武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す 秋瑾女史伝』
大杉栄とその時代年表(599) 1905(明治38)年8月11日~16日 桂・原第3回秘密交渉。 原は西園寺と相談した上で講和には反対しないと言明。政権移譲時期は西園寺の都合次第。但し、政友会一党の政党内閣にしない、憲政本党と連立しない、を条件とする。原は了解。 より続く
1905(明治38)年
8月17日
講和問題同志連合会大会、東京で開催。日露講和条約反対を決議。
8月17日
ポーツマス、講和談判。
⑨軍費払戻(賠償金支払い)問題、紛糾。棚上げし、午後は⑩清国の逃込んだロシア軍艦引渡し討議。国際法規定もなく、⑪極東の軍事力制限問題に移る。
ロシア側は、海軍力制限に同意はできないが、極東に強力な海軍力を保有しないという宣言を出すと譲歩提案。ウィッテは翌18日に第12条を討議し、翌週月曜を最終会議にしたいと提案(現実的に、海軍再構築は無理)。
ロシア側・日本側共に、賠償金以外で日本側条件を通すべく本国に具申。
8月18日
ポーツマス日露講和会議。
午前10時、日本側は樺太割譲・軍費払戻についてロシア側が譲歩するなら、抑留軍艦引渡し・極東海軍力制限の10・11条を撤回するとの覚書提出。ウィッテは全権委員のみの秘密会議を提案。ウィッテは樺太全島割譲の覚悟を固めているが、南北分割し北部をロシア・南部を日本が保有する案を提案。小村はそれを逆手にとって、樺太北半を返還するので、その代償として12億円を要求する妥協案を提出。
小村は戦費16億5千万円にみあう15億円獲得する訓令をうけており、ウィッテは寸土も占領されていないため賠償金は支払わぬとの訓令をうけている(ウィッテは賠償金ではなく樺太北部還付の報酬として支払う腹を固める)。
8月18日
山路愛山ら、国家社会党結成。
8月19日
(漱石)
「八月十九日(土)、高田知一郎(梨雨)宛に、談話「水まくら」(『新潮』八月号)で、新体詩「春の夜」の批評は恐縮していると伝える。八月六日(日)野村伝四宛手紙には、「神泉に出て居る梨雨先生の春の夜と申す新體詩を御覧下さい。あれは往来を色眼ばかり使つてあるく女學生位な程度だ。」と書く。
八月二十日(日)、小雨。冷気著しい。夜、寺田寅彦来る。
八月二十二日(火)、雨。午後、寺田寅彦来で、白玉の帯鐶(おびわ)贈られる。」(荒正人、前掲書)
8月19日
ロシア皇帝ニコライ2世、ブイルギン議会開設の勅令。
8月20日
緊急閣議、報酬金減額やむなし、講和成立求む。天皇裁可。報酬金12億円の「多少」の減額は小村の裁量に任すと小村に打電。
8月20日
中国革命同盟会結成
東京・赤坂霊南坂坂本金弥代議士邸。諸革命派の大同団結。総理孫文(39、興中会)、庶務長黄興(31、華黄会)、宋教仁ら、民族・民権・民生、三民主義。『二十一世紀之支那』を機関報に。
加盟者は数百人をかぞえ、「韃虜(だつりょ)を駆逐し、中国を回復し、民国を建立し、地権を平均する」という政治綱領と規約をさだめた。
前年の明治37年、黄興が2度目に来日した時、日本では湖南省の武装蜂起の様子が清国留学生たちの間で知れ渡り、黄興は「英雄」として大歓迎を受けた。
そしてこの年8月、世界を回って来日した孫文と初対面で意気投合し、革命連合組織の中国同盟会を組織した。
中国同盟会結成後、黄興は早稲田大学に在籍しながら、機関誌『民報』の発行準備にとりかかった。彼は宮崎滔天を介して知り合った福岡出身の志士末永節に、「雑誌の編集部を置くための家を借りたい」と告げ家探しを始めた。末永節は大アジア主義者の頭山満を総帥とする玄洋社社員で、武道家、後に全日本少林寺拳法(現、「全日本少林寺拳武徳会」)の初代宗家となる。
末永節の証言。
『民報』をやったのは牛込の○○というところだった。その家を探す時も黄興と二人であちこち歩き回った。
麹町の大きな門構えのケヤキの巨木のある家をみつけて、この家にしようではないかと言ったが、黄興はこれにするとは言わなかった。それがずっと回って、牛込を歩いておったところが、貸家と書いてあったので、そこに入った。うちに泉水がある家だったが、間取りを見た上で、黄興が、
「此処にしましょう」と言う。
「どうして・・・・・」と問うと、
「あの麹町の家は暗いと思います。目が悪くなります。この家がいいです。ここに水があるでしょう。ここに鯉を入れればよいでしょう。あなたは鯉が好きでしょうが・・・・・。二人で食べましょう」
