2025年8月10日日曜日

大杉栄とその時代年表(582) 1905(明治38)年5月12日~18日 社会主義伝道行商(東北)から帰京した荒畑寒村は、雑司ケ谷鬼子母神の傍の農家で自炊していた武久夢二(早稲田実業)・岡栄一郎(早稲田大学)と三人の共同生活をおくる。三人は、「水とパンだけで過す日の多い生活をも意に介せず、社会主義実現の空想に耽って奔放な議論をたたかわせていた」(『寒村自伝』)

 

竹久夢二(赤十字のマークのついた白衣の骸骨と並んで丸髷の若い女の泣いている絵)

大杉栄とその時代年表(581) 1905(明治38)年5月4日~11日 「小生は教師なれど教師として成功するよりはへボ文学者として世に立つ方が性に合ふかと存候につき是からは此方面にて一奮発仕る積に候然し何しろ本職の余暇にやる事故大したものも不出来只お笑ひ草のみに候」(5月8日付け漱石の村上霽月宛手紙) 「僕は今大学の講義を作つて居る。いやでたまらない。学校を辞職したくなつた。学校の講義より猫でもかいて居る方がいゝ」(4月7日付け大塚保治宛手紙) より続く

1905(明治38)年

5月12日

啄木、堀合節子を妻として入籍。父一禎、婚姻届を盛岡市役所に届ける。

5月12日

社会主義伝道行商(東北)から帰京した荒畑寒村は、雑司ケ谷鬼子母神の傍の農家で自炊していた武久夢二(早稲田実業)・岡栄一郎(早稲田大学)と三人の共同生活をおくる。三人は、「水とパンだけで過す日の多い生活をも意に介せず、社会主義実現の空想に耽って奔放な議論をたたかわせていた」(『寒村自伝』)。

夢二も、「マルクス、エンゲルスを教えてくれたのも栄一郎だった」と記している。

生活に困窮していた夢二が、新聞配達、牛乳配達をしたり、街頭で『平民新聞』を売ったり、車夫や書生ともなり、教会の留守番にもなったりしていた。こうした生活を通して、夢二の社会を視る目が開かれ、社会批評眼が育っていった。

竹久茂次郎(夢二)は岡山県邑久郡本庄村の酒造家の息子。荒畑より3つ年上で、この時数え年22歳。神戸一中に学び、画家が志望であったが、父の命で早稲田実業に入学。だが学校は籍を置くだけで出席せず、当時岩村透の指導理論による新傾向の印象派の画を教えていた白馬会の洋画研究所に通っていた。そのため学校は落第し、国許からの送金が来なくなった。

彼の絵には天才的な閃きがあった。彼は困った揚句、その頃流行しはじめた絵葉書の製作を思い立った。葉書型の画用紙に水彩で絵を描いたのを、学校に近い鶴巻町辺の絵葉書屋に卸して、あとでその売上げを集める工夫をした。その絵は割合よく売れて、彼の生活費になった。

ある日竹久は、厚い自筆の習作画帳を荒畑に見せて、その中の適当なものを「直言」に発表するように頼んでほしい、と言った。その中には、赤十字のマークのついた白衣の骸骨と並んで丸髷の若い女の泣いている絵があり、それが「直言」に載せられた。以後彼の絵は、引き続いて掲載された。

5月13日

芥川龍之介(13)、「修学旅行の記」。府立三中、現在全集にも収録。

5月13日

福岡県文字の石炭仲仕7,000人、賃上げ要求でストライキ。

5月13日

有島生馬(22)、横浜港からドイツ船ゲネラル・ローン号で出航、美術修行のためイタリアに向かう。船中で日本海海戦の報を聞く。

5月14日

『直言』第15号発行。

衆議院議員補選において日本社会主義同志の名を以て木下尚江を「吾党の候補者」に推薦し、「故に政界に於ける実際運動の端緒を開かんと欲す」との決意を声明。

しかし制限選挙の下で、「選挙場裡の成敗は吾人の目的に非ず、吾人は只神聖なる幾個の投票を泥土の内に掬(すく)ひ、之を高処に掲げて燦然たる光輝を放たしめんと欲するのみ。其票数は僅かに十個なるも可也、五個なるも可也、三個なるも可也、或は単に一個なるも亦可也。同志諸君、願はくば諸君と共に敢て此の愉快なる運動に力めん」という。

