力をめぐって自由主義者と非妥協的に闘争しながら、すでにブルジョア革命の時期において権力獲得の課題を自らに提起することを求めている』。

 革命の全般的展望に関する問題は、戦術的諸問題と密接に結びついていた。党の中心的な政治的スローガンは憲法制定議会であった。しかし、革命闘争の歩みは、誰がどのように憲法制定議会を召集するのかという問題を提起した。プロレタリアートによって指導された人民蜂起という展望からは、臨時革命政府の樹立という考えが出てくる。革命におけるプロレタリアートの指導的役割は、臨時革命政府におけるその決定的な役割を保証することになるだろう。」(トロツキー『わが生涯』)


3月1日

奉天会戦

ロシア37万、日本25万。10日に奉天、16日鉄嶺を占領。

第3軍(乃木希典大将)第9師団、午後6時頃からの砲撃の後、四方台占領。

鴨緑江軍(川村景秋大将)は第11師団・後備第1師団ともに目標の攻撃失敗。

第4軍(野津道貫大将)、砲撃。午後8時、第10師団に万宝山、第6師団に沙河堡への攻撃下命。

第1軍(黒木為楨大将)第12師団、西三成子山攻略失敗。

第2軍(奥保鞏大将)第4師団第19旅団第9連隊(岩田正吉中佐)第1・2大隊と第38連隊(内藤新一郎大佐)第2・3連隊は、午後10時、北台子西方堡塁へ前進。午後11時30分、第38連隊第2大隊長は敵前200mに達したことを第9連隊に連絡のため発砲するが、逆にロシア軍に察知され、第2大隊第7・8中隊は半数が死傷する損害を蒙る。第2大隊は小樹子に退却、ロシア軍は追尾して、第38連隊の陣前100mに迫る。

3月1日

平田東助、大日本産業組合中央会設立。

3月1日

「毎日新聞」、21議会における立川雲平らの質問に呼応して、社会主義者言論取締りに抗議。

「日本国民は法律を蹂躙してまでも彼等が言論の権利を禁圧せんとするが如き不見識を、曾て政府に依頼したる記憶あらざる也。社会主義禁圧政略に依て侮辱されたる被害者は決して社会主義の徒輩に非ずして、実に吾人国民なり」

3月1日

カリフォルニア州上院、日本移民制限に関する決議案可決。


つづく

2025年7月28日月曜日

自民大敗、首相だけの責任でない 「石破降ろし」違和感―関経連会長(時事) ; 「長い間自民党がやってきたことに国民がネガティブな反応をした」 松本正義会長は選挙結果について、そう指摘。 「石破降ろし」の動きに「はたから見ると恥ずかしい」と違和感を示しました。 / 石破茂首相の続投容認論、自民党・立憲民主党の支持層に強く(日経) / 〇石破首相は辞めるべきか 「辞めるべきだ」41% 「その必要なし」47% ※自民支持層に限ると… 「辞めるべきだ」22% 「その必要なし」70% 〇自民党大敗の要因は? 「自民全体に問題」81% 「首相個人に問題」10%(朝日) / 自民支持層の60%が「辞任の必要はない」 「辞任すべきだ」は22% (毎日)           

《維新・大阪トップ当選の佐々木りえ氏に浮上した疑惑》「危うい投資会社」への関わりを示す複数のファクト 本人は直撃電話に「失礼です」、維新は「疑念を招いたことは残念」と回答(NEWSポストセブン) / 「カネを返せ!」出資者がブチギレ…維新・参院選候補の佐々木りえ氏と疑惑の投資会社代表の「怪しい関係」(週刊現代)

我々が腐敗と呼ぶべきもの――「トランプ帝国」が拡大、露骨すぎる利益相反の実態 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

日本保守党・北村晴男議員の侮辱投稿は「行列のできる相談所」時代に覚えた“炎上商法”か…背後にあの失言議員のカゲ(日刊ゲンダイ) / 北村晴男氏による石破首相「醜く奇妙な生き物」発言、問われる公人としての自覚(大濱崎卓真) / 石破茂首相に「醜く奇妙な生き物」?北村晴男氏のXに「一線を越えた」「誹謗中傷」と批判集まる(ハフポスト日本版) / 「批判じゃなくて誹謗中傷」北村晴男・参院議員の発言が物議…一国の首相を「醜く奇妙な生き物」呼ばわりに非難殺到「政治家が使う言葉か?」(中日スポーツ) / 日本保守党・北村晴男氏が石破茂首相に「どこまでも醜い、奇妙な生き物」 まとめサイト引用、過激表現に批判相次ぐ(JCAST) / 「様々な工作活動を行って来た」北村晴男氏 《石破首相は工作員》投稿に批判殺到…本誌に答えた“根拠”(女性自身) / 「間違いなく工作員です。」とも  / 妄想が止まらない 「保守政党であった自民党に左派活動家である石破氏が入り込み、 保守政党を左派政党に変質させるべく、様々な工作活動を行って来た。、、、、、」        