と言うから、ここを借りることに決めて、その保証人がいるので、古賀廉造さんのところへ頼みに行きました。・・・・・古賀廉造は大審院の検事で、なかなか立派な人だった。家主も快く承諾してくれた。
(浅野英夫編、『無頼放談』社団法人・玄洋社記念館発行、2016年)
こうして『民報』編集部の所在地が決まった。住所は、牛込区東五軒町19番地(現、新宿区東五軒町3番22号)で、末永節が発行人を引き受けた。
宋教仁(23歳)の来日は、前年明治37年9月
宋教仁は1882年に湖南省桃源に生まれる。字は得尊、号を鈍初、敦初、筆名は漁父という。友人評は、「身の丈は七尺余、額は広く鼻は隆々とし、眼光炯々としてするどい。天性、闊達にして英敏である。時事問題に深い関心をもち、とくに軍事を好んで議論した」(鴻為鎣の「伝」より、『宋教仁の日記』、宋教仁著、松本英紀訳注、同朋舎出版、1989年)という。
幼時に父を亡くし、母の手ひとつで育てられたが、代々知識階層の家柄で成績優秀、ガキ大将でもあった。地元の漳江書院に入学した後、湖北の文普通学堂で新式教育を受けて革命に目覚めた。同じ湖南省出身の黄興らと華興会を立ち上げて武装蜂起しようとしたが、発覚して上海へ逃亡し、そのまま日本に渡った。
宋教仁は日本語学校弘文学院に入学したが、政治・軍事好きが昂じて、同じ湖南省出身の親友陳天華らと雑誌『二十世紀之支那』を創刊。この雑誌は先鋭的な理論雑誌として注目されたが、すぐに「危険分子」として日本政府の監視対象になり、第2号発行直後に神田警察署に押収され停刊処分になった。考えあぐねているとき、孫文・黄興らが革命組織の中国同盟会を作ったので、名前を『民報』と変えて機関誌とした。執筆・編集は宋教仁がそのまま受け持った。
宋乗数仁は並み外れた読書家で、最初は清国政府の役人を務める先輩にアルバイトを頼まれ、『各国警察制度』『俄国制度要覧』『澳大利匈牙利制度要覧』『比利時澳匈俄財政制度』『美国制度概要』『澳匈国財政制度』などの本を翻訳したが、それがきっかけで国政に興味を持った。自分では王陽明の思想書や心理学の書籍を熟読する一方、『日本憲法』『国際私法講義』『普魯士王国の官制』『徳国官制』『清俄の談判』などを翻訳して外国の近代科学を吸収し、中国哲学の良い点と結びつけようとした。
宋教仁『我之歴史』は、日記形式で綴られた自叙伝で、1904年9月の湖南省での華興会の武装蜂起失敗に始まり、上海へ逃れた経緯や日本到着後の様子などが記され、1907年4月、馬賊工作のために満州へ赴くまでの約2年3ヵ月、ほぼ1日も欠かさず丹念に書かれている。筆で書いた文字は丁寧で見惚れるほど美しい楷書体で、宋教仁の誠実で几帳面な性格が偲ばれる。宋教仁の思考の変遷や革命活動の内情を知るうえで、第一級の貴重な歴史資料である。
日記には、陳天華の入水自殺の前後3ヵ間が抜けている。それは陳天華の死に際して、中国同盟会のリーダー孫文と黄興が冷淡な態度をとったと感じた宋教仁が反発して、激しい罵り言葉を書き連ねたからではないかと推測されている。宋教仁がずっと抱き続ける孫文への反発心は、この時期に芽生えたもののようだ。
陳天華(22歳)の抗議自殺
明治38年、日本の文部省は清国留学生の政治活動を封じるために清国留学生取締規則を発布した。宋教仁の親友陳天華(22歳)は、激情のあまり大森海岸で抗議の入水自殺をした。衝撃を受けた留学生たちは一斉に授業をボイコットし、退学届を出し、2千名近い留学生が帰国していった。宋教仁は陳天華の遺体を大森海岸まで引き取りに行き、遺書である「絶命書」に情感のこもった跋文を添えて彼の伝記を書き、その後は革命陣営から距離を置くようになった。
宋教仁は、早稲田大学清国留学生部予科に入学し、早稲田大学の裏手にある「瀛州筱処(いんしゅうゆうしょ)」(豊多摩郡戸塚村大字下戸塚268番地、現、新宿区西早稲田1丁目16番周辺)に下宿した。
彼は勉強に没頭した。詳細な日課を作って分刻みで日常生活を過ごし、厳しく自分を律した。しかし生来の神経質も手伝って、次第に精神的に追い込まれていった。革命陣営から距離を置いてはいたが、『民報』の編集は続けていた。毎日のべつまくなし友人が訪れてきて忙しかった。
「清国留学生取締規則」に反撥して総帰国を主張する秋瑾
「清国留学生取締規則」に留学生たちは激しく反発し、清国留学生会館で緊急集会を開いた。
