2025年8月31日日曜日

「辞める必要なくない?」石破首相擁護に傾く人びと、そのココロは? 記者コラム「多事奏論」 編集委員・高橋純子(朝日 有料記事);「考えてみれば石破茂という政治家は1990年代初め、金権腐敗極まる自民党で「党改革派の急先鋒(きゅうせんぽう)」として頭角を現し、宮沢喜一首相の私邸を急襲して政治改革を直談判したり、自民党を離れて新生党→新進党と渡ったり、4年後に復党すると「裏切り者」として冷や飯を食らい続けたりしたのだ。そりゃ打たれ強いわな。いまの鬼とあの頃の自分、鬼気の度合いを引き比べ、「まだまだ」と踏んでいるのかもしれない。」 / 首相「直ちに交代を」36→32%に 続投容認6割 自民支持層は8割(日経)   

アンジェリーナ・ジョリーをはじめ、有名セレブも米国を離れる米国の今――一般の市民の間にも広がる「米国脱出」の動き(東洋経済 有料記事)

 

石破辞めろとかテレビで言ってる、落選したヒゲのひと。マトモに字が書けてないのが寂しい。

米国、アッバス議長ら80人のビザ発給拒否-国連総会への出席困難に(Bloomberg);「国連本部をニューヨークに設置することを定めた『国連本部協定』では、米国は当地での国連関連行事に出席する各国高官にビザを発給する義務を負」う。

 

大杉栄とその時代年表(603) 1905(明治38)年9月 夏目漱石『一夜』(「中央公論」) この小説を夏目に書かせるために毎週のように通って来ていたのは、「中央公論」の編輯者で東京帝大法科に籍を置いていた滝田哲太郎(23歳、秋田出身、仙台・第二高等学校から東大文科、明治37年法科に転じる)。 滝田は漱石に心酔し、次作をもとめて夏目家に通いつづけた。 

 

滝田 樗陰

大杉栄とその時代年表(602) 1905(明治38)年8月27日~31日 池辺三山(41、東京朝日新聞の主筆)、ポーツマス講和談判で賠償・領地での大幅譲歩を知り「桂を見限る決心。翌三十一日より筆鋒を桂内閣に差向くる」(日記)と書く。 より続く

1905(明治38)年

9月

鈴木文治上京。帝大青年会、本郷教会(海老名弾正)所属。

9月

吉野作造「社会主義と基督教」(「新人」)。

翌10月、「再び社会主義と基督教に就きて」(「新人」)。

社会主義者とは一線を画すが、社会問題の解決の必要性では提携出来る。「人心改善」が急務。

9月

小山東助「社会改良の将来」(「新人」)。漸進的社会改良主義主張。

9月

日露講和条約反対の多数の新聞に発行停止処分

9月

漱石(38)、短編小説『一夜』(「中央公論」)  

夏目漱石『一夜』(青空文庫)      

この小説を夏目に書かせるために毎週のように通って来ていたのは、「中央公論」の編輯者で東京帝大法科に籍を置いていた滝田哲太郎(23歳、秋田出身、仙台・第二高等学校から東大文科、明治37年法科に転じる)。

『一夜』は、観念的な現代小説で、よい出来ではなかったが、滝田は漱石に心酔し、次作をもとめて夏目家に通いつづけた。滝田は書や絵に興味を持っており、紙を持って来て夏目に書を書いてもらった。夏目は気特を落ちつけるために時々書を書いたので、書を書かせる滝田が気に入っていた。

「新小説」で後藤宙外の下で働いていた本多嘨月(しようげつ)も家が夏目家の近くであったので、しょっちゅう立ち寄っては、戦後の日本文壇に対する批評を求めた。

本多は夏目の小説をほしがっていた。この時代、「新小説」は「中央公論」よりももっと文壇の中心にある重要な発表機関であったが、夏目は中々承知しなかった。

■「中央公論」と滝田哲太郎(樗陰)

滝田哲太郎が入社した明治36年の「中央公論」の印刷部数は1,000部。うち300部は寄贈用、年極め読者と店頭で売れるのとを合せて300部、残り400部の返品が毎月、麻田社長の私宅兼社の玄関に稲み上げられていた。

「中央公論」の前身は「反省会雑誌」である。

維新前、国禁を犯して米国に渡り、キリスト教徒となって帰った新島襄が、明治8年11月に京都に設立した同志社は、発展して明治18~19年頃には確実な基礎を持つに至った。そのことは、京都を本拠とする仏教の各宗団に大きな影響を与えた。新時代の文化の急激な流入は、キリスト教精神と結びついたものであった。キリスト教は仏教に見られない積極的な方法をもって、青年たちの心を揺り動かしていた。仏教・神道は廃滅した宗教であるかのような感じを世に与えた。この頃、僧侶の生活は乱れ、若い僧たちの遊蕩は大目に見のがされるようになっていた。仏教は老人たちの宗教で、キリスト教は進歩的な、未来の夢想を抱く青年たちの宗教となっていた。

西本願寺の法主大谷光尊は、そのような時代の中で仏教に新しい道を開くために、同志社に対抗するような進歩的な宗教教育の計画を立て、中等教育と高等教育を目的とする二つの学校(普通教校と大学林)を作った。普通教校では、仏教再建の目標として「禁酒進徳」という標語を掲げ、明治19年4月6日、反省会なる団体を結成した。

そして翌明治20年8月、機関誌として「反省会雑誌」が創刊された。反省会の中心人物は普通教校の監事の里見了念、執筆者は、高楠順次郎、桜井義肇、古河勇、梅原融等。この雑誌の出る半年前に、同志社の出身者、徳富蘇峰によって「国民之友」が東京で創刊され注目を浴びていたが、「反省会雑誌」は地方で発刊された宗教教育の機関誌であり、評壇の注目を引くことはなかった。

明治25年5月、新門主の大谷光瑞はこの雑誌を独立させる計画を立て、反省雑誌社なる経営体を組織し、題を「反省雑誌」と改め、本拠を東京に移した。西本願寺系の桜井義肇と麻田駒之助が、それぞれ編輯主任、庶務主任となり、外に篠原温亭という事務員がいて、社員は全部で3人であった。当時の東京には民友社の「国民之友」、博文館の「太陽」、政教社の「日本人」、内村鑑三の「聖書之研究」、竹越三叉の「世界之日本」等の評論雑誌があり、「反省雑誌」の部数はせいぜい1,500部~2,000部で、「聖書之研究」の3千部にも及ばなかった。

明治30年8月、「反省雑誌」は「国民之友」にならって夏期附録を特輯した。巻頭に岡倉天心の「美術教育の施設に就て」という論文をおき、作品として露伴の「雲のいろいろ」、子規の「滝」、樗牛の「わが袖の記」、鉄幹の「小百合」、虚子の「零露五十顆」等の散文と詩歌をのせた。この文芸特輯はよく売れた。この頃反省雑誌社では英文の「反省雑誌」も出しだが、2~3年で終刊になった。損害はすべて西本願寺の門主大谷光瑞が負担した。

欧洲留学から帰国した仏教学者高楠順次郎のすすめにより、明治32年1月号から「反省雑誌」は「中央公論」と改題した。編輯主任は桜井義肇は宗教学校の経営方針のことで本願寺内局と対立し、明治37年、独立して「新公論」を創刊した。そのため「中央公論」の編輯出版の全権が麻田駒之助の手に帰した。「新公論」は、一時は2万5千部に達したが、経営に失敗して3年ほどで廃刊になった。「中央公論」は麻田の経営に移ってから、「新公論」に押されながらも、どうにか存続していた。発行部数は1,000~2,000部の微々たるものだった。

明治37年1月、岡山県人で、白鳥正宗忠夫の親しい友、秋江徳田浩司(29歳)が「中央公論」編輯主任として入社。明治34年、彼は正宗白鳥とともに東京専門学校を卒業し、博文館編輯部で「中学世界」編輯助手となったが、半年足らずで辞め、母校の附属出版部に勤め、正宗忠夫と一緒にいた。徳田は気分屋の怠けもので、仕事を正宗に任せ働かなかった。彼は在学中から、島村抱月が編輯主任をしていた「読売新聞」の「月曜附録」に小説の批評を書いたりして、文壇通を任じていた。徳田は、一時「中央公論」編輯室を小石川小日向台町の自分の家に移し売りしたが、結局麻田の期待するほどの仕事をせず、半年後に辞めた。

当時、仙台・第二高等学校をから東大に入っていた滝田哲太郎「中央公論」の「海外新潮」欄を受け持って、切抜き翻訳で学資を稼いでいた。明治37年に秋江が辞めたあと、麻田は、高山覚威を編輯主任とし、滝田を編輯実務に当らせた。前の文芸特輯がよく売れたので、高山と滝田は小説を毎月載せることを麻田に建言した。しかし、麻田駒之助は宗教畑出身であり、「反省会雑誌」以来のこの雑誌の道徳的立場を棄てることができなかった。文芸作品を載せれば売れることは分っていたが、この頃から文壇小説は次第に変質して、前年の明治36年「読売」に連載されて読者の人気を博した小杉天外の「魔風恋風」などのように恋愛の露骨を描写をするものが多くなっていた。高山と滝田が小説を載せることを主張したとき、麻田はその執筆者について心配し、すぐには受け容れなかった。結局故高山樗牛の友人で、高等師範学校の教授の竹風登張信一郎に頼むことにした。

登張竹風は、東京帝大独文科の出身でこの時数え年32歳。明治34~35年頃、高山樗牛がニーチェの思想を論じ、それを坪内逍遥が「馬骨人言」という題で攻撃したとき、樗牛の擁護に立って、逍遥とその弟子島村抱月を相手に論争を続けた。明治35年、竹風はニーチェの思想を背景とした小説「あらひ髪」を書いたが、それ後は評壇に顔を出さなくなっていた。

登張竹風は教育者、評論家で、同時に小説も書く人物だから、あまり行儀の悪いことは書かないだろうという考えで麻田は同意した。

明治38年初め、登張竹風から「出来心」という小説が送られて来た。それを読むと、冒頭に「妾は貴君に惚れました」という一句があった。麻田は当惑して、「これだから小説はいけない。上品なものでこれだから、普通の小説家だったらどんなことを書き出すか知れない。この原稿はお返ししょう。」と言ったが、そのあとを読むと別に差支えのないものだと分ったので、明治38年3月号に掲載された。この作品はゲオルギイの翻案であった。4月号には滝田自身が、ツルゲーネフの「猟人日記」の一章「森と野」を訳して載せ、5月号には柳川春葉の「炉のほとり」を、6月号には泉鏡花の「女客」を載せた。以下毎号小説を一篇ずつ載せて、9月号には漱石の「一夜」が載った。

「中央公論」はこの頃から次第に売れるようになり、3,000部、5,000部と印刷部数を増して行った。しかし、明治38年漱石の「吾輩は猫である」を連載した「ホトトギス」が3千部内外を刷っていたのであるから、「中央公論」は「ホトトギス」級の二流雑誌に過ぎなかった。

