1905(明治38)年
4月22日
午後1時、バルチック艦隊(第2太平洋艦隊)、仏の要請によりカムラン湾を一旦出港。沖合いを往復運動しながら第3太平洋艦隊を待つ。
第2太平洋艦隊は、4月5日にマラッカ海峡に入り、4月14日にフランス領インドシナのカムラン湾に入り、ここでネガポトフの第3太平洋艦隊を待った。ロジェストヴェンスキーは第3太平洋艦隊を待たずにウラジオストクへ急航したいと本国に打電するが、許可されなかった。
この日、フランスより退去要求を受けやむなくガムラン湾を出航し、4月26日にバンフォン湾の国際法違反にならない場所で投錨。5月9日になってようやく第2太平洋艦隊と合流する。
4月23日
大阪婦人慈恵会、通勤婦人のため授産所に幼児収容所併設。
4月23日
『直言』第12号「婦人号」発行(緑色のインクで印刷)
木下尚江「醒めよ婦人」(社説)、堺利彦「婦人問題概観」、石川三四郎「独逸軍人の結婚」(ビルゼー陸軍中尉の「小兵営」の紹介)、英文欄「婦人の状態」、世界之新聞欄「英国婦人選挙権獲得運動の小歴史」。
通常の8ページを10ページに増やし特集を組む。
荒畑寒村「東北伝道行商日記」(第1回)。小田頼造の「九州日記」とが毎号並載。
「如何にして社会主義者となりし乎」
延岡為子、松岡文子、木下尚江の妹の菅谷伊和子、神川松子の4人が答える(神川松子はのちに赤旗事件で菅野すがらとともに検挙される)。
「婦人問題概観」(堺利彦)
女子が「奴隷」のように男子に隷属している現状を指摘しつつ、「婦人解放」を実現するための手段について述べる。女子は経済上の独立を得なければ、男子の束縛から脱することができないが、社会主義を実現することによって衣食住の自由を得られれば、女子は男子に依存せずに解放される。
一方、女子が男子と同等な教育を受け、職業を持って収入を得ることは現状では困難だ、とも述べ(この点は堺の婦人論の限界、あるいは婦人の権利に対する消極的な態度として、批判されている)。
「社会主義婦人講演」の告知
講演会では、堺利彦は「べーベル氏の婦人論(一)」を担当。
自柳秀湖『歴史と人間(昭和11年)』はこの演説会についてで次のように述べる。
若い人達、殊に近頃の娘さん達に会って話して見ると、その大部分が、日本の婦人解放運動の起り、平塚明子さんの青鞜社であつたと信じて居るやうである。この不勉強振りには驚かされもするが、又失望もさせられる。
青鞜社の起る前、堺さんの手でべーベルの婦人論などもすでに一通り紹介されて居たし、これは余り知られずにしまったが、アメリカのハーマン翁の自由恋愛論なども堺さんの手で研究され、折々の集まりには話題にも上って居たものである。
「日本之新聞」欄の「女学生と社会主義」
文部省が各学校に対し女学生の間の社会主義思想伝播を厳重に取締る訓令を発した事実を摘発して、「・・・教育当局が・・・女学生の受くる書状を検閲し、彼等の眼に触るる新聞雑誌書籍の類を制限し、要するに種々外来の知識思想を制限するは・・・彼等をして紳士閥男子の玩弄に適すべき温柔、卑屈、無気力の婦人たらしめんとすればなり」と、痛烈に糾弾。
「平民社より」(堺利彦)
文部省の訓令を嘲笑し、「・・・我党の『婦人講演』、・・・『直言婦人号』などを見て、腰でも抜かさにや善いが」と冷やかす。
4月24日
(漱石)
「四月二十四日(月)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。
四月二十五日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。
四月二十七日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。
若杉三郎宛手紙に、「盾は禮服塔は袴猫は平常服の喩尤も得吾意も申侯。」と蜜く。
四月二十九日(土)、午後五時から文章会を開く。五、六人集り、十一時頃まで語り合う。
