2025年7月12日土曜日

大杉栄とその時代年表(553) 1905(明治38)年1月 「『今回の事件はこの論文の予測を完全に裏づけた。今や、ゼネラル・ストライキが闘争の主要な方法であることを否定するものは誰もいまい。1月9日の行進は、いかに坊主の法衣に隠れていようとも、最初の政治的ストライキだ。これだけは言っておかなければならないが、ロシアの革命は、民主主義的労働者政府の権力をもたらすだろう』――パルヴスは、こうした趣旨のことを、私の小冊子の序文に書いてくれた。」(トロツキー『わが生涯』)

 

パルヴス

大杉栄とその時代年表(552) 1905(明治38)年1月 「ひとあし踏みて夫(つま)思ひ ふたあし国を恩へども 三足ふたたび夫おもふ 女心に咎(とが)ありや 朝日に匂ふ日の本の 国は世界に只一つ 妻と呼ばれて契りてし 人も此世に只ひとり かくて御国(みくに)と我夫(わがつま)と いづれ重しととはれなば ただ答へずに泣かんのみ お百度詣ああ咎ありや」(大塚楠緒子「お百度詣で」(『太陽』)) より続く

1905(明治38)年

1月

大町桂月「詩歌の骨髄」(「太陽」1月号)

桂月は、与謝野晶子の詩の第三連を、「天皇自らは、危き戦場には、臨み給はずして、宮中に安坐して居り給ひながら、死ぬるが名誉なりとおだてゝ人の子を駆りて、人の血を流さしめ、獣の道に陥らしめ給ふ。残虐無慈悲なる御心根哉」と解釈する。

そして、「国民として、許すべからざる悪口也、毒舌也、不敬也、危険也」と断言し、「私は国家主義を唱える者、皇室中心主義を唱える者だ」と自白し、「もしわれ皇室中心主義の眼を以て、晶子詩を検すれば、乱臣なり、賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるもの也と激情的に決めつける。

これに対して、新詩社として、与謝野寛・平出修が大町桂月に対談を申し込み彼の住む蜀紅園(徳川時代の女傑春日の局の別荘跡)を訪問した。立会人として、大学生の生田星郊、また席上には文学士横山健堂も来合わせた。1時間半にわたる論談の結果、新詩社側は桂月の論理の矛盾を指摘し論破した。その要領は、平出修「詩歌の骨髄とは何ぞや」(「明星」2月号)に掲載された。

問いと答えの間に、桂月の「答無し」、「日本語を知らず」、「話題を転じて答へず」、「やゝ窮す」「全く窮す」、「議論、支離滅裂なり」などと記してある。

平出修は晶子詩の第三連を、「天皇陛下は九重の深きにおはしまして、親しく戦争の光景を御覧じ給はねど、固より慈仁の御心深き陛下にましませば、将卒の死に就いて、人生至極の惨事ぞと御悲歎遊ばさぬ筈は有らせらるまい。必ず大御心の内には泣かせ給ふべけれど、然も陛下すらこの戦争を制止し給ふことの難く、巳むを得ず陛下の赤子を戦場に立たしめ給ふとは、何と云ふ悲しきあさましき今の世のありさまぞや」と解釈して桂月に示す。

桂月も「その如く解し得られざるにもあらず」と答え、修が晶子詩は「必ずしも危険の分子を含むとも云ひ難かるべし。如何」と問えば、桂月「それ丈けの感情を平時に云ふならば可ならむも、挙国一致の今日、宣戦の詔勅に対して畏れ多し」と答えている。

また、桂月の「詩歌の骨髄」と同じ「太陽」に載った大塚楠緒子の「お百度詣」に関しての問答は以下。

問 然らば大塚女子の作は如何。

答 此れは大に善し。「只答へずに泣かんのみ」と詞を切りたるが善し。

問 之を反語に解せば如何。

答 此作には反語の意なし(桂月氏日本語を知らず。)

問 「お百度詣咎ありや」と云ひ、又「女心に咎ありや」と云ふ、何れも明白なる反語ならずや。

答 (桂月氏話題を転じて答へず。)

とあり、桂月は「お百度詣」は反語を否定して是認している。


桂月が晶子詩を容認できない根本的なものは戦争観の違いであるが、それをそのまま答えるわけにいかないので、いろいろな表現をしている。

例えば「内容、形式、共に批難あり」、「怨嗟の声なる点が悪ろし、国家を怨み、君を怨む点が危険の思想なり」、「歌の表示は露骨なり、加ふるに怨み方もあまりに極端なり」、「此詩は全体に云へば女の愚痴なり、ダダを捏ねたる姿なり」などと答え次のような問答もある。