 


「北村晴男です。

保守政党であった自民党に左派活動家である石破氏が入り込み、

保守政党を左派政党に変質させるべく、様々な工作活動を行って来た。

主観面は客観的な行為から合理的に推認するほかないところ、石破氏が行ってきた活動は客観的に上の通りである。

すなわち、石破氏は自らの信念からなのか、他者から命じられたかは不明であるものの、

左派活動家であり、日民党に潜入した工作員と判断するほかない。」


 




 

読売新聞、また「誤報」? ⇒ 自民党大阪府連全体会議において、読売新聞社からのアンケートには答えていないにも関わらず大阪が「首相は辞任するべきだと「思う」と回答した」とされたことについて、社に抗議して訂正を求めることが確認されました。➡︎読売新聞オンライン / 読売新聞(毎日新聞)の「石破首相退陣へ」誤報は、戦後最大の報道不祥事~自民党石破総裁は厳正な抗議を!(郷原信郎)       

大杉栄とその時代年表(569) 1905(明治38)年2月24日~28日 「一体、政府は社会主義者をどうする積りなのか。社会主義者に主義を捨てさせようと欲するのか、よもやそんなことは出来まい。社会主義者のロを閉じ舌を抜かんと欲するのか、そんな事も出来まい。苟(いやし)くもこの主義を持する者を法律で処罰することは出来ても、これを排除することは不可能であってそれを敢て企つるのは昔の暴君の為す所である。わが憲法第二十八条には信教の自由が保証されている。其々はこれこれの主義を持するから新聞雑誌の発行を許さないというのは、明治七、八年頃のことであって二十世紀の政治家の態度とはいわれない。」(立川雲平)

 

立川雲平

大杉栄とその時代年表(568) 1905(明治38)年2月14日~23日 平民新聞第52号(「小学教師に告ぐ」)大審院判決、上告棄却。 28日、西川光次郎・幸徳秋水、入獄。師岡千代子『風々雨々』には、その記念撮影後に秋水が着ていた二重廻し(男子用の袖のない外套)を脱ぎ、「僕には当分不要だから、君が代わりに着てくれ給え」といってそっと堺の肩に掛けた、という記述がある。秋水没後、堺は千代子に「あの時は何んだか泣きたいやうな気がして、妙に鼻が詰まって困った」と語ったという。  より続く

1905(明治38)年

2月24日

午前11時40分頃、鴨緑江軍(川村景秋大将)第11師団第22連隊、ロシア軍退却後の清河城占領。

2月24日

英外相、林董駐英公使に日英同盟継続の内交渉開始を申し出る。

2月25日

第1軍第2師団第4連隊、花嶺北方高地占領。

2月25日

(漱石)

「二月二十五日(土)、晴。午後五時半から食牛会を催す。十一時散会する。」

「「蓬来町て(ママ)ビール三本買って夏目へ行く。虚子既にあり。つゞいて奇飄。正禧。四方太来る。四方太『稲毛』と云ふ小品を讀む。牛を煮て食ふ。虚子『石棺』を讀む。傳四、遅れて来る。虚子、漱石の『幻の盾』を讀む。十一時散會」(「寺田寅謬日記」)」(荒正人、前掲書)

2月25日

北海事件国際査問会、決定書発表。イギリスの訴え全面的に認め閉会。

2月26日

『直言』第4号発行

コラム「平民社より」(堺利彦執筆)は平民社の「語学熱」を話題にし、秋水と西川は入獄中にそれぞれフランス語とドイツ語を修業する予定で、堺と石川はドイツ語を、松岡文子と延岡為子も英語をしッかり学びたいといい、「平民社の夜は外囲語の塾の様になるかも如かぬ」と書いている

2月27日

奉天包囲作戦開始(日本軍、東部・西部に展開)。

鴨緑江軍は険峻な地形・ロシア軍の迎撃により停止。

夜明け前、第1軍第2師団の第15旅団第30連隊と第3旅団第4連隊が大訂子山へ前進。第4連隊が大訂子山を占領。捕虜6千。

2月27日

第1艦隊司令長官海軍中将出羽重遠、偵察艦隊編成し、佐世保軍港発。カムラン湾、サイゴン、シンガポール、ラブアン巡航し、4月1日、鎮海湾着。

2月27日

第21議会、花井卓蔵・立川雲平・粕谷義三3代議士、「言論出版の自由に関する質問書」提出。立川代議士が演説。警視庁が新聞発行届けを受理しない措置、社会主義者への迫害、言論出版の自由への弾圧を攻撃。第百三十銀行救済問題・旭川兵営請負工事不正事件にも論及し政府を弾劾。

前年(明治37年)11月25日の『日本平民新聞』発行届書不受理に続いて、12月1日の学術雑誌『平和』の発行届、この年(明治38年)1月18日の『曙新聞』、同24日志知(後の西川)文子・神崎順一の『新社会』の発行届も受理されなかった。