滝田哲太郎は「中央公論」に樗陰迂人(ちよいんうじん)という名で「雑誌評判記」などを連載していたので、次第に樗陰と名乗るようになった。彼は文学に志があり、作品の質の理解にすぐれていた。熱心な性格の青年なので、作家たちを訪ねると、秋田弁で彼等の仕事を励まし、意見を述べた。彼はその真剣な態度によって、作家たちに好まれていた。


9月

漱石、「十八世紀英文学」の講義(2年間続けて、後の単行本「文学評論」)を始める。

9月

谷崎潤一郎(19)、第一高等学校英法科文科に入学

9月

葛西善蔵(18)、再度上京。哲学館(現、東洋大学)聴講生となる。

9月

窪田通治(空穂、前年に「電報新聞」入社)、処女歌集「まひる野」出版。与謝野寛、尾山篤一郎、土岐善麿などが賞賛。

この年7月、独歩の「独歩集」が近事画報社から刊行されたとき、窪田は「電報新聞」の新刊紹介欄でこれを取り上げ、異例の長い批評的な紹介を書いた。彼は東京専門学校在学中、友人の水野葉舟、平塚篤等とともに同人雑誌「山比古」を出し、特に乞うて独歩の「運命論者」を載せたことがあり、それ以来、独歩に対しては親しみを抱いていた。また当時窪田と同宿していた吉江喬松(早稲田中学勤務)は、独歩に近づいて、しばしば近事画報社へ遊びに行ったりしていたが、やがて早稲田中学で英語を教えながら、近事画報社にも勤めるようになった。「独歩集」に対する窪田の紹介が出たとき、独歩は大変喜んで、これは「独歩集」の紹介や批評のうちで最も良いものだと言ったことが、吉江から窪田に伝えられた。

9月

この秋、南方熊楠、粘菌標本46点を大英博物館に寄贈。イギリス菌学会会長ア-サ-・リスタ-の目にとまり、東京帝国大学三好教授が送った標本に続き、「日本産粘菌第二報」としてイギリス植物学雑誌「ジャ-ナル・オブ・ボタニー」第49巻に発表され。以後、世界的粘菌学者として評価高まる

9月

(漱石)

「(九月、野上豊一郎・中勘助、東京帝国大学文科大学英文学科に入学する。小宮豊隆、独逸文学科に入学する。岩波茂雄、東京帝国大学選科に入学する。谷崎潤一郎、第一高等学校に入学する。)」(荒正人、前掲書)

「選科は、高等学校卒業資格のないものが入学できる。二年制。但し、修了しても学士号は与えない。

谷崎潤一郎の『雪後庵夜話』に「その癖廊下や校庭でお辞儀をすると、丁寧に会釈を返して下さるのが嬉しくはあつた。」と漱石のことが書かれている。」(荒正人、前掲書)


9月

英、労働組合会議(TUC)、8時間労働と自由貿易を要求。

9月

ハンガリー皇帝、普通選挙法の導入示唆。

9月

ロシア、1891年以来最悪規模の飢饉が発生。

9月

マゴンら,セントルイスでメキシコ自由党結成。労働運動指導。機関紙「再生」(レヘネラシオン)発行。共有地返還、8時間労働の実施など。アナーキズムの立場から3度の武装蜂起、失敗。

9月上旬

「九月上旬(日不詳)、鈴木三重吉は中川芳太郎に漱石苑の長文の手紙を託す。」(荒正人、前掲書)

「手紙は、長さ三間(五メートル四十センチ)あり、半分は漱石のことが書いてある。」(荒正人、前掲書)


つづく


2025年8月30日土曜日

米政府のインテル株取得、 「共和党版社会主義」と批判も(WSJ有料記事); 「トランプ氏はインテルのリップブー・タンCEOと会談した1週間後、米政府が同社株を取得することに同社が合意したと述べた」  一部では、政府が民間部門に広範な支配力を振るう中国の「国家資本主義」に似ているとの指摘もある。 / 独自の国家資本主義に進む米国 トランプ大統領、経済への政治的支配拡大で中国共産党を模倣(WSJ 有料記事)

「もう米国には行かない」 隣人からの拒絶、観光損失2兆円(日経 有料記事)

大杉栄とその時代年表(602) 1905(明治38)年8月27日~31日 池辺三山(41、東京朝日新聞の主筆)、ポーツマス講和談判で賠償・領地での大幅譲歩を知り「桂を見限る決心。翌三十一日より筆鋒を桂内閣に差向くる」(日記)と書く。

 


大杉栄とその時代年表(601) 1905(明治38)年8月20日~26日 戸水事件。 東京帝国大学教授戸水寛人(対露強硬論7博士の1人)、対露強硬論を主張して「文官分限令」により休職処分。 9月下旬~、東京・京都帝国大学教授ら、大学の自治を掲げ、抗議運動。法科大学機関誌「国家学会雑誌」(編集主任美濃部達吉)10月号は全巻で各教授の政府攻撃文(美濃部は「権力ノ濫用ヨリ生ズベキ弊害」掲載)。河上肇は発表中の「社会主義評論」でこの事件に言及、「学者言論の自由」を主張し教授会を支持。 翌年1月29日戸水は復職。文相久保田護は辞職。 より続く

1905(明治38)年

8月27日

『直言』第30号発行

山路愛山・斯波貞吉らの国家社会主義党批判

愛山は幸徳、堺等の友人、斯波は一時は平民社の運動に参加した人。

「此の国家社会党に好意なきを得ず」とするが、公表された綱領に対しては遠慮のない批判を加える。

綱領を要約すれば、

(一)日本国体の君民一家、

(二)普通選挙、

(三)国民教育費の国家負担、

(四)労働者の保護、

(五)失業者および貧民の扶助、

(六)学芸の進歩発達普及、

(七)累進税の適用、

(八)産業の保護発達、国家は平和的に国民の活動すべき地域を拡張する、

(九)共通の利益を享受すべき世界各国連盟、

(十)自治制の発達のために社会政策の採用等、十項に及ぶ。

これに対して『直言』は、「綱領の第一は創立者苦心の存する所であろうから敢て批判は避ける、その他はおおむね吾人の賛成する所であるが、ひとり第八項の『産業の保護発達』は、産業の直接経営者は資本家であるから、これは国民の名によって資本家を保護することに帰着するのではないか。特に『国民の活動すべき地域を拡張』するというのは、畢竟帝国主義的な植民政策の謂(いい)なのではないか。或は朝鮮の併合、もしくは樺太の割譲、それとも満洲開放の謂なのか。すこぶる曖昧であるばかりでなく、『平和的に』の一語があるために更にその意義を不明にしている」と指摘。

最後に「国家社会党は其の根本主義に於て社会主義を取らず、現在の資本主義制度の上に立ちて(或は其の下に在りて)社会主義的政治を行わんと欲するものなり。故に其の主張の項目には甚だ美なる者ありと雖も、之を実行せんと欲するは殆んど不可能なり。…世界に共通せる大運動の外に立ちて、深き生命なき小策を弄すとも其の遂に無効に帰すべきを信ずるなり。吾人は国家社会党の創立者に対し……其の識見の足らざるを惜み、気の毒の感なきを得ず」と結論した。

幸徳秋水「同志諸君に諮る」

自分の不在中の堺の精励努力、苦心経営の労を推称感謝して、堺がいう「信任の欠乏」のごときは、中傷離間の所為に過ぎないと断言

「予は枯川兄の位置に立ち枯川兄の責任を負い、彼の如くに言論をなし彼の如くに活動をなせば、何人でも多少の非難攻撃の的となるは免がれないであろうと思う。毎日算盤も持てば出入帳もつける、出版の事務も扱えば広告文も作るというあの繁忙と、月末毎のやりくり算段に頭を悩ますあの貧乏との中で、これだけの立派な編集をなし得る人が当時枯川兄を除いて、果して何処にあるでしょうか。・・・・『毎日新聞』とかけ持ちの木下兄を併せても、僅かに三人で天手古舞をしている編集になお不整頓を攻撃するものあらは、そは攻撃する者の無理ではないでしょうか。論より証拠、一方に於ては日本全国津々浦々の警察が全力を揮(ふる)って或はおどかし、或はすかして其の購読を妨害すること虚日なく、普通の新聞雑誌ならばとっくに倒れているべき等のものが、たとえ増加はしないまでもまた著しい減少もしないで、とにかく命脈をつないで来たのは、一は同志の精神的結合の強固なのと一は枯川兄、木下兄、石川兄の編集の手腕技能によるものではありますまいか。」

「枯川兄も石川兄も神でも聖人でもありませんから、過誤もありましょう、失策もありましょう、ある人々の気に入らぬことをしもし言いもしましょう。併しこれは全国数千の同志、みなお互にあり勝ちのことではありませんか。・・・殊にわれら同志の間に於ては常に一身同体で、隔意なく腹蔵なく相争い相正し相救うて以て人道のために尽すのが当然です。否、わが同志はかくするであろうと思います。もし公然堂々と争い得ないで、陰に悪声を放ち不平をもらすことがあっても、それは真正の社会主義者ではないのです。」

幸徳はかく情理をつくして堺の苦衷を弁護したが、平民社が一改革を要する事情に迫られていたことは争えない。財政はいよいよ欠乏を告げ、8月15日までの収入は新聞書籍の代金、寄附金を併せても787円37銭、支出は436円68銭5度。差引残高350円68銭5厘をかぞえるものの、一方に印刷所の国光社に対する未払いの印刷代350円、没収印刷器械賠償の残り200円、「共産党宣言」事件の罰金240円、合計750円があって、この差引残高全部を投じてもなお約300円の不足を生ずる。

「社会主義と愛国心」(「世界之新聞」欄);

パリ発行の『社会党評論』が堺に宛てた一書を寄せ、四つの問題に対する日本社会主義者の回答を求めて来たことを報じる。

その四つの問題とは、

一、後に掲げる「共産党宣言」の一節に対し、諸君は如何に之を解釈せんと欲するか、愛国心(パトリオチズム)と世界主義(インターナショナリズム)とは調和し得べきものか。

二 世界主義は、社会主義者をして帝国主義、植民主義、及びその原因と経済的影響とに対して、如何なる実際の態度と如何なる伝道の形式とを取らしむるか。

三 海関税、労働者保護法等の如き世界的関係について、社会主義者は如何なる行動を取るべきか。

四 戦時における社会主義者の義務如何。

△「共産党は国家及び国粋の廃止を要求すといふを以て非難せらる、然れども労働者は国家を有せざるなり、吾人は彼等が有せざる物を取去る能はざるなり。夫れ平民は其第一着の事業として、政権を掴取せざる可らず、自ら一個国民を組織せざる可らず、此点よりすれば平民は即ち走れ国民的なり、但紳士が所謂国民なる語と少しく意義を異にするのみ。」(共産党宣言の一節)