学生たちが問題視したのは、「清国留学生取締規則」第10条、「清国人ヲ入学セシムル公私立学校二関スル規定」の「性行不良」という文言だった。「性行不良」には明らかに革命運動も含まれるとして、授業の一斉ボイコットを呼びかけた。
女子学生の秋瑾は反対運動の急先鋒のひとりだった。秋瑾は、清国留学生会館で開かれた浙江同郷会の席上、留学生の「総帰国」を強く主張。煮え切らない態度の留学生がいるのを見ると、激昂して「死刑!」と叫んだ。
魯迅の弟の周作人は、そのときの様子を『魯迅の故家』にこう記す。
留学生は挙って反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味ではないことを知っていたから、賛成しない人が多かつたが、それでこの人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳(魯迅の親友)もその中に入っていた。魯迅は彼女が一口の短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している。
実際のところ、孫文も留学生の「総帰国」には反対だった。帰国して戦いに参加すれば、無駄に若い命を失うことになり、革命勢力にとっては大きな損失になると考えていた。それゆえ中国同盟会の同志による留学生への説得工作もあったようだ。
しかしながら、授業ボイコット運動は過熱し、全留学生の約半数が帰国を決めると、その年12月、秋瑾率いる「総帰国」賛成派が一斉に帰国した。
秋瑾は故郷の浙江省に戻ると、大通学堂を開校して軍事訓練を行いつつ、安徽省の徐錫麟と呼応して武装蜂起を画策したが、情報が洩れて逮捕され、1907年7月15日早朝、斬首された。31歳の若さであった。
魯迅にとって、秋瑾の印象は強烈で、彼女の死はいかにも無念であった。評論文「「フェアプレイ」はまだ早い」(1925年)では、中国の旧勢力の悪辣さに警鐘を鳴らす一方、秋瑾の死について書いている。
革命は・・・・・すこぶる「文明」になった。・・・・・われわれは水に落ちた犬は打たぬ、勝手に上ってこい、というわけである。そこで、かれら(旧勢力の紳士や官僚)は上ってきた。民国二年の後半期までひそんでいて、第二革命の際、突如あらわれて袁世凱を助け、多くの革命家を咬み殺した・・・・・これすなわち、革命の烈士たちの人のよさ、鬼畜にたいする慈悲が、かれらを繁殖させたのであって、そのため目ざめた青年は、暗黒に反抗するためには、ますます多くの気力と生命とを犠牲に供さねばならなくなったのである。
秋瑾女史は、密告によって殺されたのだ。革命後しばらくは「女侠」とたたえられたが、今ではもうその名を口にするものも少なくなった。革命が起こったとき、かの女の郷里には都督 - いまいう督軍とおなじもの - が乗り込んできた。それはかの女の同志でもあった。王金発だ。かれは、かの女を殺害した首謀者をとらえ、密告事件の証拠書類を集めて、その仇を報じようとした。だが結局は、その首謀者を釈放してしまった。・・・・・ところが、第二革命の失敗後になって、王金発は袁世凱の走狗のために銃殺された。その有力な関係者に、かれが釈放してやった秋瑾殺害の首謀者があった(『魯迅評論集』竹内好編訳、岩波文庫、1981年)。
清国留学生会館は、留学生たちの政治運動の場と化した。四方の壁には日本政府に対する反対運動のスローガンや中国革命を擁護する張り紙、集会の開催予定を記したメモなどがびっしりと張られ、人の出入りが激しくなった。
やがて手入れを忘れた家屋は荒れ果て、留学生の憩いの場でなくなったことで、清国公使館は運営を停止した。
日本に居残った留学生たちは、1907(明治40)年、北神保町(現、神田神保町2丁目)に新設された中華留日基督教青年会館へと移動していった。そこには宿泊施設も食堂も完備されていたため、新たに来日した留学生たちの臨時の宿泊所として機能し、憩いの場となった。
秋瑾の来日も宋教仁と同じく前年の明治37年
秋瑾は、魯迅と同じ浙江省紹興出身、北京で結婚して二児をもうけたが、親の決めた結婚に飽き足らず、明治37年、単身日本へ留学した。「自分は革命のためにのみ存在するのだ」という強い覚悟をもっての来日だった。
日本で弘文学院速成師範科に編入し、青山実践女学校で教育、工芸、看護学などを熱心に学んだ。一方で、中国同盟会に参加して浙江省の責任者になり、神楽坂の武術会に通って射撃の訓練に励み、爆弾製造の技術も学んだ。ずばぬけた美貌と激しい気性、激烈な革命志向をもつ女子学生の秋瑾は、留学生のなかでもひときわ目立つ存在だった。
つづく