立川雲平代議士の演説要旨

「・・・わが憲法第二十九条には『日本臣民は法律の範囲内に於て言論著作印行集会及結社の自由を有す』とある。日本人にして新聞または雑誌を発行しようとする者は、新聞条令に従ってその届けを出せば事足り、決して請願とか申請とか、即ち許すとか許さぬとか他の諾否を待つべきものではない。然るにこれを濫りに受理せぬとか却下するとか、殊にその理由を示さぬとか、当該官吏は何の法規条例によってかかる不都合を行なったのであるか。

或は云う、石川等は社会主義者なるがためであると。社会主義はそれほど恐ろしいものなのか、政府当局が社会主義に恐怖狼狽するのほご勝手で、ただ識者の嘲笑を買うのみである。然しその恐怖狼狽の極、国民の権利を侵害するに至っては恕すを得ない。

一体、政府は社会主義者をどうする積りなのか。社会主義者に主義を捨てさせようと欲するのか、よもやそんなことは出来まい。社会主義者のロを閉じ舌を抜かんと欲するのか、そんな事も出来まい。苟(いやし)くもこの主義を持する者を法律で処罰することは出来ても、これを排除することは不可能であってそれを敢て企つるのは昔の暴君の為す所である。わが憲法第二十八条には信教の自由が保証されている。其々はこれこれの主義を持するから新聞雑誌の発行を許さないというのは、明治七、八年頃のことであって二十世紀の政治家の態度とはいわれない。

明治十年前後に於て、時の為政者が自由民権の説を唱える志士に対して如何なる事をしたか、その得たところの効果はどうであったか、わが国も干戈(かんか)事止んで国民堵に安んずるの時は、必ず国民思潮の一大変革を来すであろう。此時に当って濫りに圧制束縛の政策を断行するが如き事あらば、禍い実に測り知るべからざるものがあると思う。

政府側には御用を達すべき学者、新聞記者もたくさんあり、政府部内には世界の新知識も多いであろうから、言論出版の自由を十分に許して論争させるがよい。『社会主義にして真理にあらざるか民みな直ちに之を去らん、警視庁の微々たる力を藉(か)るを須(もち)ひませぬ。社会主義にしてもし真理に合するものであるならんか、警視庁や内務省や政府総がかりになつても、否、国の兵力を以てしても真理に打克つことの出来ないのは古今東西、その跡を同じうしてゐるのではありませぬか。』

露国でさえもトルストイ翁を容れる余地がある。日本帝国にして区々たる社会主義者の一団を容るるの余地がないという事はなかろう、折角なる日本帝国を、政府の人々は小さくしているのである。そんな狭い了見では、戦勝帝国の威力、大なる日本の威力はどこにあるか。」

「その癖、今の諸公は大胆勇断に富んでいる。見よ、彼の大蔵大臣はいかに大胆勇断であるか、今の時に当って百円でも千円でも金は時局のために使わなければならぬというのが、上下一致の輿論である。然るに六百万円という大金を、第百三十銀行のために拗り出して顧みない。衆議院がこれを不当なりと決議してもなお泰然たるは、実に大胆なるやり方である。・・・また彼の陸軍大臣は旭川兵営問題に関して、会計検査院の攻撃をうけ委員会の追及をこうむって、われは盲ら判を捺したのであると言うている。陸軍大臣 - この国家の休戚は此人によって得られるものである。然るにわれは盲ら判を捺したに過ぎぬといって恥じない。人、或は男らしいということを感心するだろうし、自身もまた大得意であろう。

かくの如く揃いも揃って大胆勇断であるのに、何ぞ独り内務大臣のみ小心翼々として社会主義を憂慮するのであるか。」


対する政府の答弁はただの数行。

「政府は新聞雑誌の適法にあらざる届書を受理せざりしことあるも、未だ臣民の憲法により附与せられたる言論印行の自由を妨げたることなし。」


2月27日

第4回国庫債券1億円発行規定公布。利率6分。

2月27日

(漱石)

「二月二十七日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。

二月二十八日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


2月28日

第3軍(乃木大将)は午後4時30分までに、田村支隊が大民屯付近、第1師団が珍小崗、第7師団が牛心坨などに進出。

午後5時頃、乃木司令官は阿司牛に到着。

2月28日

第21議会閉会。

臨時軍事費7億8千万円、各種増税案可決。(前議会では軍事費5億、増税6千万余、公債3億)。通算で増税1億4千万・公債10億。

一方で、軍事公債(6~7分)から600万を2分の低利で第130銀行(松本重太郎)に貸付救済(政府財政顧問松方正義、井上馨との関係)。

同時に、鉄道抵当法・工場抵当法、可決。

2月28日

平賀譲、英国海軍大学校留学のため横浜出港。4月7日ロンドン着。


つづく


2025年7月27日日曜日

トランプに「米国籍を剥奪する」と脅されたアメリカ生まれの白人女優とは(猿渡由紀) / トランプに脅されたハリウッド女優が反撃。「私の国籍を奪う?やってみなよ」(猿渡由紀)  ; 「アメリカに生まれた人は、憲法14条によってアメリカ国籍を保証されている。実際のところ、トランプの脅しは何の意味も持たない。」