記者は「この問題に関する『社会党評論』の諸論文を成るべく多く本紙上に紹介し、而して後改めて吾人の所見を開陳すべし」と附記しているが、『直言』が第32号(9月10日)で発行を停止され、平民社解散となったために、日本社会主義者の回答は遂に与えられなかった。

「国際的連合と愛国心とは果して両立すべきか否か、また社会主義者は現在の防衛戦争に参加すべきか否か」

ドイツ社会党の首領べーベルの論旨は次のごとし。(『直言』第三十号所載)

「社会党は現在なお、国民の中にも国会の中にも少数党であって、国家の外交政策に対しては常に傍観者の位置にある。故にその明確な義務は、更に高尚な意義において外交政略にその影響を及ぼすにある。もし社会党の意志に反して戦争の勃発した時は、社会党は厳重なる抗拒によってこれが原因を考究しなければならぬ。

もし自国政府が侵略者ならば、戦争をなすべき一切の方法を拒絶し、その全力を以て戦争と戦わなければならぬ。又もし自国政府が他の侵入をうけ、その意志に反して戦うのやむを得ざるに至りたるものならは、社会党といえども政府との協力を拒むことはできぬ。なぜなら、戦争のために最大の苦痛を感ずるものは国民だからである。

一八七〇年の普仏戦争に際し、リープクネヒトと予は公債募集の討議に投票しなかった。この戦争は当時吾人の攻撃していたビスマルクの政略の、必然的結果だったからである。セダンの役後、アルザス・ローレーヌの割譲要求のため吾人の希望した平和条約が結ばれず、更に戦争が継続せられたので、吾人はこれに反対して国会で戦争の継続に要する新公債を拒絶するに至った。

もし戦争が、一国民よりその領土の一部分を割譲せしめ、あるいは全国民をして被征服者たらしむるがごときに至らば、社会主義者は戦争に対する反感を抛棄して永久の奴隷状態より脱するために、その国家の土地を防衛する上に全力を尽さなければならぬ。一例をあぐれは、ドイツが新領土を得るためにフランスと戦争を開始したと仮定せよ、吾人はかかる戦争のための公債を拒絶し、また極力かかる戦争と戦うであろう。しかし吾人はその時、フランスの同志が、征服者たるドイツ軍を国境外に駆逐するために戦うのを、正当と認めざるを得ない。社会党運動の正常なる発達は、その国の独立に負うところ大である。そして一国民が他国から圧迫を加えられている間は、階級の反目、階級の闘争は遅々として進まないからである。」

8月27日

東京で発行されていた「二十一世紀之支那」発禁。

8月28日

御前会議で賠償金・領土要求放棄の最終講和成立方針決定(26日第9回談判結果の小村電をうけて)。小村寿太郎全権に訓令。後、北緯50度以南の樺太割譲要求を訓令

韓国に対する日本の保護権確保、遼東半島の租借権獲得、ハルビン~旅順間の東清鉄道譲渡など、開戦目的である満韓問題が解決している上は、賠償金・割地の要求は放棄しても、講和成立が急務と結論

8月29日

清国、米から粤漢鉄道敷設権回収。

8月29日

夜、木下、堺、幸徳、石川は相談会を開き「同志諸君よりの提案及び忠告を参酌」して「平民社の改革」を協議。9月3日発行『直言』第31号に「今後の平民社」と題してその決定を発表。

8月29日

(漱石)

「八月二十九日(火)、曇。夕方、有明館(書店)(本郷区本郷四丁目八番地、現・文京区本郷四丁目または五丁目)で、寺田寅彦に会う。一緒に若竹亭(本郷区東竹町二番地、現・文京区本郷二丁目二番)に行く。長年の『生写朝顔話』を聴く。」(荒正人、前掲書)

8月29日

ポーツマス、第10回講和談判。

午前10時、秘密会議。ロシア側は「無償、樺太南部譲渡」に変更なし。日本側は樺太占領を既成事実として認めるなら、賠償金要求徹回すると回答(最終訓令は南部割譲)。日露合意。

10時55分、本会議。談判終結

8月29日

ワシントンの日本公使館で臨時に働く荷風(26)のもとに、父がフランス行き反対を言ってくる。

8月30日

講和問題同志会、屈辱的講和反対声明

8月30日

池辺三山(41、東京朝日新聞の主筆)、ポーツマス講和談判で賠償・領地での大幅譲歩を知り「桂を見限る決心。翌三十一日より筆鋒を桂内閣に差向くる」(日記)と書く。

池辺三山:

日清戦争時、筆名「鉄崑崙」でフランスより「日本」(陸羯南)に「巴里通信」寄稿、筆名を上げる。帰国後「日本」入社。「経世評論」主筆柴四朗(東海散士)が「東京朝日」入社話を持込み、羯南もこれを勧め1896年入社。1907年、漱石入社を進め、退社させられかけていた二葉亭四迷を救う。日露開戦では対露強硬策を主張。政府首脳と頻繁に会う。

8月30日

台湾総督民政長官後藤新平、宇品から大連に向う。「満州経営策梗概」を満州軍総参謀長(兼台湾総督)児玉源太郎に説明するため。

9月2日、大連着。

4日、奉天で児玉に意見書を渡し賛意を得る。

8月31日

閣議、講和成立報告・休戦条約案議決。天皇裁可。小村へ訓令。

8月31日

米鉄道王(ユニオン・パシフィック、セントラル・パシフィック、サザン・パシフィックなど経営)エドワード・ヘンリー・ハリマン、来日。朝野熱烈に歓迎。

10月12日、1億円の資金提供・南満州鉄道の共同経営に関する予備協定覚書を桂首相と結ぶ。16日、横浜発。

8月31日

「大阪毎日新聞」、講和条約全文をスクープ。「大阪毎日新聞」はワシントン常設通信員オラフリン(ルーズベルトと交友関係)に会議報道を依頼、「国民新聞」(政府の御用新聞)と通信交換契約。

ポーツマスへの特派記者:「報知新聞」石川半山、「国民新聞」浜田佳澄、「やまと新聞」正岡芸陽。

在米記者をポーツマスに派遣:「朝日新聞」福富正竹、「万朝報」河上清、「時事新報」大西理平。

30日のポーツマスからの「朝日」福富正利特派員の特電は当局に差押えられて一本も入電せず。

8月31日

「東京朝日新聞」、この日より投書を大きく掲載。9月4、6日は一面全面。

8月31日

この日付け『萬朝報』社説

「条約改正の事業、幾度か歴代の当局者によりて企てられたるも……卑屈醜辱の跡依然として存するや、衆論熱湯の如く沸き……甚だしきは遂に当路者を路に邀撃(ようげき)してその一脚を奪ふの惨劇(来島恒喜の大隈外相襲撃)を演ずるをも忌まざりしに非ずや……国民的大問題に関しては国民的大運動を要すること、凡そ斯(かく)の如くならざる可らざるなり。…・‥鳴呼、鳴呼、鳴呼、大屈辱、大屈辱。」


つづく


2025年8月29日金曜日

【コラム】若年層は右傾化を後悔、トランプ離れ顕著-ヘンダーソン(Bloomberg);トランプ氏は自身の支持層、特に若年層にとって重要な2つの問題では目に見える成果を上げられていない。それが経済とジェフリー・エプスタイン事件だ。

トランプ政権の気候変動報告書に批判続出 誤りの指摘相次ぐ、訴訟も(朝日、有料記事);「米国のトランプ政権が7月下旬、現在の気候変動の科学に疑問を投げかける報告書を公表した。政権に都合のよい主張が並ぶ内容に対し、誤りを指摘する声が相次ぐ。報告書に引用された論文の著者からも反論があった。政策変更の根拠に使う狙いがあるが、作成プロセスにも疑義が出ており、環境団体が政府を提訴する事態にまで発展している。」   

過去の飲酒運転1回で、グリーンカード保持者も国外追放...トランプ「移民狩り」の新法案(ニューズウィーク日本版); <6月、米下院で「飲酒運転から地域社会を守る法案」が圧倒的多数で可決された。人権派弁護士などは多くの移民に影響が及ぶと警鐘を鳴らしている>

いつもかなり際どい皮肉ばかり言っているユダヤ人コメディアンのアダム・フリードランドがスーパーシオニスト議員トレスのインタビューで、イスラエルの悪行が世界のユダヤ人を危険に晒してると涙ながらに訴えた。すごいな。 軍産複合体の株で大儲けのトレスは顔色ひとつ変えない。

 

大杉栄とその時代年表(601) 1905(明治38)年8月20日~26日 戸水事件。 東京帝国大学教授戸水寛人(対露強硬論7博士の1人)、対露強硬論を主張して「文官分限令」により休職処分。 9月下旬~、東京・京都帝国大学教授ら、大学の自治を掲げ、抗議運動。法科大学機関誌「国家学会雑誌」(編集主任美濃部達吉)10月号は全巻で各教授の政府攻撃文(美濃部は「権力ノ濫用ヨリ生ズベキ弊害」掲載)。河上肇は発表中の「社会主義評論」でこの事件に言及、「学者言論の自由」を主張し教授会を支持。 翌年1月29日戸水は復職。文相久保田護は辞職。

 

美濃部達吉(1908年頃)

大杉栄とその時代年表(600) 1905(明治38)年8月17日~20日 「留学生は挙って反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味ではないことを知っていたから、賛成しない人が多かつたが、それでこの人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳(魯迅の親友)もその中に入っていた。魯迅は彼女が一口の短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している。」(周作人) より続く

1905(明治38)年

8月20日

週刊『直言』第29号発行

堺利彦「平民社の改革」:

「二君(幸徳と西川)の不在中、石川君と共に財政、編集、事務の責に任じ、諸方面から多少の不平を聞いている。そこで自分の力量の不足、信任の欠乏を認めて暫く責任の地を去りたいという。

次号(8月27日発行の第30号)で幸徳は堺を慰留。


大杉栄(20)「社会主義と愛国心」(『直言』連載全4回第29号~第32号)

パリの『社会党評論』の提起した問題に関する欧洲社会党の領袖の議論を掲載、第二インターナショナルの思想的不一致、崩壊を社会革命観と国家的観念との矛盾を暴露。

①「社会主義と愛国心 英国社会民主党首領ケルチ」(8月20日)

②「社会主義と愛国心 独逸社会党首領ベーベル氏」(8月27日)

③「社会主義と愛国心 伊太利社会党首領エンリコ・フリエ氏」(9月3日)

④「社会主義と愛国心 仏国社会党員ギユスタヴ・エルヴエ氏」(9月10日)"