間 貴下の「詩歌の骨髄」は論理の一貫を欠きたるやに想はる。如何。

答 或は然らむ。

問 然らば貴論中に見ゆる「乱臣賊子云々」の語は、甚しき暴言にあらずや。

答 文章上修辞の勢にて彼の如き文字を用ゐたり。今思へば不穏の文字にして、晶子女史には気の毒なり

1月

永井荷風(26、カラマズ・カレッジの聴講生)の父、シアトル訪問するが、3千km離れたカラマズに居た荷風とは会わなかった。

1月

トロツキー夫妻、ミュンヘンに向かう。パルヴス宅に宿泊。「1月9日以前」の序文を書いて貰う。パルヴスはこのロシア革命で労働者政府が生まれることを予見。後、夫妻はウィーンに移る。

「これ以上国外にとどまってなどいられなかった。大会以来、私はボリシェヴィキとつながりを持っていなかった。メンシェヴィキとも組織的には手を切っていた。私は自分の責任で行動しなければならなかった。パスポートは学生を通じて入手することができた。1904年秋に再び国外に戻ってきていた妻[セドーヴァ]とともに、ミュンヘンに向かった。パルヴスが自分の家に私たちを住まわせてくれた。その家でパルヴスは、1月9日以前の事態を論じた私のパンフレット原稿を読んだ。その顔には興奮の色が隠せなかった。

 『今回の事件はこの論文の予測を完全に裏づけた。今や、ゼネラル・ストライキが闘争の主要な方法であることを否定するものは誰もいまい。1月9日の行進は、いかに坊主の法衣に隠れていようとも、最初の政治的ストライキだ。これだけは言っておかなければならないが、ロシアの革命は、民主主義的労働者政府の権力をもたらすだろう』――パルヴスは、こうした趣旨のことを、私の小冊子の序文に書いてくれた。」(トロツキー『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)


「パルヴスは、疑いもなく、前世紀の終わりから今世紀の始めにかけて傑出したマルクス主義者であった。彼はマルクスの方法を自在に駆使し、広い視野をもち、世界の舞台で展開されているあらゆる重要な事柄を追っていた。このことは、その思想のすばらしい大胆さと力強くたくましい文体とあいまって、彼を真に傑出した著述家たらしめていた。彼の初期の諸労作は社会革命の諸問題に私を近づけ、プロレタリアートによる権力の獲得を、私にとって天文学的な「終局の」目標から現代の実践的課題へと決定的に変えてくれた。

 しかし、パルヴスの中には、いつも何かしら無分別であぶなっかしい要素があった。何よりもこの革命家は、金持ちになるというまったく思いもかけぬ夢想にとりつかれていた。そして、当時彼は、この夢想を自分の社会革命的構想とも結びつけていた。

 『党機構は硬直してしまっている』、彼は嘆いた――『ベーベルでさえすっかり頭が固くなっている。われわれ革命的マルクス主義者には、同時にヨーロッパの3つの言語で発行される大日刊紙が必要だ。だが、それには金がいるんだ、大金が』。

 このように、この重く丸々としたブルドッグのような頭の中には、社会革命に関する思想と富に関する思想とがからみ合っていた。彼はミュンヘンで自分の出版社を設立しようと試みたが、これはかなり惨めな結果に終わった。その後、パルヴスはロシアにおもむき、1905年の革命に参加した。だが、その思想の先駆性と独創性にもかかわらず、指導者としての資質はまるで発揮されなかった。1905年革命の敗北後、彼にとって下降期が始まった。ドイツからウィーンに移り、そこからさらにコンスタンチノープルに移って、そこで世界大戦を迎えた。この戦争においてパルヴスは一種の軍需商人として活躍し、たちまち金持ちになった。それと同時に、彼は、ドイツ軍国主義の進歩的使命を公然と擁護するようになり、左派と完全に手を切り、ドイツ社会民主党における最右翼のイデオローグの一人となった。世界大戦の勃発以来、私が彼と政治的のみならず、個人的にも関係を断ったことは、言うまでもない。」(『わが生涯』第13章「ロシアへの帰還」より)