トランプ大統領、オバマ氏が逮捕されるフェイク動画を拡散→「笑えない」「人種差別」と批判(BuzzFeed Japan) / 先週、SNS に「オバマ元大統領がホワイトハウス執務室で逮捕される」という内容のAI 生成動画を投稿し、「大統領にあるまじき振舞い」と全世界を呆れさせたトランプ。 本日は自身と J.D. ヴァンスが、パトカーでオバマを追いかけるミームを投稿。

米、少年野球団にビザ発給拒否 ベネズエラ、大会出場できず(時事通信)

大杉栄とその時代年表(568) 1905(明治38)年2月14日~23日 平民新聞第52号(「小学教師に告ぐ」)大審院判決、上告棄却。 28日、西川光次郎・幸徳秋水、入獄。師岡千代子『風々雨々』には、その記念撮影後に秋水が着ていた二重廻し(男子用の袖のない外套)を脱ぎ、「僕には当分不要だから、君が代わりに着てくれ給え」といってそっと堺の肩に掛けた、という記述がある。秋水没後、堺は千代子に「あの時は何んだか泣きたいやうな気がして、妙に鼻が詰まって困った」と語ったという。

 

左から時計回りに幸徳秋水、堺利彦、西川光二郎、石川三四郎(1904年11月13日、平民社)

大杉栄とその時代年表(567) 1905(明治38)年2月7日~13日 「二月十日(金)、『吾輩は猫である』(続編)を掲載した『ホトゝギス』(第八巻第五号)発行される。高浜虚子は「消息」に、「『吾輩は猫である』續篇は獨り量に於いて長篇たるのみならず、亦た質に於て大篇たり。文飾無きが如くにして而も句々洗練を経、平々の敍寫に似て而も薀藉する處深遠、這般の諷刺文は我文壇獨り評者を俟て之あるものといふべし。」と述べる。」(荒正人) より続く

1905(明治38)年

2月14日

ロシア・ドブロヴォリスキー大佐の後発隊、ノーシベー湾到着。11/16.リバウ軍港発。

2月15日

日英同盟祝賀会、小村寿太郎外相、同盟の継続発展を希望する旨演説。

2月15日

ネボガトフ少将指揮第3太平洋艦隊、ロシア発。

2月中旬

「二月中旬、島崎藤村、小諸町に訪ねて来た神津猛から、『吾輩は猫である』を読むように勧められ、二月二十六日(日)の神津猛宛手紙に感想を伝える。)」(荒正人、前掲書)


2月16日

郵便貯金法、実用新案法、公布。7月1日施行。

2月16日

(漱石)

「二月十六日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。文学誌を読む場合、自分の考えを定めて読むことが大切だと説く。帰途、『七人』第四号(明治三十八年二月一日刊)を買い、野村伝四『二階の男』を読む。

二月十八日(土)、夜、寺田寅彦来る。『幻影〔まぼろし〕の盾』脱稿する。(『漾盧集』第三作)」(荒正人、前掲書)

2月17日

(露暦2/4)ロシア、ニコライ2世叔父モスクワ総督セルゲイ・アレクサンドロヴィッチ公、クレムリン内で暗殺。社会革命党員カリヤエフ。

2月18日

この日、西川光次郎(下獄の10日前)、同志に招かれて千葉県八生村宝田で社会主義演説会。

2月19日

『直言』第3号発行。

社説「露国革命が与ふる教訓」

2月20日

大山巌総司令官が各軍首脳を呼び集め、作戦に関する訓示を行う。

〈概況〉

この年2月~3月、日露両軍は、満州の奉天周辺で大兵力を繰り出して激突。この結果、両軍合わせて兵員10万以上が死傷し、民間人にも多数の被害が出る。この戦闘は、奉天を中心に繰り広げられたことから、後の「奉天会戦」「奉天の戦い」と呼ばれる。

まず、この年1月、ロシアの要塞旅順が陥落すると、日本陸軍第3軍は、北方の主力部隊(満州軍)と合流し、次の攻撃準備が始まる。

そして明治38年2月下旬、日本陸軍は北上を開始し、翌月には長さ60km以上の戦線の全域にわたってロシア軍の大部隊と衝突する。

日本軍は前年2月の開戦以来の1年間、遼陽や旅順で一応の勝利をおさめてきたが、その中で、既に多数の将兵を失い、大量の砲弾や資材を消耗してきた。日本にとっては、戦争が長引くほど、人的・財政的な損失が更に重なり危機的な事態に陥る危険があり、その上、ロシア軍の増援はシベリア鉄道を経由して次々と満州に到着していたため、日露間の戦力の差が決定的なものとなる恐れも出てきた。