「国際的連合と愛国心とは果して両立すべきか否か、また社会主義者は現在の防衛戦争に参加すべきか否か」


英国社会民主同盟領袖クェルチの論。

「今や欧洲社会党の間に、万国社会党の死活に関する重大問題が起っている。即ち万国社会党の連合運動はいかなる程度において、愛国心と両立し得るか。社会主義者は現体制の下における防衛戦争に、参加すべき義務を有するか、ということである。

フランス社会党の首領ヴァイヤン氏は、国民をして目下の極東戦争に参加するを拒ましめ、本国ブルジョアジーに対する反抗によって社会革命を開始せしむるために尽力すべしと主張する。エルヴェ氏は更に一歩をすすめて、もしフランスがドイツの侵略をうけるとも国民をして侵入軍に抵抗することなからしめ、国内の一層憎むべき敵に対してその勢力を集注せんことを勧告すると説いている。

然るに、ドイツ社会党の首領べーベル氏はこれに反して、社会民主党は他党と同じくドイツ帝国の寸土をも防衛せんとすると議会で宜言した。フランスでもグロール、リシャル氏等の一派は、エルヴェ氏の意見に強固なる反対を表明している。

吾人社会主義者は、人民の国民的自由を禁遏(きんあつ)しその独立を奪わんとする侵略戦争には断乎として反対する。英国社会党がボーア戦争に反対したのは、ボーア人が自らその国政を処理する権利を有すると信じたからである。吾人が国外におけるイギリス帝国主義の発動に反対する理由は、即ちまた吾人が外国侵入軍に対する抵抗を正当とする理由にはかならない。

一般的原則としては、国家の自由、独立、領土を防衛するは人民の権利にして義務でもあるが、この原則の当否は外国侵入軍の性質によって決定されなければならぬ。階級闘争の重要性は他のあらゆる闘争を超越する。故に、もし他国の労働者階級が政権を握り、英国に侵入してわが国の革命運動を援助するとしたら、これを歓迎し、これに抵抗しないことは固より吾人の義務である。

それ故、国家の自由独立のため、および人民の権利擁護のためには、社会主義者もまた国防軍を助ける義務があるが、しかし侵略戦争には断然反対し、そして国内の権力階級を敵として人民の自由のために侵入する外国軍は、歓迎しなければならぬ。とはいえ、かくのごとき問題はある一国において社会革命が充分の勢力を得るに至らざる限り、この種の侵入軍は決して組織されることはないであろう。

社会主義者はトルストイの無抵抗主義を取らざる限り、その戦うべき力を有せんがために民兵主義を主張しなければならぬ。近世の国家が仲裁裁判を以て国際的紛争を解決しようとしても、なおその背後には兵力がなければならぬ。今の社会は力の上に立っている、力によらないでこれを顚覆し得るか否かは今後の見ものである。現状の下で吾人のなし得るところは、常備軍を廃して民兵制度に代ゆることと、国際裁判所を設け直接投票によって和戦を決すること、之れである。」

8月20日

大阪毎日新聞社主催の10マイル競泳大会、大阪湾で開催。

8月21日

ルーズベルト大統領、ロシア皇帝に親電。

皇帝は樺太割譲に反対、決裂止む無しの意見。外相ラムスドルフから皇帝意見を伝えられたウィッテは、樺太は日本により占領中でロシアに奪回の力はない。これを楯にした決裂は国際世論が受入れないと返電。

8月21日

ポーランド、ゼネスト開始。ロシアのドゥーマ設置宣言書でポーランド人の権利無視に反発。翌日、非常事態宣言。

8月22日

清国に戸部造幣総廠設置。

8月22日

夜、ルーズベルト大統領、金子堅太郎に対し賠償金要求放棄の勧告

8月23日

ポーツマス、日露会談。

小村全権、改めて樺太南部割譲・12億賠償金要求

8月24日

軍用船金城丸、大分県姫島沖で英汽船バラロング号と衝突して沈没。帰還兵155人死亡。

8月25日

桜井静(47)、大連開発をめぐり軍部と対立、ピストル自殺。

8月25日

山路愛山・斯波貞吉・中村太八郎ら、国家社会党結成。

翌年、東京市街鉄道電車賃値上げ反対運動で市民大会を主催。その後、立ち消える。

8月25日

戸水事件。

東京帝国大学教授戸水寛人(対露強硬論7博士の1人、「バイカル博士」)、対露強硬論を主張して「文官分限令」により休職処分

9月下旬~、東京・京都帝国大学教授ら、大学の自治を掲げ、抗議運動。法科大学機関誌「国家学会雑誌」(編集主任美濃部達吉)10月号は全巻で各教授の政府攻撃文(美濃部は「権力ノ濫用ヨリ生ズベキ弊害」掲載)。河上肇は発表中の「社会主義評論」でこの事件に言及、「学者言論の自由」を主張し教授会を支持。

翌年1月29日戸水は復職。文相久保田護は辞職。

8月25日

廟議、ルーズベルト米大統領の勧告により報奨金減額を決定6億円と俘虜収容費1億5千万

8月25日

(漱石)

「八月二十五日(金)、雨。夜、外出中に、寺田寅彦来て、その後、森川町で会い、一緒に戻る。九時頃まで話す。

八月二十七日(日)、曇後晴後雨。午前、寺田寅彦来て後から来た野村伝四と共に、鈴本亭(下谷区広小路町二番地、現・台東区広小路(上野一、二、三、四丁目に画した通り))の落語に誘う。鈴本草は満員で入場できぬ。浅草公園に行く。日曜日で、久し振りのお天気なので、人出多い。馬車で新橋停車場へ行き、停車場前広場の有楽軒二階で夕食をする。外濠線で帰る途中、雷雨になる。落雷で停電し、お茶の水橋で下車する。雨宿りの後、歩いて帰る。午後は、土井林吉(晩翠)らと快楽園に集る予定であったが、取り止める。」(荒正人、前掲書)

「東京電車で、漱石が乗車したのは循環線(赤坂見付・虎の門・土橋・数寄屋橋・神田橋・駿河台下・御茶の水・飯田橋・市が谷見付・四っ谷見付を通る)と推定される。」(荒正人、前掲書)


8月26日

ポーツマス、第9回日露会談。

午後3時、秘密会議。ロシア皇帝が賠償金支払いを承諾せず決裂寸前。28日午後に再度会議を開く。


つづく


2025年8月28日木曜日

トランプ大統領執務室のビフォア / アフター / ホワイトハウスのローズガーデン(!) / ホームデポのプラスチック製の飾り疑惑(?)

トランプ政権の経験不足でカトリーナ級災害も、FEMA職員が議会に書簡(ロイター);「FEMAの職員が内部の不満を公に表明するのは異例。書簡は、国土安全保障省のノーム長官やFEMAのリチャードソン長官代行を含む現在の上層部が自然災害を管理する資質を欠いており、ハリケーンなどの緊急事態に対応する同局の能力を損なっていると指摘した。」

「再生の道」代表の石丸伸二が代表辞任するらしい。記者会見、わたしはアカンヤツです、という記者会見だった。 / 〈石丸氏が党離脱〉「都議選と参院選で全敗」と書いたメディアを名指しでガン詰め、女性記者には「ダブルスタンダードですね」自身は“円満卒業”を主張も周囲の反応は(集英社オンライン)  

トランプ、左手にもあざが出現。ホワイトハウスは「たくさん握手をしたから」と説明(ハフポスト日本版); トランプ大統領、左手にもあざが出現。これまでの右手とは異なる新しいものがゴルフ中に確認される。 ホワイトハウスはあざについて「たくさん握手をしたから」と説明しています

トランプ氏「ソロス氏を訴追すべき」 抗議活動支援にいら立ち(日経);「ソロス氏が設立し、息子が運営する財団は26日、米国内で人権や自由、社会正義などを掲げる市民団体の「非暴力的な抗議活動」を支援すると表明していた。トランプ氏はこれにいら立っているとみられる。」

 

大杉栄とその時代年表(600) 1905(明治38)年8月17日~20日 「留学生は挙って反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味ではないことを知っていたから、賛成しない人が多かつたが、それでこの人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳(魯迅の親友)もその中に入っていた。魯迅は彼女が一口の短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している。」(周作人)

 

武田泰淳『秋風秋雨人を愁殺す 秋瑾女史伝』

大杉栄とその時代年表(599) 1905(明治38)年8月11日~16日 桂・原第3回秘密交渉。 原は西園寺と相談した上で講和には反対しないと言明。政権移譲時期は西園寺の都合次第。但し、政友会一党の政党内閣にしない、憲政本党と連立しない、を条件とする。原は了解。 より続く

1905(明治38)年

8月17日

講和問題同志連合会大会、東京で開催。日露講和条約反対を決議。

8月17日

ポーツマス、講和談判。

⑨軍費払戻(賠償金支払い)問題、紛糾。棚上げし、午後は⑩清国の逃込んだロシア軍艦引渡し討議。国際法規定もなく、⑪極東の軍事力制限問題に移る。

ロシア側は、海軍力制限に同意はできないが、極東に強力な海軍力を保有しないという宣言を出すと譲歩提案。ウィッテは翌18日に第12条を討議し、翌週月曜を最終会議にしたいと提案(現実的に、海軍再構築は無理)。

ロシア側・日本側共に、賠償金以外で日本側条件を通すべく本国に具申。

8月18日

ポーツマス日露講和会議。

午前10時、日本側は樺太割譲・軍費払戻についてロシア側が譲歩するなら、抑留軍艦引渡し・極東海軍力制限の10・11条を撤回するとの覚書提出。ウィッテは全権委員のみの秘密会議を提案。ウィッテは樺太全島割譲の覚悟を固めているが、南北分割し北部をロシア・南部を日本が保有する案を提案。小村はそれを逆手にとって、樺太北半を返還するので、その代償として12億円を要求する妥協案を提出。

小村は戦費16億5千万円にみあう15億円獲得する訓令をうけており、ウィッテは寸土も占領されていないため賠償金は支払わぬとの訓令をうけている(ウィッテは賠償金ではなく樺太北部還付の報酬として支払う腹を固める)。

8月18日

山路愛山ら、国家社会党結成。

8月19日

(漱石)

「八月十九日(土)、高田知一郎(梨雨)宛に、談話「水まくら」(『新潮』八月号)で、新体詩「春の夜」の批評は恐縮していると伝える。八月六日(日)野村伝四宛手紙には、「神泉に出て居る梨雨先生の春の夜と申す新體詩を御覧下さい。あれは往来を色眼ばかり使つてあるく女學生位な程度だ。」と書く。

八月二十日(日)、小雨。冷気著しい。夜、寺田寅彦来る。

八月二十二日(火)、雨。午後、寺田寅彦来で、白玉の帯鐶(おびわ)贈られる。」(荒正人、前掲書)