四月三十日(日)、野間真綱宛手紙に、「昨夜は五六人集って十一時頃迄談話をしました虚子は短篇を作って来た(中略)僕は琴のそら音と云ふ小説を讀んだ七人に出す積だから讀んでくれ給へ。」と書く。」(荒正人、前掲書)
4月25日
高平小五郎駐米公使に、満州の清国への還付、門戸開放の日本の方針が不変であることを米大統領に言明するよう訓令。
4月25日
ロシア社会民主労働党第3回大会開催。~5月10日、ロンドン、ボリシェビキのみの大会。クラーシンがレーニン(35)決議案に対する修正案としてトロツキーの臨時革命政府の考えを提出。レーニンはこれの同調に同調し決議案は修正される。メンシェビキは、ジュネーブで党協議会開催。
〈経緯〉
1905年1月9日の「血の日曜日」事件以降、ロシアの社会民主主義者たちはこの事態を革命の始まりと見なし、革命の性格と取るべき戦術について論争を開始した。
パルヴスは、事件直後にトロツキーのパンフレット『1月9日以前』への序文を書き、「ロシアで革命的な体制転覆をなし遂げうるのは労働者だけである。ロシアの革命的臨時政府は労働者民主主義の政府であろう。社会民主党がロシア・プロレタリアートの革命運動の先頭に立つならば、この政府は社会民主主義的な政府となるであろう」との展望を示した。トロツキーは3月17日付けの『イスクラ』第93号に掲載された「政治的書簡」でパルヴスに同調した。
レーニンは、パルヴスの主張に原則として同意しながらも、「ロシアのプロレタリアートは、いまは、ロシアの住民のうちでは少数である」と指摘し、プロレタリアートが単独で権力をとる見込みを否定した。そして「プロレタリアートと農民の革命的民主主義的独裁」というスローガンを提示した。
一方、メンシェヴィキ主流派は伝統的な考え方(当面するロシア革命はブルジョアジーが遂行するブルジョア革命であると考える)を維持し、マルトフは「われわれが臨時政府に参加しても、革命的措置がより容易になることはないだろう。それどころか、それは、革命となんの共通性もないような措置を実行することをわれわれに余儀なくさせるだろう」指摘し、ブルジョア革命において社会民主党は急進的野党にとどまるべきだと主張した。
論争と並行して、ボリシェヴィキは4月に第3回党大会を招集し、レーニンが起草した決議「臨時革命政府について」を採択した。メンシェヴィキはボリシェヴィキの大会を不法なものとみなし、対抗して第1回全ロシア党活動家協議会を開催して、「権力の獲得と臨時政府への参加について」という決議を採択した。
レーニンは、この年7月、ボリシェヴィキの大会とメンシェヴィキの協議会を受け、両者で採択された決議を比較しつつボリシェヴィキの決議を擁護する目的で『民主主義革命における社会民主党の二つの戦術』を発表する。
4月25日
フランスの社会主義諸派(PSD・PSF)、社会主義労働者インターナショナル・フランス支部結成。
4月26日
午前8時、バルチック艦隊、カムラン湾沖から北行し、午後4時、北方仏領ヴァン・フォン湾入港。
4月29日
武田薬品の武田長兵衛、誕生。
4月30日
『直言』第13号発行
木下尚江「恋愛中心の社会問題」
「国民兵召集の勅令」
兵力が涸渇し、遂に国民兵召集の勅令が発せられるに至ったと報じる。
日く旅順の陥落、日く奉天の大勝、日くパルチック艦隊の全滅、日く何、日く何。新聞は連日、大活字を羅列して戦局の有利な発展を報じているが、実は将兵の死傷算なく予後傭兵を投入してなお足らず、戦力ほとんど底をついて頽齢(たいれい)老躯の国民兵を召集しなければならぬ窮境に陥っていた。
4月30日
英・仏間で軍事協議開始。
4月30日
アルバート・アインシュタイン、PhD論文「分子の大きさの新しい決定法について」完成。7月に受理。これは「わが友M.グロスマン博士」に献呈。
4月下旬
(漱石)
「四月下旬か五月上旬(日不詳)、村上半太郎(霽月*)上京したが、会えなくて残念に思う。」(荒正人、前掲書)
*愛媛県温泉郡今田町に住む。松山時代からの友人
つづく

0 件のコメント:
コメントを投稿