こうした事情から、日本の首脳陣は、一刻も早くロシア軍の主力を撃滅してロシアにとって戦争の継続が困難な状況を作り出し、講和への道を切り開こうとしていた。こうして、日本の満州軍(約25万人)は、数に勝るロシアの満州軍(約31万人)に対して敢えて攻撃をしかけることとなった。

戦いは、日本軍がロシア軍を包囲しかけるところまで進展するが、日本軍はこれまでの戦いと同様に人命と砲弾を消耗し、攻撃を受けて混乱したロシア軍が包囲網を脱して北に退却するのを阻止できなかった。状況は、満州軍総司令部の一将校が「敵に出しぬかれたるは真に大元帥陛下に対し申訳の無い次第を致したり」(谷寿夫『機密日露戦史』)と述べるほどだったが、日本の将兵は長々と続いた行軍と戦闘のせいで疲弊しており、兵数で勝るロシア軍を追撃できなかった。

3月10日、日本軍はロシア軍の司令部が置かれていた奉天(清国領)を占領するが、すでにロシア軍の大半が奉天一帯から引き払った後で、「日本軍は大きな成功を収めはしたが、ロシア軍を残滅することができなかった」(『ソ連から見た日露戦争』2009年)。

奉天会戦における日本軍の死傷者数は約7万人、ロシア側の死傷者数は(捕虜を合わせて)約8万人、その他に戦場周辺で暮らしていた民間人も犠牲となった。

2月20日

この日、石川、桜井、松崎、岡、加納、斎藤の一行、千葉県行徳町で社会主義演説会。

東京の演説会は中止・解散が恒例であるが、平民社の研究会、茶話会、婦人講演会は無事に継続している。

また『直言』紙上「同志の運動」欄には、岡山、横浜、紀州木本、土浦、鹿児島、佐渡相川、山形、鶴岡、筑後山門郡小川村、神戸、岐阜、横須賀、京都、室蘭、小樽、函館、名古屋、飛騨、高知、埼玉県川越、同小林村、鳥取県安井宿、伊勢崎、高崎、但馬豊岡、宇都宮、信州神川村、越後長岡、常陸柿岡、下関、栃木県佐野、肥後長洲町、金沢、広島、門司の各地における団体の運動が報告されている。

また、この日、能登七尾町の第三中学校での社会主義演説会は、600余人の生徒が開会前すでに会場に充満していたという。"


2月20日

(漱石)

「二月二十日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。

二月二十一日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)


2月21日

東郷平八郎大将、旗艦「三笠」乗船し朝鮮南岸鎮海湾着。

2月21日

桂首相・曾禰蔵相、全国主要銀行家30余招待し、第4回国債応募懇請。

桂は「平和の曙光、地平線上にほの見ゆ」と明言。価格90円(額面100円)・利子6分・期限7年・利回り年8分2厘5毛。

第4回国債1億円の募集条件は、売出し価格100円につき95円、償還期限5年、実際利回り年6分3厘1毛。

第2回1億円募集条件は、100円につき92円、期限5年、利回り6分7厘6毛。

第3回は、第1期軍事公債3億6千万円のうち、内外市場で募集された約3億円の残り8千万円で、条件は第2回と同様。

引受け銀行の取扱い手数料は、第1回は1/1,000、第2回は2/1,000、第3回は10/1,000。

軍事公債の募集条件は、発行ごとに緩和されている。

2月21日

語学熱が盛んになった平民社で、大杉栄(20)はただ一人フランス語が出来るとして重宝される。

2月22日

日本軍が前進を開始。ロシア軍の左翼(東側)を攻撃

2月22日

(漱石)

「二月二十二日(水)から三月五日(日)の間に、『吾輩は猫である』(続々篇)脱稿する。

二月二十三日(木)、晴。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。ロマン主義と写実主義の比較を繰り返し述べる。夜、寺田寅彦来る。」(荒正人、前掲書)

2月23日

平民新聞第52号(「小学教師に告ぐ」)大審院判決、上告棄却(幸徳・西川の禁固5ヶ月、7ヶ月、国光社所有印刷機械没収、『平民新聞』発禁)。控訴院判決が確定。

28日、西川光次郎・幸徳秋水、7月28日迄巣鴨監獄入獄。

当日、平民社の裏庭で写した二人の写真と、日比谷公園で二人を囲んで撮影した集合写真が、『直言』第6号(3月20日)の紙面に掲載されている。

師岡千代子『風々雨々』には、その記念撮影後に秋水が着ていた二重廻し(男子用の袖のない外套)を脱ぎ、「僕には当分不要だから、君が代わりに着てくれ給え」といってそっと堺の肩に掛けた、という記述がある。秋水没後、堺は千代子に「あの時は何んだか泣きたいやうな気がして、妙に鼻が詰まって困った」と語ったという。