8月19日

ロシア皇帝ニコライ2世、ブイルギン議会開設の勅令。

8月20日

緊急閣議、報酬金減額やむなし、講和成立求む。天皇裁可。報酬金12億円の「多少」の減額は小村の裁量に任すと小村に打電。

8月20日

中国革命同盟会結成

東京・赤坂霊南坂坂本金弥代議士邸。諸革命派の大同団結。総理孫文(39、興中会)、庶務長黄興(31、華黄会)、宋教仁ら、民族・民権・民生、三民主義。『二十一世紀之支那』を機関報に。

加盟者は数百人をかぞえ、「韃虜(だつりょ)を駆逐し、中国を回復し、民国を建立し、地権を平均する」という政治綱領と規約をさだめた。

前年の明治37年、黄興が2度目に来日した時、日本では湖南省の武装蜂起の様子が清国留学生たちの間で知れ渡り、黄興は「英雄」として大歓迎を受けた。

そしてこの年8月、世界を回って来日した孫文と初対面で意気投合し、革命連合組織の中国同盟会を組織した。

中国同盟会結成後、黄興は早稲田大学に在籍しながら、機関誌『民報』の発行準備にとりかかった。彼は宮崎滔天を介して知り合った福岡出身の志士末永節に、「雑誌の編集部を置くための家を借りたい」と告げ家探しを始めた。末永節は大アジア主義者の頭山満を総帥とする玄洋社社員で、武道家、後に全日本少林寺拳法(現、「全日本少林寺拳武徳会」)の初代宗家となる。

末永節の証言。

『民報』をやったのは牛込の○○というところだった。その家を探す時も黄興と二人であちこち歩き回った。

麹町の大きな門構えのケヤキの巨木のある家をみつけて、この家にしようではないかと言ったが、黄興はこれにするとは言わなかった。それがずっと回って、牛込を歩いておったところが、貸家と書いてあったので、そこに入った。うちに泉水がある家だったが、間取りを見た上で、黄興が、

「此処にしましょう」と言う。

「どうして・・・・・」と問うと、

「あの麹町の家は暗いと思います。目が悪くなります。この家がいいです。ここに水があるでしょう。ここに鯉を入れればよいでしょう。あなたは鯉が好きでしょうが・・・・・。二人で食べましょう」

と言うから、ここを借りることに決めて、その保証人がいるので、古賀廉造さんのところへ頼みに行きました。・・・・・古賀廉造は大審院の検事で、なかなか立派な人だった。家主も快く承諾してくれた。

(浅野英夫編、『無頼放談』社団法人・玄洋社記念館発行、2016年)


こうして『民報』編集部の所在地が決まった。住所は、牛込区東五軒町19番地(現、新宿区東五軒町3番22号)で、末永節が発行人を引き受けた。

宋教仁(23歳)の来日は、前年明治37年9月

宋教仁は1882年に湖南省桃源に生まれる。字は得尊、号を鈍初、敦初、筆名は漁父という。友人評は、「身の丈は七尺余、額は広く鼻は隆々とし、眼光炯々としてするどい。天性、闊達にして英敏である。時事問題に深い関心をもち、とくに軍事を好んで議論した」(鴻為鎣の「伝」より、『宋教仁の日記』、宋教仁著、松本英紀訳注、同朋舎出版、1989年)という。

幼時に父を亡くし、母の手ひとつで育てられたが、代々知識階層の家柄で成績優秀、ガキ大将でもあった。地元の漳江書院に入学した後、湖北の文普通学堂で新式教育を受けて革命に目覚めた。同じ湖南省出身の黄興らと華興会を立ち上げて武装蜂起しようとしたが、発覚して上海へ逃亡し、そのまま日本に渡った。

宋教仁は日本語学校弘文学院に入学したが、政治・軍事好きが昂じて、同じ湖南省出身の親友陳天華らと雑誌『二十世紀之支那』を創刊。この雑誌は先鋭的な理論雑誌として注目されたが、すぐに「危険分子」として日本政府の監視対象になり、第2号発行直後に神田警察署に押収され停刊処分になった。考えあぐねているとき、孫文・黄興らが革命組織の中国同盟会を作ったので、名前を『民報』と変えて機関誌とした。執筆・編集は宋教仁がそのまま受け持った。

宋乗数仁は並み外れた読書家で、最初は清国政府の役人を務める先輩にアルバイトを頼まれ、『各国警察制度』『俄国制度要覧』『澳大利匈牙利制度要覧』『比利時澳匈俄財政制度』『美国制度概要』『澳匈国財政制度』などの本を翻訳したが、それがきっかけで国政に興味を持った。自分では王陽明の思想書や心理学の書籍を熟読する一方、『日本憲法』『国際私法講義』『普魯士王国の官制』『徳国官制』『清俄の談判』などを翻訳して外国の近代科学を吸収し、中国哲学の良い点と結びつけようとした。

宋教仁『我之歴史』は、日記形式で綴られた自叙伝で、1904年9月の湖南省での華興会の武装蜂起失敗に始まり、上海へ逃れた経緯や日本到着後の様子などが記され、1907年4月、馬賊工作のために満州へ赴くまでの約2年3ヵ月、ほぼ1日も欠かさず丹念に書かれている。筆で書いた文字は丁寧で見惚れるほど美しい楷書体で、宋教仁の誠実で几帳面な性格が偲ばれる。宋教仁の思考の変遷や革命活動の内情を知るうえで、第一級の貴重な歴史資料である。

日記には、陳天華の入水自殺の前後3ヵ間が抜けている。それは陳天華の死に際して、中国同盟会のリーダー孫文と黄興が冷淡な態度をとったと感じた宋教仁が反発して、激しい罵り言葉を書き連ねたからではないかと推測されている。宋教仁がずっと抱き続ける孫文への反発心は、この時期に芽生えたもののようだ。

陳天華(22歳)の抗議自殺

明治38年、日本の文部省は清国留学生の政治活動を封じるために清国留学生取締規則を発布した。宋教仁の親友陳天華(22歳)は、激情のあまり大森海岸で抗議の入水自殺をした。衝撃を受けた留学生たちは一斉に授業をボイコットし、退学届を出し、2千名近い留学生が帰国していった。宋教仁は陳天華の遺体を大森海岸まで引き取りに行き、遺書である「絶命書」に情感のこもった跋文を添えて彼の伝記を書き、その後は革命陣営から距離を置くようになった。

宋教仁は、早稲田大学清国留学生部予科に入学し、早稲田大学の裏手にある「瀛州筱処(いんしゅうゆうしょ)」(豊多摩郡戸塚村大字下戸塚268番地、現、新宿区西早稲田1丁目16番周辺)に下宿した。

彼は勉強に没頭した。詳細な日課を作って分刻みで日常生活を過ごし、厳しく自分を律した。しかし生来の神経質も手伝って、次第に精神的に追い込まれていった。革命陣営から距離を置いてはいたが、『民報』の編集は続けていた。毎日のべつまくなし友人が訪れてきて忙しかった。

「清国留学生取締規則」に反撥して総帰国を主張する秋瑾

「清国留学生取締規則」に留学生たちは激しく反発し、清国留学生会館で緊急集会を開いた。

学生たちが問題視したのは、「清国留学生取締規則」第10条、「清国人ヲ入学セシムル公私立学校二関スル規定」の「性行不良」という文言だった。「性行不良」には明らかに革命運動も含まれるとして、授業の一斉ボイコットを呼びかけた。

女子学生の秋瑾は反対運動の急先鋒のひとりだった。秋瑾は、清国留学生会館で開かれた浙江同郷会の席上、留学生の「総帰国」を強く主張。煮え切らない態度の留学生がいるのを見ると、激昂して「死刑!」と叫んだ。

魯迅の弟の周作人は、そのときの様子を『魯迅の故家』にこう記す。


留学生は挙って反対運動を起こし、秋瑾が先頭になって全員帰国を主張した。年輩の留学生は、取締りという言葉は決してそう悪い意味ではないことを知っていたから、賛成しない人が多かつたが、それでこの人たちは留学生会館で秋瑾に死刑を宣告された。魯迅や許寿裳(魯迅の親友)もその中に入っていた。魯迅は彼女が一口の短刀をテーブルの上になげつけて、威嚇したことも目撃している。


実際のところ、孫文も留学生の「総帰国」には反対だった。帰国して戦いに参加すれば、無駄に若い命を失うことになり、革命勢力にとっては大きな損失になると考えていた。それゆえ中国同盟会の同志による留学生への説得工作もあったようだ。

しかしながら、授業ボイコット運動は過熱し、全留学生の約半数が帰国を決めると、その年12月、秋瑾率いる「総帰国」賛成派が一斉に帰国した。

秋瑾は故郷の浙江省に戻ると、大通学堂を開校して軍事訓練を行いつつ、安徽省の徐錫麟と呼応して武装蜂起を画策したが、情報が洩れて逮捕され、1907年7月15日早朝、斬首された。31歳の若さであった。

魯迅にとって、秋瑾の印象は強烈で、彼女の死はいかにも無念であった。評論文「「フェアプレイ」はまだ早い」(1925年)では、中国の旧勢力の悪辣さに警鐘を鳴らす一方、秋瑾の死について書いている。


革命は・・・・・すこぶる「文明」になった。・・・・・われわれは水に落ちた犬は打たぬ、勝手に上ってこい、というわけである。そこで、かれら(旧勢力の紳士や官僚)は上ってきた。民国二年の後半期までひそんでいて、第二革命の際、突如あらわれて袁世凱を助け、多くの革命家を咬み殺した・・・・・これすなわち、革命の烈士たちの人のよさ、鬼畜にたいする慈悲が、かれらを繁殖させたのであって、そのため目ざめた青年は、暗黒に反抗するためには、ますます多くの気力と生命とを犠牲に供さねばならなくなったのである。

秋瑾女史は、密告によって殺されたのだ。革命後しばらくは「女侠」とたたえられたが、今ではもうその名を口にするものも少なくなった。革命が起こったとき、かの女の郷里には都督 - いまいう督軍とおなじもの - が乗り込んできた。それはかの女の同志でもあった。王金発だ。かれは、かの女を殺害した首謀者をとらえ、密告事件の証拠書類を集めて、その仇を報じようとした。だが結局は、その首謀者を釈放してしまった。・・・・・ところが、第二革命の失敗後になって、王金発は袁世凱の走狗のために銃殺された。その有力な関係者に、かれが釈放してやった秋瑾殺害の首謀者があった(『魯迅評論集』竹内好編訳、岩波文庫、1981年)。

清国留学生会館は、留学生たちの政治運動の場と化した。四方の壁には日本政府に対する反対運動のスローガンや中国革命を擁護する張り紙、集会の開催予定を記したメモなどがびっしりと張られ、人の出入りが激しくなった。

やがて手入れを忘れた家屋は荒れ果て、留学生の憩いの場でなくなったことで、清国公使館は運営を停止した。

日本に居残った留学生たちは、1907(明治40)年、北神保町(現、神田神保町2丁目)に新設された中華留日基督教青年会館へと移動していった。そこには宿泊施設も食堂も完備されていたため、新たに来日した留学生たちの臨時の宿泊所として機能し、憩いの場となった。