木下尚江の衆議院東京市補欠選挙立候補宣言掲載。

政見綱領は社会主義の一語に尽き、この宿論計画を実行すべき手段は普通選挙の実行にあるとした。

今や日露戦争の苦痛は国民をして普通選挙の必要を自覚せしめ、いわゆる論者と称する輩は滑稽千万にも今さらのように「兵役の義務ある者は選挙の権利無かるべからず」と喋々説教するに至った。されど政府は戦後経常の名で急速に軍備の拡張を計画し、資本家的勢力もまた更に政権を掌握し、日本国民を提(ひつさ)げていわゆる東洋問題の渦中に投ぜんとし、帝国主義の勃興は今や必然の趨勢にある。而して普通選挙の実行は帝国主義者のもっとも恐怖排斥するところである、なぜなら無権利の賤民が多くなければ資本家政治、軍人政治は決して成功しないから。故に普通選挙は今後、政界の勝敗を決すべき天王山であって、苟(いやし)くもも民政の発達、社会の進歩を希う者は必ずまずこの天王山を占領しなければならぬ。


5月14日

ロシア・バルチック艦隊、ヴァン・フォン湾発。予定通り運搬船7隻が離脱し合計50隻。

5月14日

露、ポーランドの学校にポーランド語使用許可。

5月16日

平民社、木下尚江を座長として数十名で加納豊を査問。スパイたる確たる証拠ないが、運動より退かせる。

5月16日

衆議院東京市補欠選挙の開票。木下尚江は32票。

東京市15区のうち、木下に投票した10区と票数は次の通り。

京橋:9、日本橋:9、神田:6、麻布:2、浅草:1、本郷:1、牛込:1、深川:1、芝:1、小石川:1

5月16日

(漱石)

「五月十六日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Hamlet を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。今日の日本の文芸批評家の態度に対し、辛辣な批評を試みる。

五月十八日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時あら十二時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)

5月16日

米、ヘンリー・フォンダ、誕生。

5月17日

香港領事野間がドイツ船船長情報として、バルチック艦隊の出港を伝える。

5月17日

英外相、日英協約を攻守同盟とし適用地の拡張(インド)を提議。

24日、日本、強化を閣議決定。

5月17日

イタリアで鉄道スト(~20)。

5月18日

大阪商船(株)、大阪~清の漢口漢航路開設。

5月18日

大杉栄(20)、かつて通った仏語学校の旧師、安藤忠義に卒業後の秋色相談の手紙を出す。

「 - 私はかつて先生が庄司先生とともに、四谷および牛込に立てておられた仏語学校の、創立以来解散の時まで、先生の御高授を仰いでおった者であります。その後、外国語学校に入学しておりますが、いよいよこの七月に卒業することとなりましたので、卒業後の方針につき、少々お願い致したいことが御座いますが、何時頃お邪魔に出てよろしゅう御座いますか、何とぞ御閑暇の時間をお知らせ下さいませ。 - 」(大杉栄書簡集三)(安藤忠義宛の明治三十八年五月十八日付の手紙)

平民社の活動に参加し始めたが、荒畑寒村のように社会主義伝道行商に出るようなことはなく、自ら働いて生活の資を得ようとしていた。

5月18日

バルチック艦隊、日本に石油を運ぶ英国船「オールドハミヤ」臨検。偵察船の可能性ありとして続航させる。石炭が涸渇しておりロシア船から給炭のため、兵200を派遣。艦隊にはお荷物となる。


つづく

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