このときに限らず、平民社の関係者が写った記念写真はたくさん残っている。彼らは入獄や出獄のときにまで、わざわざ集まって写真を撮っておいた。


つづく

2025年7月26日土曜日

「ガザに飢餓はない」、イスラエル閣僚が主張 「政府は現地の掃討急ぐ」とも(CNN);「イスラエルのエリヤフ遺産相はラジオのインタビューで、「ガザには飢餓など存在しない」と主張し、政府は「急いでガザを掃討している」との見方を示した。この発言はネタニヤフ首相など他のイスラエル当局者から強く非難された。 エリヤフ氏はラジオ番組の中で「友よ、ガザには飢餓など存在しない。だが我々が彼らを殺しているのはその通りだ。怪物どもは殺す。我々を脅かす者は誰であれ殺す」と述べた。」

大杉栄とその時代年表(567) 1905(明治38)年2月7日~13日 「二月十日(金)、『吾輩は猫である』(続編)を掲載した『ホトゝギス』(第八巻第五号)発行される。高浜虚子は「消息」に、「『吾輩は猫である』續篇は獨り量に於いて長篇たるのみならず、亦た質に於て大篇たり。文飾無きが如くにして而も句々洗練を経、平々の敍寫に似て而も薀藉する處深遠、這般の諷刺文は我文壇獨り評者を俟て之あるものといふべし。」と述べる。」(荒正人)

 

『吾輩は猫である』原稿の一部

大杉栄とその時代年表(566) 1905(明治38)年2月1日~6日 「或夜加藤氏は僕と社会主義論に夜を更かして、談偶々(たまたま)『直言』の事に及ぶや日く、今こそ反古同様の雑誌だが、必ず一度は大活動する時が来るよ、否大に為さねはならぬ時が来るよ、ソレを楽みにお互に苦労しやう、家の費用をどんなに節約しても、此雑誌の維持金ぐらゐ出して行くよ、但し今は活動の時でないから、筆も極めて柔かく行くのが後日『直言』を役に立たせる為に必要だ。同志は何んと誤解しても必ず成程サウであったかと首肯させる時が来る。当分は社会改良主義ぐらいに止めやう。 果然『直言』活動の時は来った。あゝ昨日までは同志の間にすら辛うじて其存在を認められた、微々たる一小雑誌『直言』は、此処に社会改良主義の仮面を去って、快なる故、日本社会主義の中央機関となったのだ。」(原霞外「『直言』活動の時」) より続く

1905(明治38)年

2月7日

浦賀ドック、300名ストライキ。

2月7日

米、サント・ドミンゴの財政管理。

2月8日

関西鉄道会社、奈良鉄道会社を合併。

2月10日

京釜鉄道開通式。

2月10日

『吾輩は猫である』(続篇、実質的には(二))〔『ホトゝギス』2月号(8巻5号)発表


「二月十日(金)、『吾輩は猫である』(続編)を掲載した『ホトゝギス』(第八巻第五号)発行される。高浜虚子は「消息」に、「『吾輩は猫である』續篇は獨り量に於いて長篇たるのみならず、亦た質に於て大篇たり。文飾無きが如くにして而も句々洗練を経、平々の敍寫に似て而も薀藉する處深遠、這般の諷刺文は我文壇獨り評者を俟て之あるものといふべし。」と述べる。」(荒正人、前掲書)

主人の中学校教師狆野苦沙弥(ちんのくしやみ)を訪れた教え子の水島寒月が「御閑なら御一所に散歩でもしませう。旅順が落ちたので市中は大変な景気ですよ」と誘うが、主人は旅順陥落よりも、寒月の話の中に出て来た「女連(おんなづれ)の身元を聞きたいと云ふ顔で」ためらっている。

その後、ようやく決心して立ち上がるが、あまり乗り気ではない

翌日の日記でも、

「寒月と、根津、上野、池の端、神田辺を散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついて居た。衣装は美しいが顔は頗(すこぶ)るまづい。何となくうちの猫に似てた。」

と書くだけで、日露戦争には触れていない。


主人に宛てた迷亭の年始状

古代のローマ人は日に二度も三度も宴会を開いたが、食後には必ず入浴し、そのあと食べたものをすべて嘔吐して「贅沢と衛生とを両立」させる秘法を案出していたと述べ、次のように主張する。

廿世紀(にじつせいき)の今日交通の頻繁、宴会の増加は申す迄もなく。軍国多事征露の第二年とも相成候折柄、吾人戦勝国の国民は、是非羅馬人に倣って此入浴嘔吐の術を研究せざるべからざる機会に到着致し候事と自信致候。左もなくば切角の大国民も近き将来に於て悉く大兄の如く胃病患者と相成る事と窃かに心痛罷りあり候