秋瑾の来日も宋教仁と同じく前年の明治37年

秋瑾は、魯迅と同じ浙江省紹興出身、北京で結婚して二児をもうけたが、親の決めた結婚に飽き足らず、明治37年、単身日本へ留学した。「自分は革命のためにのみ存在するのだ」という強い覚悟をもっての来日だった。

日本で弘文学院速成師範科に編入し、青山実践女学校で教育、工芸、看護学などを熱心に学んだ。一方で、中国同盟会に参加して浙江省の責任者になり、神楽坂の武術会に通って射撃の訓練に励み、爆弾製造の技術も学んだ。ずばぬけた美貌と激しい気性、激烈な革命志向をもつ女子学生の秋瑾は、留学生のなかでもひときわ目立つ存在だった。


つづく

2025年8月27日水曜日

米最高裁、クックFRB理事の即時解任認めず トランプ氏主張退ける(日経10/2) / 米控訴裁判所、トランプ大統領の連邦準備制度理事会(FRB)理事リサ・クック氏の解任要求を却下 / トランプ氏のFRB理事「解任」を一時差し止め FOMC前に米地裁(朝日) / 450人超のエコノミスト、クック理事とFRB独立性を支持-公開書簡(Bloomberg) / 米FRBのクック氏、理事解任巡り提訴へ 「トランプ氏に権限ない」(毎日) / FRB理事の長い任期「国民の利益に基づく金融政策を保障」(朝日) / 対立の行方、不透明に 「未知の領域」突入◆米大統領とFRB(時事) / FRB理事、解任巡りトランプ氏を提訴へ 「違法行為を阻止」(日経) / BBCニュース - トランプ氏、クックFRB理事の解任を命令 理事は反発 / トランプ氏、FRBのクック理事を解任すると投稿 法的に可能か不明(毎日) / 映像:「今すぐ辞任すべきだ!」とトランプ氏、FRB理事の住宅ローン不正疑惑で 解任検討との報道も(ロイター) / トランプ氏、唐突なFRB理事辞任要求 利下げへ分断工作(日経);「ジャクソンホール会議を前に、トランプ政権が理事の「不正」を唐突に告発。一方、あえて非利下げ派を次期議長候補のリストに。攻撃と懐柔を使い分け、FRBを分断する狙いが透けます。」 / クックFRB理事、辞任を強要されるつもりはない-トランプ氏の要求で(Bloomberg)   

 


▼根拠希薄な言いがかり


 



 

シカゴへの州兵派遣計画に抗議活動 市民数千人が行進(ロイター) / シカゴ警察、州兵や連邦軍に協力せず 市長が命令に署名(ロイター) / 首都ワシントンに送られた州兵、やることのないのでゴミ拾いをしている(動画) / ニューヨーク市警総監ジェシカ・ティッシュ(右)、トランプ政権司法長官パム・ボンディ(左)に「ニューヨーク市に州兵隊は不要」と告げる。 / イリノイ州プリツカー知事「トランプの軍事占領の動機に疑問がある場合、注目してください。殺人率の上位20都市のうち13都市は共和党の知事が治めています。これらの都市にシカゴは含まれていません。殺人率が最も高い上位10州のうち8州は共和党が率いています。その中にイリノイ州は含まれていません。テネシー州メンフィス、ミシシッピ州ハッティスバーグはシカゴよりも犯罪率が高いです。それなのにドナルド・トランプはここに軍を送り、あそこには送っていません。なぜか考えてみてください。もしドナルド・トランプがシカゴのような都市での犯罪対策に本気だったなら、彼と彼の議会共和党員たちは、全国の公共安全および犯罪防止助成金を8億ドル以上削減したり、イリノイ州への1億5800万ドルの資金を削減したりはしないでしょう… トランプは警察の資金を削減しています」 / トランプ政権、全米に州兵の即時派遣可能に 民主大統領候補に照準(日経) / トランプ大統領 全米に州兵を即時派遣可能にする大統領令に署名 野党・民主党の治安対策が不十分だと印象付ける狙い(TBS) / ボルティモアにも派兵示唆 トランプ米大統領、州知事と対立で(時事) / 米、シカゴへ州兵数千人9月動員も 国防総省が計画策定中=WP(ロイター)         



 

築地再開発、「扇」デザインでスタジアム・オフィス整備 基本計画策定 / 築地市場跡の再開発工事が始まりました。200mを超すタワマンなど9棟が建ちます。ヒートアイランドも加速しますし、都民の多くはこの都有地にタワマンを建てることなんて望んでないでしょう。、、、、、 / 築地市場跡地にタワマン、VIP向けホテル…とても高級志向な計画 食文化や歴史の継承も焦点なのに(東京) / 築地市場跡地の巨大再開発が2026年度に着工へ、超高層など9棟で延べ126万m2超(日経XTECH)     



 

農水官僚「天下り」のひど過ぎる実態 「農家を犠牲にして現状維持」 改革は可能なのか(デイリー新潮)

大杉栄とその時代年表(599) 1905(明治38)年8月11日~16日 桂・原第3回秘密交渉。 原は西園寺と相談した上で講和には反対しないと言明。政権移譲時期は西園寺の都合次第。但し、政友会一党の政党内閣にしない、憲政本党と連立しない、を条件とする。原は了解。

 

原敬

大杉栄とその時代年表(598) 1905(明治38)年8月2日~10日 「事実を申せば、私は初め『マルクス』派の社会主義者として監獄に参りましたが、出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻りました。ところが此の国に於て無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑を求めることに外ならず、危険千万でありますから、右無政府主義の拡張運動は、全然秘密に之を取運ばざるを得ません。(略)私は次の目的から欧米漫遊をし度いと思って居ります。(略)若し私の健康が許し、費用等も親戚や友人達から借り集めてこれを調達することが出来ましたら、私はこの冬か来春のうちには出発したい考で居ります。(略)」(幸徳秋水のアルバート・ジョンソンへの手紙) より続く

1905(明治38)年

8月11日

石川啄木(20)、友人大信田金次郎(落花)の援助を得て文芸雑誌「小天地」を刊行することになり、友人の小笠原迷宮ら文学仲間と原稿を依頼する。

8月11日

(漱石)

「八月十一日(金)、中川芳太郎葉書に、「船へ乗つて月を見て美人の御酌でビールが飲みたい。」と書く。『吾輩は猫である』を美しい本で出版する喜びを伝える。」(荒正人、前掲書)


8月12日

第2回日英同盟協約調印

林董駐英公使とランスダウン英外相、ロンドン。日英同盟の期限を10年延長。適用範囲をインドにまで拡大。即日実施。9月27日公布。

英のインド領有・国境防衛措置承認。日本の朝鮮「指導・監理及保護」承認(韓国の保護国化を認める)。日英軍事「攻守同盟」関係。

8月12日

ポーツマス、午前9時45分、第2回会談。

ロシア側、樺太割譲・賠償金支払・海軍力制限、中立国抑留船舶の日本引渡しの4条件拒否。残り8条は条件付受諾を回答。

8月13日

「韓国沿海及内河の航行に関する約定書」。沿海航行権及び河川遡行権の獲得。

8月13日

『直言』第28号発行

社説「日本人排斥と社会主義」;

昨年の第二インタナショナル・アムステルダム大会で、米国の代表委員は東洋移民排斥の決議案を提出して否決されたが、本年2月、サン・フランシスコの新開『クロニクル』は日本移民排斥の論陣を張り、州議会は日本人排斥を決議するに至った。平民社社友・斯波貞吉はこの排斥の理由なきことを論証し、米国の社会主義者に対して、彼等がさきに万国社会党大会に提出した決議案の不当を詰(なじ)り、次の3問に対する回答を要求。

一、社会主義は単に白人のみに適用せらるべきものなりや。

二、日本人は万国的社会運動に加はる能はざるものなりや。

三、社会主義は単に或る人種に限りたる利益を増進せしむべきものなりや。

この詰問状に対しては、社会主義労働党首領・シカゴ大学経済学教授デレオンが、機関紙『ニューヨーク・デイリー・ピープル』紙上で答えた。

デレオンは斯波の意見に完全に同意し、かつ憤慨を同じくするものであるが、アムステルダム大会に提出された東洋移民排斥の決議案は米国の「社会党」、「社会民主党」、「公有党」と称する委員の所業であって、「社会主義労働党」の委員はかくのごとき非社会主義的決議案に加わることを拒絶し、同案はために議題にも上らなかったと述べる。

デレオンはさらに「社会党」、「社会民主党」、「公有党」の本質を知らせようと称して、アムステルダム大会の米国委員ヒルクイット、シュルーテル、リーはニューヨークに在るドイツ語新聞『フォルクス・ツァイツング』の株主や社員にほかならぬことを暴露した。

幸徳秋水「小田原より」;

明治20年「保安条例」により15歳の秋水が東京追放、小田原での宿泊中、深夜に警官に手荷物検査をされた恨み。この日、箱根より来た林泉寺の内山愚堂・堺枯水と語り合う。

8月13日

東京で清国からの留学生主宰の孫文歓迎会開催。

8月13日

モスクワで全ロシア農民同盟創立大会。

8月13日

ノルウェー、スウェーデンとの同君連合解消を国民投票により批准。10月26日調印。デンマークのカール王子がホーコン7世としてノルウェー王に即位(1957年まで在位)。

8月14日

桂・原第3回秘密交渉。

原は西園寺と相談した上で講和には反対しないと言明。政権移譲時期は西園寺の都合次第。但し、政友会一党の政党内閣にしない、憲政本党と連立しない、を条件とする。原は了解。

22日、再度秘密打合せ。伊藤・山縣元老への伝え方、桂辞職の時期などについて。

8月14日

大阪商船(株)、大阪~清の安東県間航路開設。

8月14日

ポーツマス、講和談判。

日本側提出講和12条件のうち、①日本の韓国管理、②満州撤兵、③満州の清国還付の条件可決。

ヴィッテは韓国における日本の「自由行動」は容認するが、条文に「韓国皇帝の主権を侵害すべからざること」の挿入を主張。論争の結果、「日本国が将来、韓国に於て執ることを必要と認むる措置にして、同国の主権の侵害とすべきものは、韓国政府と合議の上、之を執るべきことを茲に声明す」と会議録に定めることで妥協。

