大塚楠緒子
1905(明治38)年
1905年度から、台湾は本国から財政独立。
決め手となる地租増徴準備は、1898年児玉総督・後藤長官就任と同時に始まる。彼らは劉銘伝の清賦事業に際しての農民抵抗の事実を踏まえ、地租増徴の目的を隠して土地調査事業を進め、1904年突如大租権買収と地租増徴を断行。こうして、台湾内部での歳入増大の結果、1896年には全歳入の76%を本国からの補充に頼っていた台湾財政は、1905年にほぼ完全に本国財政から独立。しかし、それは台湾民衆にとってはそのまま負担増大の過程。
1月
第一銀行、韓国政府より国庫金取扱い特権獲得。貨幣整理事業委託契約(中央銀行化)。
1月
駐剳軍司令官、漢城地区治安警察権掌握。言論・出版・結社・集会統制。
1月
横浜正金銀行、旅順出張所設置。
1月
若山牧水(20)、尾上柴舟を中心に、正富汪洋、前田夕暮等と「金箭会」をおこす。数ヶ月で「車前草社」となりまもなく三木露風、有本芳水も加わる。
1月
吉野作造「本邦立憲政治の現状」(「新人」1・2月号)。「主民主義」(善政主義)を主張。吉野は前年(1904年)東大卒業。
1月
石川啄木「老将軍」(「日露戦争写真画報」明治38年1月号)。
老将軍
老将軍、骨逞しき白龍烏(はくりゆうめ)
手綱ゆたかに歩ませて、
ただ一人、胡天の月に見めぐるは
沙河(さか)のこなたの夜の陣。
けふ聞けば、敵軍大挙南下して
奉天の営を出でしとか。
おもしろや、輸嬴(ゆえい)をここに決すべく
精兵十万、将士足る。
銀髯(ぎんせん)を氷れる月に照らさせて、
めぐる陣また陣いくつ、
わが児等の露営の夢を思ふては
三軍御する将軍涙あり。
発(ひら)いては、万朶(ばんだ)花咲く我が児等の
精気、今凝る百錬の鉄。
大漠の深(ふ)け行く夜を警(いまし)めて
一声動く呼笛の音。
明けむ日の勝算胸にさだまりて、
悠々馬首をめぐらすや、
莞爾たる老将軍の帽の上に
悲雁一連月に啼く
啄木は開戦直後に「岩手日報」に随筆「戦雲余録」を寄稿。
「平和と云ふ語は、沈滞や屈辱と意味が同じではない」「(この戦争は)戦の為の戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為に戦ふのである」と述べ、日露戦争は義戦であり、ロシア解放のためにもなると主張。
その後、啄木は「時代思潮」第8号(明治37年9月)に掲載されたトルストイの非戦論を目にして心が揺れた、と8年後のノートに書き付けている。
ただ、「老将軍」を読む限り、彼の心の揺れは、非戦論に傾いたとまでは言い切れないようだ。
1月
布施辰治(26)、2度目の弁護士事務所を四谷南伊賀町に開設。
3ヶ月後、平沢光子(25)と結婚。市ヶ谷監獄典獄(刑務所長)が、在監未決囚で弁護士選定に迷う者に布施を推薦。
1月
呉海軍工廠で、軍艦「筑波」起工。1907年1月竣工。13,750トン、馬力23,000、速力22ノット以上。
1月
熊本県八代郡の群営干拓事業竣工。1,046町歩。
1月
大塚楠緒子「お百度詣で」(『太陽』)。
ひとあし踏みて夫(つま)思ひ
ふたあし国を恩へども
三足ふたたび夫おもふ
女心に咎(とが)ありや
朝日に匂ふ日の本の
国は世界に只一つ
妻と呼ばれて契りてし
人も此世に只ひとり
かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と
いづれ重しととはれなば
ただ答へずに泣かんのみ
お百度詣ああ咎ありや
大塚楠緒子:
本名は久寿雄。東大文科大学の美学教授大塚保治の妻で31歳。
父大塚正男は土佐出身の裁判官で、鹿児島、名古屋、宮城、東京等の控訴院院長を歴任。
20歳のとき、東大哲学科出身の小屋(こや)保治を迎えて結婚。保治は学生時代から夏目金之肋と親交があった。楠緒子の母伸子は女の教養として和歌を重んじ、娘を16歳のときから竹柏園佐佐木弘綱の門に通わせた。弘綱の死後は、息子の信綱について引きつづき和歌を学んだ。
楠緒子は細面、色白の美しい少女であった。
明治26年、お茶の水にあった東京高等女学校を首席で卒業し、28年に小屋保治を婿に迎えた。保治は28歳で、東京専門学校の講師をしていた。
浮説であるが、彼女は、その年東大の英文科を出て東京高等師範学校の教師をしていた夏目金之助との間に暗黙の約束を持っていたが、夏目との黙約を放棄して小屋と結婚した、と言われた。
夏目と大塚姓に変った保治との間には親交が続いた。
保治は小柄で寡黙な、学問に専心する人で、夏目が東大で教えるようになったのは保治の推薦によるものであった。
楠緒子は結婚前から尾崎紅葉の作風を追いながら小説の試作をしていたが、明治29年から4年間にわたる夫の留学のあいだには、明治女学校に通って新時代の教養を取り入れ、一層文芸著作に身を入れた。
明治30年1月、「文芸倶楽部」の閨秀作家号に書いた「しのび音」では一葉に比較され、以後毎年2、3篇ずつ小説を発表した。
才気に溢れた美しい人妻で、大学教授夫人たちの社交仲間の中心であった。
つづく

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