日本人が戦勝に浮かれ、「贅沢」な宴会を重ねていることを諷刺している。


迷亭の母からの手紙

主人の家を訪れた迷亭が、静岡から来た母の手紙のことを話す。

御前なんぞは実に仕合せ者だ。露西亜と戦争が始まって若い人達が大変な辛苦をして御国の為に働らいて居るのに節季師走でもお正月の様に気楽に遊んで居ると書いてある。

- 僕はこれでも母の思ってる様に遊んぢや居ないやね - 其あとへ以て来て、僕の小学校時代の朋友で今度の戦争に出て死んだり負傷したものゝ名前が列挙してあるのさ。其名前を一々読んだ時には何だか世の中が味気なくなって人間もつまらないと云ふ気が起ったよ。

迷亭は、その手紙を読んで人間の無常をしみじみと感じ、散歩に出たとき「首懸の松」を見て死のうと決心しするが、用事を思い出していったん帰宅し、再びやってくると、すでに首をくくっている人がいて、自分はくくりそこなったと語る。

日露戦争の死傷者の増加を知る漱石の暗い感慨がにじんでいる。


2月11日

軍政官神尾光臣少将、青泥窪(ダルニー)を大連と改称。

2月11日

森下南陽堂、「仁丹」発売。

2月11日

米上院、1904年末に米英仏独その他の列強間で締結の調停条約の修正案採択。調停はハーグの国際仲裁裁判所に委ねられるが、調停を委ねる手順の複雑化で調停条約を事実上無効にし自動調停機構の発動阻止目的。

2月12日

永沼挺進隊、長春南方鉄道爆破失敗。

午前2時、新開河西方4kmの袁家屯に到着。

午前2時30分、爆破行(目標:長春西南25kmの新開河鉄橋64m)に出発。

午前5時前、爆破。爆薬を外部に装着しただけのため破壊は橋脚に及ばず、13時間後に修復。兵舎攻撃で田村馬造少尉(22)戦死。ロシア側は挺身隊規模を過大評価し、3万を派出(奉天戦におけるロシア軍兵力に影響を与える)。また、講和条約に際しては、日本軍の長春進出を既成事実化させる。

2月12日

『直言』第2号発行。


社説「『新人』の国家宗教」(木下尚江)

海老名弾正の、日本魂が宇宙のロゴス(道)の発展であって将来はキリスト教の神子帝国を実現し、東洋民族を感化統合するという説を、帝国主義思想の発現として反駁。


幸徳秋水「露国革命の祖母」。

社会革命党エカテリーナ・ブレシコフスカヤの経歴を描く。秋水の認識上の矛盾(社会民主党ではなく、ナロードニキの社会革命党への共感・同情)が露呈している。

エカテリーナ・プレシコフスカヤは南部ロシアの貴族の出で当時61歳、若くして革命運動に加わり5年の懲役とシベリア終身流刑に処せられたが、脱走を企てて更に4年の刑を追加される。

1896年、欧露帰還を許されるや再び革命運動に復帰。

1902年、社会革命党組織に参画。その後、亡命。

1904年8月、アムステルダムの万国社会党大会には社会革命党の一代表として出席。

1905年、米国で故国の革命運動のために遊説し、数千ドルの応援寄附金を集めた。

秋水は、社会民主党が「工業的資本家制度の変遷し行く趨勢のみを見て、露国全体が猶ほ農業国であることを忘れ……否、農民は倶(とも)に革命を図るに足らぬと信じたらしい。斯くて彼等が……農民を度外視したのは勢力を得る能はざる所以で、明らか一の失策であった。そして彼等は此時、全然武力手段をも排斥して居た」と論ずる。

また政府の辛辣苛酷な迫害に対抗して「八〇年代の武力手段は又々採用せらるゝに決した。そして社会民主党の穏和なるに満足しないで、革命社会党は愈々(いよいよ)組織せられた。多数の青年は翕然(きゆうぜん)として之に赴き、……革命社会党中の有志は別に『戦闘団』なる一派を組織して暗殺を一手に引受け…‥斯くて革命社会党は、其創立日浅きにも拘らず、今や其勢力は燦原の勢ひを以て蔓延して居る」と述べた。

そして最後に、「鳴呼、如此き『祖母』を有する露国の社会主義者の前途は実に多望なる哉、遥かに彼女の健康を祈って叫ぶ、『露国革命の祖母』万歳!」と結ぶ。

秋水は「与露国社会党書」で、「諸君と我等は虚無党に非ず、テロリストに非ず、社会民主党也。」と論じた。

にもかかわらず「露国革命の祖母」では、往年の「人民の意志党」の伝統に則り、テロリズムをその綱領に採用し、その別働隊たる「戦闘団」は内相フォン・プレーヴェ、皇叔セルゲイ大公をはじめ政府の高官を暗殺した社会革命党に対し、明らかに社会民主党以上の同情を寄せ共感を現わしている