8月15日

(旧姓延岡)為子「台所方三十年」によれば、8月15日頃、堺から結婚を求められ、直ちに応じたという。

8月15日

ポーツマス、講和談判。

条件④満州における商工業の機会均等、可決。⑤樺太割譲巡り対立、難航。棚上げして、午後は、⑥清国におけるロシア権益の譲渡の討議。字句を修正して合意。

8月15日

ドイツ領東アフリカ、「マジマジの反乱」。

この年7月末、大規模反乱勃発、ドイツ領南部全域に拡大。反乱軍兵士達は白人の力を弱める「魔法の水(マジ)」を飲むことから「マジマジの反乱」と呼ばれる。

マジを管理するホンゴ(神の使者)達が部族20以上を反ドイツに結束させ、8月15日、県庁1つ占領。反乱軍装備は貧弱(ンゴニ族軍勢5千中銃携帯は200のみ)で、本国の鎮圧軍の機関銃で蹴散らされる。ゲリラ戦はこの後2年間継続するが、ドイツ軍は抵抗する村の家や畑を焼き払い、そのための飢饉・徹底的掃蕩作戦のため10万人余が死亡。 

1901年、ドイツ領東アフリカへの白人移民増加、サイザル麻・コーヒー・ゴム等の農園建設が進む。1902年、労働力不足のため、総督ゲッツェンはダルエスサラーム南部の村々で年28日の「共同作業」(現地民の強制労働)を開始。報酬はごく僅かで28日という規定も無視されがちの状況下。 

ドイツ本国は植民地統治見直し検討開始。

1907年時点でドイツ人入植者2,700名は植民地(白人だけの)自治を要求するが、総督レッヒェンベルクはアフリカ人の農業を補助による税収拡大を目指す新政策を打ち出す。内陸部アフリカ人に商品作物を栽培させるための鉄道建設が進み、東アフリカ沿岸地帯に勢力を持つインド商人も内陸部へと進出。綿花・コーヒー以外、鉱山・消費材生産も進む。ドイツは特に最奥地3地区(ルワンダ・ブルンジ・ブコバ)に意を用い、これらを「自治区」とし、地元首長の権限を認め、外国人立入制限を施行。

1913年のドイツ領東アフリカ白人人口5,336。他に海外植民地は、西南アフリカ(現、ナミビア)、トーゴーランド、カメルーン、ニューギニア東北部、太平洋の島々。  

8月16日

ポーツマス、講和談判。

⑦南満州鉄道および付属権益の譲渡は、長春・吉林線を日本の所属とし寛城子(長春)を区分点とすることで合意。⑧満州横貫鉄道の非軍事化、合意。


つづく

ガザ病院に「ダブルタップ」攻撃、記者ら20人死亡 着弾場面も中継(毎日) / ガザの病院への攻撃を受け、記者や救急隊員が集まったところへイスラエル軍による2度目の攻撃が発生。一連の攻撃で多数の死傷者が出た。(ロイター) / イスラエル軍に爆撃されたナセル病院で消防隊と救急隊が救助活動中、二度目の爆撃を被った。ヨルダンTV局アル=ガドの生放送中。消防隊員と救急隊員の他に現場を取材していたロイターのフサーム・アル=マスリー記者、マリアム・アブーダッカ記者、ムハンマド・サラーマ記者が殺害された。

2025年8月26日火曜日

トランプ大統領 アメリカ国旗を焼却した人物の訴追求める大統領令に署名 「国旗を燃やす人物は極左からカネを受け取っている」と根拠を示さず主張(TBS) / トランプ氏、米国旗燃やせば訴追を 大統領令で司法長官に指示(毎日) / 「トランプが国旗を燃やす行為に対して1年間の懲役を義務付ける大統領令に署名した数時間後、退役軍人がホワイトハウス前でアメリカ国旗を燃やし、逮捕される」    

大杉栄とその時代年表(598) 1905(明治38)年8月2日~10日 「事実を申せば、私は初め『マルクス』派の社会主義者として監獄に参りましたが、出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻りました。ところが此の国に於て無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑を求めることに外ならず、危険千万でありますから、右無政府主義の拡張運動は、全然秘密に之を取運ばざるを得ません。(略)私は次の目的から欧米漫遊をし度いと思って居ります。(略)若し私の健康が許し、費用等も親戚や友人達から借り集めてこれを調達することが出来ましたら、私はこの冬か来春のうちには出発したい考で居ります。(略)」(幸徳秋水のアルバート・ジョンソンへの手紙)

 

幸徳秋水

大杉栄とその時代年表(597) 1905(明治38)年8月 「兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。」(漱石の談話「戦後文界の趨勢」) より続く

1905(明治38)年

8月2日

ロシア講和主席全権大使、ニューヨーク着。

4日、ウィッテ、ルーズベルト訪問。ロシアの不利な条件拒否。賠償金も拒否の態度示す。

8月3日

(漱石)

「八月三日(木)、浜武元治の就職の件で、山形県立庄内中学校長羽生慶三郎来る。

八月四日(金)、野村伝四宛葉書に、「事業如山多く時間かくの如く短かし僕が二人になるか一日が四十八時間にならなくて〔は〕到底駄目だ。」「千駄木は不相變豚臭くて厄介だ。」と書く。(署名は「こまる先生」)」(荒正人、前掲書)


8月5日

日・ロシア両国全権の初顔合わせ。ルーズベルト大統領専用ヨット「メイフラワー」号上。

8月6日

幸徳秋水(35)、小田原の医師加藤時次郎の別荘で出獄後の身を養う。24日帰京。

8月6日

幸徳秋水「柏木より」(「直言」)。獄中生活の報告。

8月7日

(漱石)

「八月七日(月)、中村鈼太郎(不折)宛手紙に、『吾輩は猫である』の挿画を依頼する。

八月八日(火)、夜、橋口清(五葉)来る。『吾輩は猫である』の表紙その他に就いて相談し、依頼する。

八月九日(水)、晴天、風強い。野村伝四宛葉書に、「今日晴天大風にて障子を立て切り密室内にて空気風呂に入浴仕候處至極工合宜敷(後略)」と書く。」(荒正人、前掲書)

8月7日

ロシア側委員、陸路ポーツマス着。巡洋艦「チャタヌーガ」乗船。

8月8日

日・露両国全権、ポーツマス上陸。ホテル「ウェストウォルス」入り。

8月9日

午前10時、両国全権(日本側主席全権小村寿太郎、全権高平小五郎駐米日本公使。ロシア側主席全権セルゲイ・ウィッテ大蔵大臣ら)、非公式講和予備会談。仏語使用。2回/日会議など運用取決め。

〈交渉開始から調印迄の概観〉

仲介をつとめたアメリカ大統領ルーズヴェルトが指定したポーツマスにおいて、日露講和交渉開始。

交渉にあたり、日本政府は閣議で講和条件案を決定(1905年4月21日)

そこでは ①韓国を日本の自由処分に委すこと 

②日露両軍の満州撤兵 

③ロシアが清より得ている遼東半島租借権およびハルビン-旅順間の鉄道譲渡 の3点が「絶対的必要条件」とされている。 

会議開催日程

   8月 9日 非正式予備会議

   8月10日 第1回本会議

   8月12日 第2回本会議

   8月14日 第3回本会議

   8月15日 第4回本会議

   8月16日 第5回本会議

   8月17日 第6回本会議

   8月18日 秘密会議,第7回本会議

   8月23日 秘密会議,第8回本会議

   8月26日 秘密会議,第9回本会議

   8月29日 秘密会議,第10回(最終)本会議

   9月 1日 非正式会見(当日2回開催)

   9月 2日 非正式会見(当日2回開催)

   9月 5日 講和条約調印


第6回本会議までには日本側の求める講和条件はほぼロシア側も認めるところであったが、

①樺太(サハリン)割譲 ②賠償金の支払い ③ロシア艦艇の引渡し ④ロシアの極東における海軍力の制限 の4点をめぐって対立が続く。特に①樺太の割譲と②賠償金の獲得は、日本の国内世論が強硬化していたこともあり日本側としては譲れない条件となっていた(当初は「比較的必要条件」という位置づけ)。

このため一時は交渉決裂も危惧されたが、日本側は賠償金断念・樺太の割譲は南半分のみと譲歩し(第8回本会議)、講和成立を優先させた。

8月29日の第10回本会議で日露双方は講和条件に合意し、その後の非正式会見による調整を経て9月5日午後3時に日露講和条約の調印式となる。公布は10月16日、批准交換は11月25日。

ポーツマス会議の首席全権小村寿太郎は、講和条約締結直後に病に倒れる。そして、帰国した病み上がりの小村を待ち受けていたのは、都市部を中心に高まっていた講和反対運動であった。


8月10日

幸徳秋水、無政府主義者への転向を吐露。休養先の小田原より、この日付のサンフランシスコの友人(アナキスト)アルバート・ジョンソン宛手紙。

アルバート・ジョンソン(ジョンソン老人):

アメリカの無政府主義者、秋水は前年から文通している。無政府主義者クロボトキンを秋水に紹介した。


「事実を申せば、私は初め『マルクス』派の社会主義者として監獄に参りましたが、出獄するに際しては、過激なる無政府主義者となって娑婆に立戻りました。ところが此の国に於て無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑を求めることに外ならず、危険千万でありますから、右無政府主義の拡張運動は、全然秘密に之を取運ばざるを得ません。(略)私は次の目的から欧米漫遊をし度いと思って居ります。(略)若し私の健康が許し、費用等も親戚や友人達から借り集めてこれを調達することが出来ましたら、私はこの冬か来春のうちには出発したい考で居ります。(略)」


秋水はジョンソンに、次のように書いた。

5ヵ月の禁錮生活は健康を害ったが、社会問題に関する多くの知識を得たこと、罪悪について深く考え、実際に貧窮と罪悪とを誘発するものは、結局は現在の政府の組織、裁判所-法律-監獄であると確信するようになったこと。

獄中での読書の主なものは、ドレーバーの『宗教学術の衝突』、へッケル『宇宙の謎』、ルナン『耶蘇伝』など、それにジョンソン老が送ってくれたラッド『ユダヤ人及クリスチャンの神話』と、クロボトキン『田園、工場、製作所』とは幾度も読み返した。

秋水は続けて、事実を申せば、「私はマルクス派の社会主義者として入獄」したが、出獄する時は、「過激なる無政府主義者」となった。しかし、日本で「無政府主義を宣伝することは、死刑又は無期徒刑若くは有期徒刑」を求めることになるので、「危険千万」だから、無政府主義の拡張運動は、秘密に取運ばざるを得ないので、運動の進歩と成功とを見るには、長い年月と忍耐を要すると考えること。

そこで、次のような目的から欧米漫遊をしたい、と記している。

一、コムミニュスト又はアナーキストの万国的連合運動に最も必要な外国語の会話と作文とを学ぶため。

二、多くの外国革命党の領袖を歴訪し、そして彼等の運動から何物かを学ぶため。

三、天皇の毒手の届かない外国から、天皇を初めとし其の政治組織及経済制度を自由自在に論評するため。


このジョンソン老への手紙は、秋水の無政府主義への転化の時期を示唆し、3ヵ月後の渡米の意図についての貴重な参考資料。「天皇の毒手の届かない外国」という表現も、秋水の天皇制意識として解釈できる。