*晩年、パルヴスはドイツ社会民主党の右派指導者エーベルトの顧問となる


「1月9日の血の日曜日事件は、ロシアの歴史的運命に新しい時代を切り開いた。ロシアはその発展の革命的時期に突入した。旧体制の崩壊がはじまり、新しい政治的勢力配置が急速に形成されつつある。革命の思想的プロパガンダが将来の事態を予告したばかりで、したがってそのような事態が空想的なものに見えていたというのに、今や現実の事態が意識を革命化し、革命戦術の構築の方が革命的発展に間にあわないでいる。革命は政治的思考を前方へ駆り立てる。わずか数日の革命的日々のあいだに、ロシアの世論は徹底した批判を政府権力に浴びせ、統治形態に対する自らの態度を明確なものにした。それは、国内に議会制度がある場合でさえ何年もの発展によって達成される水準をはるかに凌駕していた。上からの改革という観念は脇へ投げ棄てられた。それととともに、ツァーリの国民的使命なるものへの信頼も地に堕ちた。それに続いてただちに、世論は立憲君主制という観念と袂を分かち、たった今まで空想的と思われていた革命的臨時政府や民主共和制という観念が政治的現実性を帯びるようになった。……

 ロシアにおいて革命的変革をなし遂げることができるのは労働者だけである。ロシアの革命的臨時政府は労働者民主主義の政府になるだろう。社会民主党がロシア・プロレタリアートの革命運動の先頭に立つならば、この政府は社会民主主義的な政府となるだろう。社会民主党がその革命指導においてプロレタリアートから離れるならば、それは取るに足らないセクトと化すだろう。

 社会民主主義的臨時政府は、ロシアで社会主義的な変革をなし遂げることはできないだろうが、専制の崩壊と民主共和制の樹立の過程そのものがすでに、有利な政治活動の基盤をこの政府に与えるだろう。……"

 今後の政治的発展がどのようなものであれ、いずれにせよわれわれは他のすべての政治的潮流から自己を区別しなければならない。革命はさしあたりは政治的相違を払拭している。それだけに、歴史的な1月9日の日曜日以前に諸党派の政治的戦術がどのように展開されてきたかを確認することはますます重要である。同志トロツキーの小冊子から、自由主義派と民主主義派がいかに無気力で不決断な仕方で政治闘争を行なってきたかを知ることができる。それは、上からの改革を遂行するために政府に圧力をかけることに完全に帰着する。彼らは他のいかなる可能性も認めず、他のいかなる展望も見ようとしなかった。そして、政府が彼らの助言や嘆願や要求を考慮するのを断固として拒否するやいなや、人民から隔絶している彼らはたちまち行き詰まってしまった。彼らは無力であり、彼らには反動政府に対置すべきものが何もないことが明らかになった。他方、ロシアの労働者の政治闘争がいかに発展してきたか、それがいかにますます拡大し、ますます大きな革命的エネルギーに満たされているかをこの小冊子から知ることができる。この小冊子は1月9日以前に執筆されたが、その中で述べられているロシア・プロレタリアートの革命闘争の発展は、その後の事態がわれわれを感嘆させるほど巨大なものになったとしてももはや驚くに値しないほどの水準にまで至った。プロレタリアートは、革命を生み出したことによって、自由主義派と民主主義派を袋小路から解放した。今では、彼らは労働者にくっついて、新しい闘争方法を見出し、それとともに新しい手段をとり始めている。プロレタリアートの革命的攻勢のみが、他の社会的階層を革命化したのだ。

 ロシア・プロレタリアートは革命を開始した。革命の発展と成功は、ひとえにプロレタリアートにかかっている。」(パルヴス「『1月9日以前』序文」、1905年1月18日、より)


1月

ロシア、ゴーリキー逮捕。この年後半にロシア社会民主労働党に入党。

1月

仏、モロッコのフェズにタイヤンディエを派遣し、仏指導下の大幅な改革要求(~5月)。

1月

トランスヴァール、ルイス・ボータ将軍とスマッツ、人民党結成。責任ある政府の設置を要求。オレンジ・リバー植民地でも、オレンジ連合党結成。

1906年12月6日、の動きを受けて自治政府誕生。

1月

独、ルール炭鉱労働者ストライキ。20万人以上参加(~2月)。

1月

ベルギー、労働時間短縮要求の鉱山労働者ストライキ。

1月

~2月、ポーランド、ワルシャワ近郊、ウィチの工業地帯で労働者40万人スト。

1月

メキシコ、マゴン暗殺未遂事件。マゴンはサンアントニオからさらにセントルイスに逃亡。


つづく


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