後に1917年のロシア大革命の際、はじめ日本の社会主義者の間にレーニンやポリシェヴィキ理論を知る者が殆ど無かった事実を想起すれば、平民社同人が当時、社会民主党と社会革命党との本質について深い知識を有せず、マルクス主義的解釈分析に欠けていたことは理解できる。


堺利彦「通俗社会主義」(第2号より13回連載)。

英国だけで85万部出版されたという社会主義者ロバート・プラッチフォードの名著『楽しき英国』(原題は Merrie England )の自由訳。社会主義の通俗的な解説書。平易流麗な堺の名文は原著の趣味豊かなる内容を伝えた。この年12月、由分社から『通俗社会主義』として刊行。

「平民日記」に、「安部磯雄君は相変らずマルクスの『資本論』の翻訳に従事して居ます、『こんな六かしい本を読んだ事がない……初めは一頁二時間位で出来る積りであったが、実際やつて見ると時としては一頁に五、六時間も費す事がある』との事……」とある。


2月13日

社会主義大演説会。中止解散。聴衆700。警官隊と乱闘。

2月13日

(漱石)

「二月十三日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。

本郷区駒込浅嘉町(現・文京区本駒込一、三丁目)へ花を買いに行く。留守に寺田寅彦来る。皆川正禧宛自筆水彩画に、「皆川さんは倫敦塔の様なものでなくては御気に入らないがと思つたら吾輩の様なのも分るえらいと猫は大喜悦に御座候。同じ駒込區内にかう云知己があれば町内の奴が野良と云ほうが馬鹿猫と申さうが構ふ事はないと満足の體に見えます。此猫は向三軒両隣の奴等が大嫌ださうです」と書く。

二月十四日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する」(荒正人、前掲書)


つづく

時事通信映像ニュース(動画)あり / 「石破やめるな」首相官邸前でデモ 自民党内から退陣要求出る中で(朝日) / 官邸前で集会「石破辞めるな」 - 500人が激励、消極支持も(共同) / 「石破さん辞めないで!」異例の激励デモ 写真掲げ「イシバ」コール…官邸前に駆けつけた人たちの思いとは(東京) / 辞任求める声強まる中…「石破辞めるな」官邸前でデモ活動(日テレ) / NHKニュースウォッチ9 今夜の #石破やめるな の激励デモを報道。SNSでは「やめるな」タグが24万5000ポスト、「やめろ」タグが1万5000ポストだとも。     



 

2021年1月にトランプ支持者を率いて連邦議会を襲撃した「Qアノン・シャーマン」。トランプのエプスタイン問題への対応に失望するあまり、トランプを「詐欺師」「クソったれのバカ」と罵倒。 / 選挙中に陰謀論を振りかざしていたトランプが手のひら返し、MAGA派を分裂させてしまう(ニューズウィーク日本版);「昨年の大統領選でエプスタイン・ファイルを公開すると述べていたトランプだが、前言を撤回し、根も葉もない噂だと否定。挙句の果てに支持層を攻撃し始めた...」 / エプスタイン事件、「トランプ政権が情報隠ぺい」7割=世論調査(ロイター) / エプスタイン文書 の陰謀論が足すくう 自らの支持者に怒るトランプ氏(朝日) / トランプ氏、陰謀論めぐり支持者切り捨てか 「元支持者」「愚か」と攻撃(AFPBB) / MAGAは「愚かな人々」 トランプ氏支持者突き放す(共同) / ドナルド・トランプとMAGAは同一ではない、エプスタイン事件をめぐり運動に新たな亀裂 (英フィナンシャル・タイムズ紙 2025年7月17日付)    

 



 

2025年7月25日金曜日

2010 年、エプスタインがカメラの前で証言している貴重な尋問風景の動画。 尋問係: 「18歳以下の女性が同席している場でトランプと歓談したことはありますか?」 エプスタイン: 「その質問に答えたいが、少なくとも今日のところは憲法修正第5条、第6条、第 14 条を主張させてもらいたい」 ← 「ノー」と答えると偽証罪になるので、「私は黙秘権を行使し、法の下で正当な扱いと平等な保護を求める」という防御的な法的態度の表明をしている   



 

特検は本日(25日)、統一教会の元世界本部長ユン氏に対し、請託禁止法違反および業務上横領などの疑いで逮捕状を請求したと明らかにしました。ユン氏の身柄を確保し、キムゴンヒ夫人や韓鶴子総裁、政治圏とのつながりを探ることに注力する方針です。

「米連邦準備理事会 (FRB) 本部ビルの改修費用は高すぎ」といちゃもんをつけ、工事現場を視察に来たトランプ。 「改修費用は 31億ドル!」とデタラメを放つトランプに、眉間に深い皺を寄せ、首を横に振るパウエル議長。 トランプが手にした資料を見て「5年前に建てられた無関係の建物が含まれている」