8月10日

ポーツマス、日露講和会議。午前10時15分、本会議開始(第1回)。12条の日本側条件示す。


つづく

2025年8月25日月曜日

トランプ米大統領、NBCとABCの放送免許剥奪を示唆-報道に不満(ブルームバーグ); トランプ米大統領は24日、米放送局のNBCとABCについて、「歴史上最悪かつ最も偏向した放送局」と非難し、両局のテレビ放送免許を連邦通信委員会(FCC)が取り消すことを支持すると表明した。

大杉栄とその時代年表(597) 1905(明治38)年8月 「兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。」(漱石の談話「戦後文界の趨勢」)

 

千駄木邸書斎の漱石(1906年)

大杉栄とその時代年表(596) 1905(明治38)年7月28日~30日 幸徳秋水出獄。幸徳は出獄直前から無政府主義に関心を惹かれはじめた。獄中から在桑港の友人アルバート・ジョンソンに宛てた書翰にも、「私は所謂『罪悪』ということについて深く考えるところがあり、結局現在の政府の組織、裁判所、法律、監獄が、実際、貧窮と罪悪とを誘導するものであると確く信じるようになりました……事実を申せば小生ははじめマルクス派の社会主義者として監獄に参りましたが出獄に際しては急進的なアナーキストとして立ち戻りました」と述べ、入獄という体験が、幸徳の国家権力の否定、無政府主義への思想的傾斜の原因になったことを語っている。 より続く

1905(明治38)年

8月

与謝野鉄幹長詩「ぐうたら」(「明星」)。

「明三十八年八月、鉄幹は「ぐうたら」と題して五連の自虐的なローマ字詩を発表している。(読みづらいので平仮名と漢字に書き直しました)


           第一連

           ぐうたら! ぐうたら!

           ぐうたら! 起きな! 蚊帳越しに、

           細帯姿、 乳もあらわ、

           がさつに呼ぶは、襟白き

           女剣舞の座頭よ!

                             ・・・

           第五連

           ぐうたら! ぐうたら!

           ぐうたら男! うしろより

           団扇使えば、物見高!

           粗木(あらき)の小屋のふしはみな

           目となり、ききとひそめいた

           「野郎! かかぁをあおいでる!」


 「ぐうたら」は鉄幹自身であり女座長は晶子を指している。

 「野郎! かかぁをあおいでる!」とは鉄幹に対する世間の目であろう。」

(ブログ「Merrydiary」与謝野晶子≪春泥集≫抄-5 より無断拝借しました)


8月

長谷川天渓「文芸観」(「文明堂」)

8月

漱石の談話「戦後文界の趨勢」(『新小説』戦後之文壇)


兎に角日本は今日に於ては連戦連捷 - 平和克復後に於ても千古空前の大戦勝国の名誉を荷ひ得る事は争ふべからずだ、こゝに於てか啻(たゞ)に力の上の戦争に勝ったといふばかりでなく、日本国民の精神上にも大なる影響が生じ得るであらう。


と語る。

漱石は、「平和克復」によって「不安」(「中味と形式」)がなくなったことをよろこび、同時に、日本の「連戦連捷」や「大戦勝国の名誉」をよろこぶ。

漱石は、今回の戦勝が「精神界へも非常な元気」を与えることに期待をかけた。文学においても、「近松はセクスピアと比較し得る」といった「昔の国粋保存主義時代の考へ」ではなく、「我邦の過去には文学としては大なる成功を為したものはないが、これからは成功する、これからは大傑作が製作される、決して西洋に劣けは取らぬ」という「気概が出て来る」と述べ、「この趨勢から生れて来る日本の文学は今までとは違って頗る有望なものになって来るであろう」と語る。

また漱石は、「文学」ばかりでなく「文界」全般の発達を期待して、日露戦争の犠牲などにはあえてふれず、明るい展望だけを述べた。

さらに漱石は、われわれがこれまで「大和魂」などを「無暗に口にした」のは、「自信」があってのことではなく、いわば「恐怖」の叫びであった。しかし、「斯う勝を制してみると」、「今日まで苦しまぎれに言った日本魂は、真実に自信自覚して出た大なる叫びと変化して来た」と言う。また、「人間の気分が大きくなって、向ふも人なら、吾も人だといふ気になる、ネルソンもエライかも知れぬが、我東郷大将はそれ以上であるといふ自信が出る」とも言う。

漱石「現時の小説及び文章に付て」「本郷座金色夜叉」(談話筆記)〔『神泉』1号(8月号)〕

漱石「イギリスの園藝」(談話範記)〔『日本園芸雑誌』8月号〕

漱石「水まくら」(談話筆記)〔『新潮』8月号〕


「僕は芝居を見るくらいなら落語を聞きに行く。この前『パオロ・エンド・フランチェスカ』の芝居を見に行って、西洋人が出て来たりなんかして驚いて帰って来た。それっきり芝居見物というものに出かけたことがなかったのを、この頃ある人に招待されて本郷座の『金色夜叉』を見た。こんどはそれでも前よりは面白かった。それからまた落語の円左会だの、落語研究会だのに行って、近ごろ落語家の顔も大分覚えて来た。僕は落語家小さんの表情動作などは、壮士俳優のやるよりよほど旨いと思う。人が賞める高田などは、芝居のために芝居をするようで、肩が凝って面白くない。よほど不自然だ。まああの白(セリフ)などのやり口は、講談師松林伯知ぐらいのところだと思う。河合の女形はよい。あの詞調子態度などは死んだ円朝そのままだ。よほど巧でそれで自然だ。僕はむしろああいう重だった役をするものより端役をやるものの方が自然で旨いと思う」(「水まくら」)


8月

大杉栄(20)、8月頃、エスペラントの学習を開始。岡山でエドワード・ガントレットが始めた通信講座に入会し、ガントレットが作った謄写版のエスペラント講習録を読む。

8月

王子製紙会社、王子工場で500キロワットの電力を応用。

8月初

(漱石)

「八月初め、(日不詳)、服部国太郎来て、『吾輩は猫である』を出版させて欲しいと云う。承諾する。」(荒正人、前掲書)

「服部国太郎は、大倉書店の番頭である。『吾輩は猫である』の出版は、服部国太郎の企画であったと云われる。そのため、大倉書店・服部書店の共同出版の形式をとったものである。」(荒正人、前掲書)


8月上旬

(漱石)

「八月上旬、『神泉』を発行している小沢平吾から月見に来るように云われたが断る。」(荒正人、前掲書)

8月1日

木下尚江・山田金一郎、東北遊説出発。13日間。郡山、山形、楯岡、福島、仙台、盛岡、宇都宮。

8月1日

水谷八重子、誕生。

8月1日

東京日比谷公園内音楽堂開堂式。陸軍軍楽隊が演奏。以後、陸・海軍楽隊が交互に月二回演奏。

8月1日

島崎藤村は、この年7月に出版された国木田独歩の短篇集「独歩集」を小諸の神津猛に送った。藤村は、明治30年頃から柳田国男や田山花袋等の仲間になっていた独歩に、この年はじめて逢い、その人となりと仕事に注目していた。

この日付け藤村の神津宛ての手紙。


「昨日開き封にて御送りしました一書は新刊の小説集で、これは近頃懇意になりました国木田独歩といふ人の作です。君の許へ送る為に特に一冊とりよせました。是非この集は精読して下さい。批評を聞かせて下さい。 - 無瑕なものばかりでも有りませんが、兎に角新らしい思想で書いたもので、田山君などもツルゲネエフの作風に肖てゐると賞めたものであります。」


国木田独歩はこの時、数え年35歳、まだ作家として志を得ていなかった。

明治32年、矢野龍渓の紹介で「報知新聞」に入ったが、翌年退き、明治34年1月には星亨の下で「民声新報」編輯長となったが、半年後星が暗殺されて失職し、西園寺公望の神田駿河台の屋敷に寄寓したりしていた。

この頃から翌年、貧困に追われながら「牛肉と馬鈴薯」、「富岡先生」、「運命論者」、「空知川の岸辺」、「少年の悲哀」等のすぐれた短篇小説を書いて、二三流の雑誌に発表し続けていた。「空知川の岸辺」は、田山花袋の世話で金港堂の「青年界」に発表されたが、この作品は旅行記と見なされ、その随筆欄に載せられ、稿料も1枚50銭と安いものであった。

明治35年末、矢野龍渓の主宰する敬業社(のち近事画報社)に入って、やっと生活の安定を得るようになった。

明治37年、日露戦争が起ると、「近事画報」は「戦時画報」と改題されて、戦争の情報を主として載せ、売れ行きがよくなった。

妻治子との間に、明治32年に長女貞が、明治35年に長男虎雄が、明治37年に次女みどりが生れた。

明治37年、若い画家小杉未醒が近事画報社に入り、独歩と親しい交りがはじまった。

この年1月19日、父専八が死んだ。父が病気の間、奥井君子という附添看護婦が同居していたが、独歩はこの女性と関係が出来た。そのため君子は病人が死んでも国木田家を去らず妻妾同居の形となった。妻の治子はそのことに悩んだが、子供に手がかかるので君子の手助けが役立つこともあり、その不自然な生活が続いた。独歩には古風な男性中心の意識があり、そのことをあまり苦にしなかった。

独歩は、前年からこの年にかけて、「非凡なる凡人」、「女難」、「春の鳥」などの幾つかの短篇小説を書いた。彼は作品集を出そうとしたが、中々引き受ける本屋がなかった。近事画報社の営業主任・山本秀雄がそれを聞いて義侠的に自分の社から出すようにはからってくれたが、部数は500にすぎなかった。

そしてこの年7月、自分の勤めている近事画報社から「独歩集」を出版した。素朴で鋭い生の感情をとらえた彼の作品は、花袋や柳川国男など友人の間では早くから認められていたが、文壇人たちはこの作品集によってはじめて、独歩の鋭いものの見方を知り、急に注目が集った

「独歩集」が各地の書店へ送られた時、佐渡中学に学んでいた数え年16歳の青野季吉は、町の本屋でこの本を買った。それは彼が初めて買った小説本であった。青野季吉は姉の持っていた蘆花「不如帰」を読んだことがあったが、その古い感じが彼を引きつけなかった。この「独歩集」の中の「女難」や「少年の悲哀」や、同じような少年の夢を描いた「春の鳥」などが、人生の真実に触れた小説を読むという新鮮な喜びを彼に与えた。

彼は佐渡の沢根町で酒造業や海運業をしている家に生れたが、幼い時代に生家が没落したので、極めて貧しい漁師夫婦のところに里子にやられた。彼は、貧民の子として育てられたので、独歩の描いた貧しい庶民の生活を実感をもって味わった。

彼は明治36年未に出た「平民新聞」を創刊号から終刊号まで購読する少年であり、この明治38年には千山万水楼主人という名で河上肇が「読売」に連載した「社会主義評論」も愛読していた。


つづく

2025年8月24日日曜日

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